第43話 俤(おもかげ) 前偏

「ねえ、フシギ君。僕は探偵であってカウンセラーじゃないんだよ? そう何度も君の学友の相談役にはなれないと言うものさ」

「わかってるよ、興梠こおろぎさん。でも――」

 ソファ――依頼人が座る席――で少年は口をすぼめた。やおら、顔の前で両手を合わせると、

「今回だけ特別に力を貸してよ、この通り! 一生のお願いだから!」

 ソノ一生のお願いとやらが何度あることか。ビューロの前で眉を寄せる探偵を無視して助手は続ける。

「今回、僕が相談したいのは納季之おさめとしゆき君と言って……」

 実はさほど懇意というのではなかった。納季之は秀才で非の打ちどころのない優等生だ。何より文学をこよなく愛していて、低俗な探偵小説など金輪際読まないと豪語している。志儀しぎが一番苦手とするタイプなのだ

「なんだけど――」

 探偵助手はここで一つ息を吐く。黒猫が窓から飛び降りて膝にくっついて座った。その背に張り付いた桜の花弁はなびらをそっと摘み取る。

 そう、押しなべて時は春。満開の桜の季節……!

「実はね、おさめ君、最近、妹さんを亡くしてね。それで、凄く落ち込んでる」

 もちろん、本人はそれを表には出していない。いつも通りの完璧な中学生を貫いている。

「だからこそ、僕はたまらないんだよ。僕みたいな人間なら、悲しい時はもうぐちゃぐちゃに泣き叫ぶし、腹が立つ時はノアローの髭を引っ張るけど」

「ちょっと待った! フシギ君、それは聞き捨てならないな。ほんとにそんな真似してるのか、君?」

「言葉のあやだよ、依頼人の話の腰を折らないでよ、興梠さん。プロとして失格だよ」

「ニヤ~~~」

「――」

「納君は、自らが築いて来たイメージ……自信に満ちて飄然としたスタイルを懸命に維持しようとしているんだ。他人に弱みを見せたくない心情も僕は理解できる。心理分析は優秀な探偵の資質だからね」

 ここで鼻をヒクつかせる。愛猫も得意な時、同じ仕草をする。

「だからさ、僕なんかが、慰めの言葉を掛けたら、納君はきっともっと傷つくだろう。でも、納君が平気な振りをすればするほど、今納君が味わっているつらい気持ちがヒシヒシと伝わって来るんだ。教室で授業中の背中が泣いてるんだよ。とてもじゃないけど見てらんないや。それで僕は、優しい言葉とかじゃなく、納君が気づかない方法で元気づけてやりたいんだ」

 興梠は読んでいた美術書をパタリと閉じた。

「……君は優しい少年だね」

貴方・・もね、興梠さん!」

 ウインクを返す助手。

「興梠さんは世界中でイチバン優しい探偵だよ。僕はちゃあんと知ってるんだからね! 何度も言うけど、日々探偵助手として人間の本質観察は怠らない。ヒトの神髄を見る目を養ってるんだ。さてと」

 ポケットから写真を取り出した。

「ほら、これが納君だよ。一緒に写ってるのが妹さん。名前は確か、ナッちゃん――奈津なつこさんと言ったと思う」

 志儀は写真をテーブルの上に置いた。自身もしみじみと眺める。

「去年の秋の運動会に応援に来た時のなんだ。写真部の織部おりべから入手した。あいつは隠し撮りの名人さ! 我が中学を訪れる全ての美少女は奴のアルバムの中にある」

 後半部分の情報はともかく、織部某の写真の腕前はなかなかのものだった。

 晴天の秋空の下、兄と笑っている少女がいる。花飾りのついた髪留めがよく似合って、さながら、花冠のようだ――

「……」

「この時はまだ、こんなに元気だったのに。命って儚いものなんだね。結核だってさ。まだ13歳だったって」

 暫く興梠は黙ってその写真を見つめていた。

 やがて、顔を上げ唐突に言った。

「フシギ君。君、《通俗書簡文》という本を読んだことがあるかい?」

「それ、探偵小説? 誰が書いたの? そのタイトルからすると暗号トリックだな」

 (――ヤレヤレ、これだ)

