34.今すぐ、今すぐ、俺のところに来い
千絵里はもう来ないと思う、英児もそう呟いた。
「千絵里が最後に来たのは数日前。俺の家に通っては来るんだけれど、癇癪が収まってきた頃を見計らって玄関の鍵穴を変えたんだよ。ちょうど業者が鍵穴を交換しているところに、千絵里が自宅からやってきてさ。黙って静かに見ているから、もう解ってくれたと思って『今度こそ、鍵を返してくれ』と言ったら、すんなり返してくれたわ」
そして英児がその時の千絵里さんを語る。
『馬鹿じゃないの。もっと早く変えればいいのに。もっと早く私から鍵を奪い取ればいいのに。彼女だって連れ戻さないでほったらかしで。馬鹿じゃない』
淡々と仕事をしていた時のあの顔に戻って、鍵を自分から差しだし返してくれたとのことだった。
「そしたらすぐに帰っちまって。それから来ないんだよ」
じゃあ。今日、病院で会った千絵里さんは……。もう彼女の中では怒りの炎も鎮火して、終わっていた彼女だったんだと……、琴子は泣きそうに頭を下げてくれた彼女をまた思い出していた。
「資料がなくなったって。その気になったってことよね」
「わかんねえけど、そう思いたいところだな。でも確かでもない。それでも、アイツが勝手に入ってくることはもうないし、訪ねてきても二度と会う気はない」
琴子も感じた。もう……、彼女は二度と龍星轟に来ない。その英児の提案を最後の想いとして受け取って、去っていったのではないだろうか。
いままで父親に従うしかなかった彼女には考えられない提案だったかもしれない。でも、八方塞がりで目が見えなくなった彼女には、第三者が見せてくれた思わぬ目から、何かが見えたのかもしれない。
まだ気になっていることも聞いてみる。
「どうして、あのカフェにいたの」
「千絵里がもう来ないと判断したんで、やっと琴子を迎えに行こうと今日決めていた。仕事が終わってからあの煙草屋で待ち合わせようとしたら、先客にあのクーパーが駐車していたんだよ。仕方がないから煙草屋を曲がった路地で駐車した途端に琴子がやってきて、そのクーパーに乗っていってしまったから……」
そこで英児が口ごもる。琴子も唖然とした。つまり『慌てて後をつけてきた』ということらしい。それであのカフェで離れて様子を見ていたら、琴子がプロポーズをされたと判るような指輪を手にして眺めていたので、どうにも我慢が出来なくて割って入った――ということらしい。
「やだ。本当に私が受け取ると思ったの?」
「だってよー。俺、おまえに嫌な思いさせたし……それに……前カレ? なんか洒落た男じゃん。俺より若そうだったし、琴子に似合ってるっつーかさあ。俺なんか、なあ……」
琴子の心を揺り動かした兄貴らしくない姿になってしまい、そんな気弱な彼なんか見たくないと琴子の心も乱れてしまう。
「やめてよ! 私が知っている滝田英児はそんなくよくよした男じゃないもの」
バリバリと夜空を駆け抜ける雷鳴の中でも、琴子の声が車内で響いた。
英児は目を見開いて、茫然とし絶句している。
「どうして。私は洒落た男に惚れたいわけじゃないし、これからだって貴方と一緒にいたいって気持ち、全然変わっていないんだから! むしろ、前よりずっとずっと、今度こそ、貴方のそばから離れたくない!」
また涙が溢れだす――。
「英児さんは、そのままが一番素敵なのに、愛しているのに。どうしてそんなこと言うの? 私、そのままの貴方が大好き。その作業着を着ている指先が汚れている、煙草の匂いがする、汗の匂いのする……」
「琴子……」
ついに泣き崩れた琴子を知り、英児はこのスカイラインを道路の脇に停めてしまう。
暫く俯いている英児が、何かを言おうとしている。でも、躊躇っているようでやめてしまう。
「なに、どうしたの」
涙を拭う琴子と目が合うと、どこか降参したように英児が笑う。
「だってさ。それが俺のコンプレックスなんだよ」
「……ヤンキーで走り屋だったことが?」
「そう。学歴がなくて薄汚れた車屋だってことが」
また琴子の胸の中が『そうじゃない!』と荒れ狂う。
「どうして! 貴方は立派な経営者だし、車好きの人達だけじゃなくて、いろいろな人たちに信頼されているじゃない。うちのジュニア社長だって、貴方なら私を任せて安心、『いい男だ』と言ってくれているのよ。判断力だってあって、私と母がそれでどれだけ貴方に助けられ……」
もっと自信を持って。私の大好きな英児さん。そんなつもりで言い募っていると英児が遮った。
「言われたんだよ! 元ヤンみたいな男のくせにって!」
あの眉間に深い皺が刻まれる怖い顔で英児が怒鳴った。琴子も卑下する彼が情けなくて、そうじゃないと安心してほしくて興奮していたが、それを遮る迫力に口をつぐんでしまう。だが暫くして、運転席で項垂れている英児に尋ねる。
「だ、誰に。そんなこと……」
「……千絵里に決まってんだろ。婚約が解消になった時に。元ヤンキーのくせにって言われたんだよ。しかも母ちゃんの目の前で。『そういう育ちだ』って言われたんだよ。母ちゃん後で泣いていたもんな。私が悪かったてさあ」
……言葉を失う。結婚を決意するほど愛した人から、そんな傷を負わされていただなんて。
それでやっとやっと、英児が常々『俺みたいな男でいいのか』と琴子に確かめていたことを思い出した。だから結婚をほのめかされると、とても躊躇っていたことも。やっと分かった気がする!
