15.俺、独りぼっちなんだ

 

 サンダルを脱いで玄関を上がった琴子は、そのまま先にあるドアを開けた。

 そこはよくあるリビングで、テーブルと小さなソファーとテレビがあり、そして対面式のキッチン。ごくごく普通で、最小限のインテリア。そして思ったとおりの『男の匂い』に溢れていた。

 英児の部屋らしく煙草の匂いはもちろん、あの匂いも。

 ソファーの背には、いつものデニムパンツが放ってあったりして、男らしい暮らしぶりがうかがえる部屋だった。

 だが、ひとつだけ。ものすごい違和感のあるものが。リビングなのに、大きなベッドがドンと置かれている。しかもダブルベッド……。一人暮らしのはずなのにダブルベッド。

 琴子の中に、ふとしたものが浮かんでしまう……。でも、いまは考えないようにした。

 窓の向こうは、遠く海が見える。白波をひきながら進むフェリーにタンカーが明かりを灯して、茜と紺碧の夜空が溶けあう内海をゆく。

 外からガラガラとシャッターが降りる音がした。暫くすると玄関が閉まる音も聞こえてきた。

「お待たせ」

 作業着姿の彼が二階の自宅に戻ってくる。だけれど、日暮れたばかりの薄暗い部屋の真ん中に、琴子が佇んでいるのを見て驚いた顔。

「なんだ、灯りぐらいつけてもいいのに」

「海と空が見えて綺麗だったから」

 彼がちょっと呆れた顔をしたが、すぐに微笑むと暗いまま琴子のそばに来てくれる。

「遅くなってごめんな」

「ううん。私も残業が続いていたでしょう。出かけるまで一日ゆっくり休めたから、大丈夫」

 そっと背中から抱かれた。長い腕が琴子の身体をぎゅっと抱きしめる。そして耳元にいつもの口づけ。

「今日もまた……これ、俺が好きそうなの着ているな」

 ふわふわとしたシフォンのブラウス。黒地に白い水玉模様、胸元はふんわりリボンのボウタイブラウス。それに白いスカートを合わせてきた。そのふんわりリボンを、早速、英児がほどいてしまう。

 本当に迷いがなくて、手が早い。しかも彼の手は素手ではなく、薄汚れた整備用の手袋。それで琴子のブラウスのリボンをゆっくり堪能するかのように引っ張ってほどいている。それどころか、やっぱりすぐに琴子のあごをぐっと掴んで強引に自分のほうへ向けると、見つめ合う間もなく唇をふさがれてしまう。でも。彼のこと責められない。琴子もすごく待っていた。だから薄闇の中、すぐに彼に抱きついて同じように彼の唇を愛した。

「……琴子」

 はあ、と切なそうな彼の吐息。それが徐々に荒くなって、それにつられるかのように英児の手が琴子の胸元に触れた……。

「はあ、だめだっ。さすがにこのまま琴子を抱けないわ。シャワー浴びてくる」

 彼が離れる。

「いいのに。私、英児さんなら平気」

 むしろ、今度は琴子が思う。『熱気の中、働いて働いてくたくたになった男の身体の匂いはどんなもの?』なんて。ちょっとドキドキしてしまうあたり、もうなんだかこの男の人にやられちゃっているんだなと呆れてしまうほど。

「いや、汗まみれの身体じゃなくてさ。こっち」

 そして琴子の目の前で、整備用にはめていた手袋を取った。外の灯りで手だけが明るく見えるところで、彼が琴子にそれを見せた。……爪先が黒かった。指も爪の中も、油でべっとり。

