22.これで完全に、俺の女


 そんな店長自らの、ちょっとした手ほどきを受けた夕のこと。

 もうすぐ店を閉める時間。整備士がピットを片づけたり、武智さんが事務所を掃除したり。琴子も手伝っていると、外仕事の整備士達が事務所に続々と戻ってくる。

 最後は滝田店長を筆頭とする店じまいの挨拶を兼ねたミーティングがある。売り上げに、その日の注意点に反省点などなど。一日を皆でまとめるべく話し合う時間だった。

 それが始まると、琴子はすっと事務所裏のドアへと消えていくことにしている。そこは従業員の時間だから、首はつっこまない。そして二階自宅で英児の帰宅を待つ。そのパターンだった。

 なのにこの日。琴子が二階自宅へのドアノブに手をかけた途端、滝田店長に呼び止められた。

「琴子、ちょっといいかな」

 何事かと不可解に思いながら、でも琴子は滝田店長に呼ばれたそのまま、従業員が店長に向かって一列になっているところへ。一番端に武智さんがいる隣に並んでみた。そこで従業員一同が笑い出してしまう。

「あ、従業員じゃないのに。私、ここに立っちゃ駄目……だった?」

 武智さんが笑う。

「従業員じゃないんだから。店長の隣でいいんだってば。もう店長が店先では冷たい顔をするから、琴子さんすっかり遠慮しちゃって」

 そして矢野さんまで。

「そうだ。琴子はさ。タキの嫁さんみたいに構えていたらいいんだからよー」

 また出た。矢野さんの、結婚を急かす親父みたいな嫁さん扱いが。でも、それも最近はよくからかわれることで、整備員の清家さんも兵藤さんも笑っている。

 しかしそこで何故か、矢野さんがとても落ち着きなくうずうずしていた。

「英児、早く。琴子に見せてやれよ」

 それは琴子の隣にいる武智さんも同じで、落ち着きなくそわそわした様子。そして目の前にいる店長の、英児まで。

 やがて英児が、机の上に置いていた紙袋から何かを取り出した。それを机の上に広げ、琴子に見せた。

「これ。俺達、龍星轟メンバーから琴子へのプレゼント」

 それが何かわかった琴子は……、驚きすぎて息が止まったほど。滝田店長の彼を見上げて固まってしまう。

 『プレゼント』。それは、龍星轟の作業ジャケット一式とキャップ帽だった。袖にはちゃんとあのワッペンがついている。

「レディスサイズで初めて注文した。長袖、半袖。そしてポロシャツも特注してみた。キャップも琴子の小さな頭に合うはずだから」

 龍星轟の男達だけが着られるジャケット。今までは矢野さんや英児から借りて、ぶかぶかのジャケットを羽織り店先に出ていた。でも、これは琴子サイズ。琴子用!

「うそ、どうして。いいの? だって、これ……私みたいな素人……」

 英児はちょっと恥ずかしそうにして琴子と目を合わせてくれなかった。でも、武智さんも矢野さんも、清家さんも兵藤さんもにっこり琴子に微笑んでくれる。

「琴子。遠慮するな。おっちゃん達全員で相談して決めたことなんだからよ。受け取ってくれよ。おまえが龍星轟を好きになって大事にしてくれる気持、おっちゃん達にも充分伝わってきたからさ」

 矢野さんの言葉にも、琴子は呆然とするばかり。それでも今度は英児から、龍星轟の制服一式を差し出してくれる。

「べつに従業員になってほしいわけじゃないんだよ、俺達。ただのお洒落で着てくれても嬉しいし、ただ、琴子の気持も俺達と一緒にこの店にある印として、俺達とお同じ制服を持っていてほしいだけなんだ」

 琴子もやっと、英児のデスクへと歩み寄り、ワッペンがついている上着を手に触れてみる。

 初めて見たのは、あの桜の夜。薄汚れた英児の上着に嫌悪を抱いたほどだった。でもそれは、男の汗と信念をしみこませた上着だと知った。車好きの男達が憧れるワッペンがそこにあると後で知った。でも、今は琴子の目の前にも……。