「琴子だってそうだろ。初めて煙草屋で会った時、俺から走って逃げた」
ドキリと琴子は硬直する。確かにそうだった。一目見た時、嫌悪を持っていた。
「それは……。付き合ったことがなかったし、それまでヤンキーの人て怖いと思っていたから」
「だから。コートを渡した時も、一歩踏み込めなかった。蛍を見に行った夜も電話番号をもらうのが精一杯だった。でも琴子から、また誘ってくれると絶対にもう一度会いたいと言ってくれてすげえ舞い上がっていたんだよ」
「そ、そうだったの。わからなかった……」
「でも。思った通り、優しくてしっかり者で、生真面目すぎて一生懸命すぎて。だから俺、本当におまえに触りたくて触りたくて」
それで、あの紫陽花の夕……。
「……私。あの後、自分のことすごく嫌な人間だって思ったことがあるの。人を見かけで判断しちゃいけないって。英児さんが教えてくれたんだから。英児さん、とっても格好良くて素敵で、私も蛍の夜の時、このまま家に送られるだけで終わったらもう二度と会えない、もう一度会いたいと思っていた人と二度と会えなくなるのは嫌だと思っていたの。だから……絶対に次も会いましょうって食事に誘う約束をしたんだから」
え、そうだったのかよ?
英児も驚いた顔。
「そうよ。いままで私が英児さんのこと好きって言ったことも、愛しているって言ったことも、信じてくれるなら二度と『俺なんか』と思わないで。そうじゃないと今度は私が怒るからっ」
彼みたいに迫力ある顔で食らいつけないけど。でも琴子も眉間にしわを寄せて英児を睨んでみた――。
まだ雷鳴が止まない豪雨。運転席から英児の手が伸びて、琴子の頬に触れた。
「琴子……。雨に濡れて冷えているかと思ったけど。熱いんだな。俺が怒らせたからかな」
確かに。濡れて最初は震えていたが、いまは驚きも怒りも泣きたい気持ちもいっぺんに溢れているので、琴子の頬は熱かった。
「怒ってこんなほっぺた真っ赤にして」
大きな手が琴子の頬を撫でながら、そして目の前に、あの笑顔が現れる。あの優しい目尻のしわが寄る、柔らかな……。
「怒っても。かわいいんだもんな、琴子はさ」
笑っているけど。気のせいか、英児の綺麗な黒目が潤んでいるように見えた。その目に見とれていたら……、もう英児に唇を塞がれていた。
冷たい舌先だった。雨に濡れて冷えているのは英児のほう。なのに、琴子の身体と唇は熱い……。
「ん……エイジ……」
琴子も彼の黒髪の頭を抱き寄せ、その冷えている唇を暖めるように忙しく愛した。
「熱いんだな、琴子って。ほんとうは……」
徐々に二人の温度が溶けあうのがわかるまで、長く唇を愛し合った。
膝の上では、英児の長い指と琴子の小さな指がきつく絡み合っている。
「貴方を抱きたい」
琴子からいうと、また英児が一瞬だけ面食らった顔をしたが、すぐにくすりと笑い出す。
「俺なんか。琴子を素っ裸にしたい。今すぐ」
琴子も笑ってしまう。もう、いつもの悪ガキ兄貴に戻ってくれていたから。
「どこか連れて行って」
彼の黒い目を見た。まだ龍星轟に帰るには少し躊躇いがあるから……どこかと言った。それでも英児がどうしても龍星轟というなら、覚悟をして帰ろうと思った。
英児の目が、久しぶりに野性的にきらめいた。あのイタズラな兄貴の顔で言った。
「わかった」
すぐに運転席に戻った英児が、再び雨の中、スカイラインを発進させる。
まだやまないどしゃぶりの雷雨。時たま夜空を激しく走る稲妻が目の前に。轟く雷鳴の中、英児は国道から峠の手前で真っ暗な林道へスカイラインを走らせ始めた。
緑の木々が鬱蒼としている山の奥へと入っていく。街灯も少なく、民家もない。伸びきった夏草ばかりの林道。そこをさらに脇の小道へと英児が入っていく。