「真っ黒」

「だろ。油とかいろいろ入るんだ。爪専用ブラシで洗わないと落ちない。これで琴子には触れないだろ」

 そう言って笑うと、彼は琴子の頭をぐりっと撫でて離れていく。パチンとした音で灯りがついた。彼は奥にある扉に消えていく。やがてシャワーの音が聞こえてきた。

 琴子もほっと息をついて、気持を切り替える。テーブルに、母のお弁当を並べる準備に取りかかった。

 そのうちに、短い時間で英児が出てくる。濡れた髪に首にはバスタオル、そしてティシャツと夏らしい短パンをはいて出てきた。

「相変わらず、うまそうだな」

 テーブルに整った料理を見て、彼がまた無邪気な顔。母に見せてあげたかった。

「お茶とかある?」

「ペットだけどある」

 対面式キッチンの向こうにある冷蔵庫へ英児が向かう。そこから大きなペットボトルとグラスを二つ持ってきてくれた。

「ビールとか飲まないの? 今日みたいな暑い日は、お仕事の後は美味しいんじゃないの?」

 母が入れてくれた紙皿に、いくつかのおかずを取って準備をしていると、英児はソファーではなく床に跪いて箸を持っている琴子のすぐ隣に座り込んでしまった。その途端に、柔らかいシフォンブラウスの腰を掴まれ、英児がニンマリとした笑みを浮かべながら抱きついてくる。

「なに、琴子は今日、俺んとこに泊まる気なのか」

「え。……そうしたいけど、あの、」

「だろ。帰らないと、お母さんが待っているだろ。いくら俺と琴子がいい歳の男と女でも、母親にとってはいつまでも娘なんだから。酒を飲むと運転が出来なくなるんだよ。琴子を送って帰れないだろ」

 はっと琴子も気がつく。

「それに車を乗り回すから、滅多に飲まない」

 英児の手が腰からさらっと離れる。片膝をたて、琴子の隣でゆったりくつろいだ英児の手が、母が詰めた重の中にある空豆をつまんだ。

 琴子に触りたくて、ちょっとふざけた顔をしたり、してやったりの得意顔で琴子を腕の中に押し込んで勝ち誇っている彼が、そうはせずに遠くを見た。窓の向こうの、もう消えてしまいそうな夕闇を見ている。

「母ちゃん、大事にしろよ。俺も、琴子の母ちゃんは泣かせたくないからさ」

 いつにないしんみりとした寂しい横顔に、急に琴子の胸が締め付けられる。こっちまで泣きたくなってくる。

「うん、大事にする。お母さんも、英児さんもね。いま、私にとって大事な二人だから」

 母が作ったおかずを乗せた紙皿を、彼にそっと差し出したのだが……。その手を怖い顔している彼に掴まれる。

「な、なに?」

 睨まれるように見上げられたので、琴子はドキリとさせらる。

 だが次には、あの英児が琴子の胸元に飛び込むようにして抱きついてきた。

 ふわりとした水玉のリボンがあるそこに、胸の谷間に英児が顔を埋めて頬ずりをしている……。

 いつも堂々としている大人の男、頼りがいがある兄貴みたいな彼なのに。何故、そんな思い詰めた寂しい顔で抱きついてきたのか、琴子は困惑した。

「柔らかくて優しいな。ずっとこうしていたい」

「どうしたの」

 指先で、胸元に抱きついてる彼の濡れた黒髪を琴子は撫でた。それだけで、彼がまたぎゅっと琴子に抱きついてくる。

「俺、独りぼっちなんだ」

 え。琴子は耳を疑った。

 そんなはずはないでしょう。後輩の篠原さんとか、このお店の仲間とか、それに沢山の人に慕われていることを最近知ったばかりの琴子には、英児がまた琴子が困った反応するのを見たくて、ちょっとふざけて言っているとしか思えなかった。