 その上着を英児が手に取った。半袖の上着。襟を持って広げる。

「着てみろよ」

 広げた上着を英児が差し出してくる。まだ戸惑うけど、琴子はこっくりと頷き、店長の前へ。彼の胸元、そこで彼の長い腕が琴子を囲いながら袖を通させてくれる。

「お、ピッタリだな!」

 矢野さんの笑顔。本当にピッタリだった。丈も、身ごろも、襟周りも。どこもぶかぶかじゃない。

「有り難うございます。すごく、嬉しい。大事にしますね」

 礼をすると、 武智さんが拍手までしてくれた。すると矢野さんや、清家さんに兵藤さんまで。事務室に拍手が響き渡る。

「いやー、ますます。タキタの女っぽくなってきたねえ」

「最近、聞かれるよなあ。店長の助手席に乗っている女性は彼女なのかって」

「めんどくせーなー。もうカミさん候補だって宣伝しておけや」

 矢野さんらしい物言いに、『急かすなよ。大事にしてあげてよ』、『そうだよ。急がなくてもいいじゃないか』などと整備士の兄貴二人は矢野さんの急く心を上手く宥めてくれている。こちらは英児をよく見て、暴走する矢野さんを止めてくれる役目をわかっているようだった。

 でも……と、琴子は気を引き締める。嬉しいけれど、あまりにも入り込みすぎるのも良くないかもしれない。ふとそう思うこともある。なによりも――。琴子はそっと英児を見た。やっぱりちょっと困った顔をしている。でも、琴子と目が合うと嬉しそうに微笑んでくれる。そのちょっと困った顔が時々気になる。

「よかったな。琴子」

「英児さん、ありがとう。あの、本当にいいの? 迷惑じゃないの」

「うん。似合っている。一緒に着てくれるようになって嬉しいよ、俺」

 その笑顔に嘘は感じない。彼のそんな笑顔に歓迎されると、琴子もちょっぴり涙が滲んでしまうほど感動のプレゼントだった。


 でも戸惑う顔を見せていたのは何故か。琴子にはちゃんとわかっている。

 恋人の彼女が歓迎されて嬉しい彼氏としての気持ちは本物。でも、もし今の幸せな日々がある日突然なくなったら……? その落差は以前の苦い思い出以上になることだろう。英児はそれを恐れているから、全開で喜べないでいる。

 そんなことになりたくないと琴子も思っている。なるものかと。でも、そこは男と女。何が起きるかわからないことを、この歳になると苦いほど知り尽くしているから、喜ぶ心にブレーキがかかる。だから最後の大きな一歩がなかなか踏み出せない警戒してしまう、英児も琴子もその心境はきっと同じなのだ。

 もう若さという勢いがないからこそ。私達は思いっきり喜べないでいる。どこかで冷めた心を保って。そうして今ある愛を守ろうとしているのだって。

 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 店を閉めた後、今夜の夕食は英児と車でドライブがてら出かけて外で楽しんだ。

 そしてまた、この二階自宅でふたり――。


 夜風にざざっと団栗の葉のさざめく音が、昼間よりずっと近くに聞こえる。

 静かな郊外の空港町。ジェット機の飛行音もない、営業中の喧騒もない。風と葉と、そして時折、夜鳥の鳴き声も遠く聞こえる。


 涼しい風が入るバスルーム傍の洗面所。風呂上がりの琴子はバスローブ姿で、あの寝室で彼とくつろぐ準備中。

『琴子、まだなのか』

 廊下の向こうから、そんな彼の声。

 綺麗に汗を流したはずだけど、ぬるい湯船でゆったり温めた身体は火照っている。少しだけ湿り気が残っている黒髪、しっとり柔らかくなった素肌。今夜も琴子は火照った肌にほんの少しの香りをまとって彼のもとへ。


 寝室に入ると、もう素肌になっている英児が新しいシーツの中、煙草片手にカーレースの録画を見ていた。暗がりの部屋にチカチカと光るテレビ画面。だが琴子が来ると、英児がすぐにぱちりと消してしまう。