月も星もない雨の夜だから、本当に闇夜へと忍んでいく感覚。
琴子の胸がドキドキとしている。暗くて怖いのもある、でも、英児が考えていることが判ってしまい……。そしてそれはいままでの琴子なら躊躇うことだけれど、でも、いまは『まさにそれだ』とでも言いたくなる心境だった。
こんな雨の夜、誰も通りもしない真っ暗な林道。その片隅にスカイラインが停車する。
「嫌なら、他に行く」
エンジンを切った英児が、少し心配そうに琴子を見た。でも琴子は首を振る。
「大丈夫。誰にも邪魔をされたくないし、まだ……龍星轟は……。でも他の部屋も嫌。ここがいい」
スカイラインの中でいい。
そう微笑み、琴子からサンダルを脱いだ。デニムのショートパンツのベルトを自ら外し助手席で脱いでしまう。それを確かめた英児も腰のベルトを外す音。
湿った服を躊躇わずに脱ぎ合う。ショーツも、ロングのダンガリーシャツも、ブラジャーもなにもかも取り払い琴子は自ら全裸になった。
「シャツくらい羽織っても……」
ティシャツを脱いでいる英児がそう気遣ってくれたが首を振り、琴子から運転席へと向かう。
まだ脱ぎ終わらない男の身体の上に、女の白い裸体が乗る。
雨ばかりの暗闇とはいえ……。一糸まとわぬ姿で自ら男の身体の上に乗ることには、まだ恥じらいが残る。でもいまは、なにもかもを英児に投げ出したい。
運転席のシートに身を沈めている英児の目の前は、差し出されるように乗っている女の裸体。だからなのか、男の目、とても満足そうに輝いている。暗闇でも判る。
「琴子……」
彼の大きな手と太い指が、琴子の白い太股を掴んだ。柔らかな女の肌に逞しい腕が伸び、その手が白い皮膚をすべらかに辿っていく……。英児の太い指先が柔らかに食い込んでいく感触を知り、琴子は甘い息を小さく吐いた。
雨で湿った琴子の黒髪を英児の手がかき上げる。頬に沿っていくその手に琴子はそっと口づける。目の前の彼へと眼差しを戻すと、暗闇のはずなのに本当に天然石のように黒々と光ってみえた。
「今すぐ、」
彼の頬も温まって火照り始めているのが判る。唇も、手も。
彼の熱い手先が、琴子の肌を滑っていく。乳房から、なめらかな腰、そして後ろに回って背中も。狂おしそうに撫でてくれる。そして英児は琴子の胸元に頬を寄せ掠れた声で繰り返した。
「もう我慢できねえよ。今すぐ……、もう今すぐ、俺のところに来いよ」
俺のところに来い。もう二度と離さない。琴子はずっと俺のそばにいるんだ。そう繰り返している。
彼から『躊躇い』という重荷が下りた証拠。重荷がとれたらいつもの彼らしく直ぐに決断。『すぐ俺のところに来い』。
そして琴子は満ち足りた微笑みで、そんな彼の黒髪の頭を胸元で抱きしめる。きつく。
「うん。行く、貴方のところに……行く。私もずっとずっと貴方のそばにいる。もう、一人にしないから」
ゴロゴロと響く雷鳴、時折、窓の向こうで雲間が青白く光る。その瞬間だけ二人の姿が映し出される。その時、互いの黒い瞳と眼がとても近くで絡み合っていた。
琴子。
英児……。
裸の女を上にして、素肌になった男と女がきつく腕と腕を絡めあい、肌を寄せ合い、そして激しい口づけを何度も何度も繰り返す。むしろ離れなかった。口づけが会話のように途切れず、でも互いの欲しいものを探り合っている。
男の指先が女の熱を探して、女は男の硬くなる情熱を探る。その渇望に突き動かされ見つけたものを確かめ合って、そして二人は自然にそれを共に引き寄せて、生物のすべてがそうするようにこの暗闇の木々の中、言葉で確かめ合わずそのままひとつになる。
英児……。琴子は儚く呟く。