「だよな。わからないよな、やっぱり」

 琴子の戸惑いと心の声が聞こえたかのような呟きが返ってきてしまう。

「まあ、いいや。頂きます」

 箸を持ち、英児がやっと食事を始める。

「うん、うまい。おふくろさんのような手料理、本当にあの時、久しぶりだったんだ」

「母も手料理を食べて欲しかったみたい。英児さんが綺麗に食べるから、とっても喜んでいたのよ」

「幾らでも食える」

 英児自ら、お重のおかずを取り始める。

 そのうちに、小アジの南蛮漬けを取ってくれ、ぱくりと食べてくれた。

「美味い。今日みたいな暑い日にはぴったりだ」

 続けて二~三尾頬張ってくれたので、琴子も頬がゆるんでしまう。

「それだけ、私が作ったの」

 南蛮漬けの野菜をつまんだ英児が、『マジかよ』と琴子を見た。

「あのさ。この前の太刀魚の天ぷら、すごい美味かったよ。胡椒がふってあって」

「ほんと? それなら今度、ここで揚げたて作ってあげる」

「ここで作ってくれる……?」

 目を丸くして英児が止まってしまった。

「え、なに。どうしたの? いけなかった?」

 英児が箸をパシリとテーブルに置いた。

 そしてまた、あの遠い目で夜のとばりが降りた空を見つめている。

「おまえの天ぷら、美味かったよ。また食いたい」

 嬉しそうに言ってくれたのではなく、哀しそうに言われた。寂しそうな英児の横顔に、琴子の胸がざわつく。

「俺、本当のこと言うと。突然だったけど、お母さんと琴子が用意してくれた食事の席に誘ってもらえて、あの夜、すごく嬉しかった」

 『俺、独りぼっちなんだ』。

 琴子に抱きつくために、ふざけて言っている? なんて疑ったあの言葉。やっぱり嘘じゃないと琴子は確信してしまう。

「お母さんも琴子も、お父さんが亡くなって寂しかったかもしれないけど。でも、二人が俺のために用意してくれたテーブルは、すげえ、あったかかったよ」

 ざわざわと波立つ琴子の心。琴子の胸元に抱きついてきた英児の顔を思い出し、琴子はまた泣きたくなってくる。

 一匹狼、でもその生き方に感銘して沢山人が彼のところに集まる。そんな見かけとは裏腹な英児の本心と姿。紛れもなく、彼は孤独を抱えていると琴子は知ってしまう。

 だけど、そんな彼がゆっくりと琴子を見る。そして腰に手が回り、そっと寄せられる。琴子も望まれるまま、彼のそばへと寄り添う。

「二人とも、イメージ通り。あったかい人で俺、なんか癒された」

「やだ。どうしちゃったの……」

 今度は本当に涙が浮かんでしまった琴子。

「なんで琴子が泣くんだよ」

 肩先に頬を寄せていた琴子の瞳をみて、英児の手が頬に触れる。

「だって、英児さんがそんな顔をするから」

「してねーよ」

 どうして強がっているのだろうか。琴子に哀しい目を見せて、琴子の肌のぬくもりが欲しいと抱き寄せて離さないくせに。

「私じゃない。英児……が泣いているんじゃない」

 思わず、琴子から彼を抱きしめた。英児がそのまま琴子の胸の中に埋もれる。 「泣かねえよ」

 口ではそう言う彼だったが、そのまま琴子の胸元にくったりと頭を預けてくれる感触。

 それでも彼が琴子の胸で安らいだのは一時だけ――。すぐに琴子の胸を突き放すようにして、離れていってしまった。

 だけれど律した英児は、またいつもの男らしい黒目を輝かせ、今度は琴子が彼の胸にぐっと抱きしめられてしまう。

「琴子がいてくれたら、もう泣かねえよ」

 やっぱり泣いていたんじゃない。涙はなくても。心のどこかでこの人も泣いていた?

 聞きたくても、それを悟られたか『何も聞くなよ』とばかりに唇を塞がれてしまう。琴子になにも言わせないためなのか、息継ぎもさせてもらえない長いキス――。

「こういうところ。ほんと琴子はきっちりしているよな」

 やっと息をさせてもらえたかと思ったら、英児の手がまた琴子のブラウスのリボンへ――。

「俺がさっきほどいたのに。ちゃーんと結び直している。決して乱れた胸元のままにしておかない」

 俺、そんなおまえが好きだよ。

 いつもの余裕の笑みに戻っている英児が、リボンの端をつまむ。

「琴子が綺麗に直した結び目を、俺が何度も台無しにして淫らにする」

 そう言って、また手が早い英児がさらっと水玉ブラウスのふんわりリボンをほどいてしまう。

「お母さんにちゃんと返すけどさ。今は、俺の琴子だから」

 え、なんか。やっぱり私、弄ばれていない?

 そう思うほど、いつもの手が早い彼に元通り。

 本当に、この男の人どんな生き方してきたの?

 始まったばかりの恋。まだ全てを知らない恋人。でも……彼が好き。彼が泣きそうになったら、本当に胸が締め付けられたから。

 だから、彼の言いなり。ずるい。女は好きになった男のためになにかしてあげたいのに。そんな寂しいなら、私がそばにいてあげる。私が貴方をあっためてあげるって。

 だから。あの大きなベッドに連れて行かれ強く押し倒されても。琴子は彼に抱きついて、彼の好きにさせる。

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