 途端に暗くなる部屋。

 それを合図のようにして、琴子は暗がりのベッドサイドでバスローブを脱ぎ、ぱさりと床に落とした。窓からの青い夜明かりに、綺麗になったばかりの裸体が白く浮かび上がる。

「ほんっとに長いな。女の子の風呂は」

「でも、そろそろ慣れたでしょう」

「まあな。それが俺も楽しみなんだから」

 暗がりの中、あの大きな枕に背を預けている英児が煙草を吸いながら笑う。


 半同棲のような日々。当然ながら、ふたりで愛しながら入浴を楽しむこともあった。だがある時、琴子が一人でゆったり入って念入りに『女の準備』をしてから英児の元へ行くと、彼が『全然、違う』と喜んでくれた時があった。肌の温度から、匂いから、柔らかさ。全てが違うと彼は言う。週末の念入りなお風呂なんて、女の子はよくすること。『今までどおりの湯浴み』をしただけなのに、また英児特有の感覚触覚なのか彼は『すごく違う』と繰り返し琴子の肌をいっそう愛してくれる。『待っている時間もいいな。琴子が俺のために綺麗にして、こんな身体になって来てくれると思うとスゲーそそられる』。そう言ってこのごろは『俺、待っている』と寝室で大人しく待っていてくれる。

「こっち、来いよ」

 ナイトテーブルにある灰皿に煙草を消した手を、裸になった琴子に英児が手をさしのべる。

 いつもならここで、裸でも厭わずに彼のところへ抱きついてしまう琴子だけれど。今日はちょっと違う気持――。

「琴子?」

 ベッドサイドで、琴子は素肌に一枚の上着を羽織る。今日贈ってもらったばかりの『龍星轟の半袖ジャケット』。

 裸になった身体にこれ一枚。それを羽織った姿で、大きなベッドで待っている彼のもとへ琴子は向かう。

 今夜の琴子は英児の傍に寝そべらず、枕に背をもたれくつろいでいる彼を大胆にまたぐ。英児の身体の上、膝の上に座り込んだ。

「なんだよ。どうしたんだよ、こんなこと」

 白い裸体に紺色のジャケットを羽織っただけの女が、自分の身体に大胆にまたがっている。そしてその女が英児を見下ろし微笑んでいる。

 どうして――と問いながらも、英児はもう嬉しそうに琴子を見つめてくれる。

「これで愛して。これを着たまま愛されたい」

 そう言うと、英児はまたがっている琴子の胸元へと抱きついてきた。

 窓からの青い夜明かりだけの部屋では、白い裸体と紺色ジャケットのコントラストは強く、ジャケットの開いている身ごろからは、琴子の白い乳房がつんと真っ白く際だつ妖艶な姿。そこに英児は頬を寄せて笑っている。

 彼が胸元から離れ、上になっている琴子を見上げ頬に触れる。その手が指先がゆっくりと降りて琴子の唇に触れた。日々車を愛している指先が、ちょっと試すかのように琴子の唇を割り開こうとしている。いつもはキスで唇で舌先で、女の唇を奪う男。今夜は指先で琴子の唇を侵そうとする。そんな男の指先を、今夜は琴子がゆっくりと口に含んで甘噛みをする。まるでいつも奪われる仕返しをするかのように下になっている男を見下ろしながら噛んだ。男のどこか満足した悦びを滲ませる目元、それを見てさらに女は男の長くて太い煙草の匂いがする指をゆっくり吸った。

 ふうっと英児がひと息。指先を愛撫される男のもう一つの手が、ゆっくりと琴子の胸の膨らみを包んだ。

「負けない女になってきたなあ……」

 英児は言う。可愛く愛されるだけの女じゃなくなってきた。少し前、彼が琴子を抱きながら狂おしい声でそう耳元で囁いたのを、しっかり覚えている。

 タキタの女だもの。車だけじゃない。貴方にも乗り上げて、私、貴方のこと愛していく。

 言葉にしないでそう見つめて心で唱える。それが、やっぱり英児の目にはちゃんと伝わる。

 自分に乗り上げている、龍星轟のジャケットを羽織った白い裸体。英児はそんな女を満足そうに見上げている。

「間違いなく、これで完全に俺の女。龍星轟タキタの女ってわけだな」

「ほんとに?」

「ああ、車屋タキタの女だって、俺の女だって誰に言ってもいい」

 僅かに潤んだ彼の漆黒の瞳。それを見て、琴子から英児の首元にきつく抱きついた。

 熱く見つめあう一瞬、でもすぐにふたりは激しく深い口づけを繰り返した。


 窓から木々のさざめきの風、僅かな夜明かりに忍びながら、裸の男とジャケットを羽織った女は熱く繋がって愛し合う。

 遠く不如帰の鳴き声が聞こえる頃には、龍星轟のジャケットはベッドの片隅に。その傍で白い裸体だけになった女を胸の下に抱いた男が激しく絡んで、女を鳴く声に変えていた。

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