ずっと離れていた灼けるような甘い痛みに、熱い吐息しかはけない。はしたなく淫らな女にならないようにしながらも、だめ……、崩れそう。琴子は英児に愛されながらそう感じている。
「我慢すんなよ。雨も、雷も、緑が……おまえを隠してくれている。見えてるの俺だけだ。だからもっと……」
だから。そんな堪えていないで。唇を噛みしめていないで、もっともっと……。俺に琴子を見せてくれよ。
英児の声も掠れて、時々裏返るほど夢中になってくれている。
熱く繋がるそこにいつもの感覚が蘇る。皮膚と皮膚が琴子の身体の中でひとつに溶けあってくっついてしまうような……。ああ、あの時の。あの夜の続きだと琴子は思った。邪魔がはいってしまったあの夜が帰ってきた、いま。やっと素肌で繋がっている。しかも今夜は森の中。雨の中。とろけるように英児に愛されているのに、琴子はふと思った。この森の生き物も。雨の夜でも愛し合うのだろうかと。いまの私達のように……。雨の中でも、愛し合いたくなったら。すぐに愛し合うのだろうか。
車の窓に蕩々と流れる雨が、まるでカーテンのよう。暗闇と、雨と、雷鳴が、こんな動物みたいに愛し合う人間の私達を隠してくれる。そっと愛し合うことを許してくれる。
あの時、無くしてしまった、止まってしまった時が動き出すかのようだった。
切り取られてしまったあの瞬間が、いまここに舞い降りてきた。戻ってきた……。
ただ雨の音の中、鬱蒼とした緑と闇に忍んでいる中。ただただ本能で熱愛を身体中で感じている琴子は、自分が『琴子』ではなくて、ただこの男の為に共にそばにいる女なのだと思った。それは唯一無二の『つがい』。彼等と同じ営みで私達もまた身体を繋げて、愛しいものへと継いでいく。その唯一無二の――。
今夜、堪らなくて爪を立てているのは女の琴子ではなくて、男の指先。琴子の柔らかな肌に英児は指を食い込ませ、力を注ぎ込んでくれて……。
最後。奥に感じたもの。あの時、得るはずだった英児の思いがじんわりと琴子の身体中に広がっていく――。
行為の絶頂にたどりつき、琴子は途端に力が抜けてしまい英児へと崩れる。彼のほうが力尽きているはずなのに、そのままがっしりと抱き留めてくれる。
「琴子」
英児の声も息切れている。どっさりと彼の肩先に崩れた琴子だったが、そのまま力無くとも英児の首に肩に抱きついた。
「……私、もう大丈夫」
あの瞬間を取り戻せたから。英児の熱い素肌を抱きしめ、琴子はそっと肩先で静かに微笑む。
「本当におまえだけだからな。もうどこにも行くなよ。俺も行かせない」
熱い腕の中にいる琴子の黒髪を、優しく何度も何度も英児は撫でてくれる。そのまま、抱きついて動かない琴子の耳元で言った。
「お母さんに、挨拶しに行くな」
熱い唇が、耳たぶに口づけてくれる……。
「うん」
素肌のまま彼にぎゅっと抱きつく琴子の目尻に小さな涙が零れていた。
「でもさ。俺、実は週末から年に数回の出張にいくんだよ。東京に」
「え、そうなの」
でも大丈夫とばかりに、琴子を胸の中に強く抱きしめてくれた。
「モーターショーを見たり、メーカー商品の展示会や、買い付けをする時期なんだ。東京に半月ほど滞在して情報を収集しないと、こんな地方だからこそ、地域のユーザーの為に最新情報を肌で感じてこないとだめなんだ」
なるほど。と、琴子も納得。だからこのようなローカルではあるが『ここらの車好きがまず行く店』と言われるのだと。
「うん、待ってる」
「帰ってきたら、琴子とお母さんのところに真っ先に行くからな」
彼の肩先で頷いた。
外は、さらさらと優しい小雨。空にも雲の切れ間、緑の木々の上に小さな星が見えてきた。
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