 興梠はチョークストライプの背広のボタンを掛けた。立ちあがって本棚から一冊、抜き取って戻って来る。

「作者は樋口一葉ひぐちいちよう。意外に思うかもしれないが、実はこの作家の、生前・・、唯一出版された書籍なんだ」

「樋口一葉なら僕だって知ってる! 授業で習ったよ。我が国を代表する女流作家、その草分けでしょ?。《たけくらべ》《にごりえ》《十三夜》……どれも有名だよね!」

「うむ。でも、それらは全て死後出版なんだ。生前、ちゃんとした本の形で出版されたのはこの《通俗書簡文》だけだ」

 手の中の本をつくづくと見つめながら、

「この本はね、いわゆる実用本でね。つまり、手紙の書き方を教える手本てほん手解てほどき本なんだよ」

 現在で言うところのHOWTO本テンプレである。

「それがどうしたの? まさか、僕にそれを読んで納君に慰めの手紙を書けっていうんじゃないよね? そんなの御免こうむる――」

「いいから、最後まで聞きたまえ。

 この本は教授本、指南本だと言ったろう? だから、どこまでが編集者の要望で、まだ一冊も本を出していない新人の一葉がその言に従って要請通りに書いたのか、そこのところは僕も不明なのだが――」

「?」

「実は凄い本なんだよ。一葉の天才を納得させる――」

 帝大で美学を修めた探偵は熱く語った。

「いくつもの〈場面〉を想定して、挨拶の手紙とそれに答える返事の手紙、その両方が並べてある。

 それが、息をのむほど素晴らしい。

 2通の手紙だけで、物語なのだ。いや、今、目の前にある現実世界そのものなのだ」

 年始の文や小学校卒業を祝う文、春雨ふる日友に、とか、花のころ都にある娘に、等々設定は多岐に渡る。歌留多会のあした遺失物をかえしやる文、借りたる傘を時雨ののちかえす文、果ては、いなくなった愛犬のことを伝える文まである。

「その中でも、妹を失った友への手紙は戦慄するほど胸に迫る」

 ……去年の今頃、片手で松の木を掴み、もう片方の手にパラソルを持って、それで池の蓮の花を取ろうとしたお転婆な妹さん! 袖口からハラリと零れた紅のハンカチが水面に墜ちる、まさにその様をこの目で見た私です。それなのに、今年は門火に迎えられ新盆の棚の上におられる……

 水に揺蕩たゆとう真紅のハンカチから眼を逸らすと探偵は現実世界に回帰した。


「長い前置きになったね?


 僕が何を言いたいかと言うと、

 つまり、これが僕の返答だ。

 今回の、妹さんを亡くした君の学友が少しでも元気を取り戻せるよう尽力しよう。

 樋口女史に習い、僕もひと肌脱ごうじゃないか……!」


 余談だが。樋口一葉自身も結核で夭逝した。享年24歳6か月。世に残る彼女の名作は、実にわずか十四か月の間に――〝奇跡の十四か月〟と呼ばれている――書かれたものなのだ。





「このたびはお誘いくださりありがとうございます」


 その週末。日曜日の早朝。

 探偵と助手、そして助手の学友、納季之は汽車に揺られていた。

「いや何、助手の海部志儀かいふしぎ君から、君が文学や芸術に造詣が深いと聞いて、もし興味があるならと声をかけてみたんだよ」

 興梠は咳払いをした。

「探偵仕事の助手としては大いに役立っているフシギ君だが、僕の趣味の話し相手にはならないんでねぇ」

「お察しします」

「Gu」

 志儀は喉から変な音――髭を引っ張った時ノアローが出す音によく似ている――を漏らしたが、ここは無言を貫いた。

「興梠さんは帝大で美学を学ばれたとお聞きしました。実は僕も帝大の文科に進もうと考えているんです。ですから、今日は進学に関しても貴重なご助言をいただきたいと思っています。お声をかけてくださり感謝しています」

「君! 僕の助手と同じ年……同級生だというのに……礼儀正しい態度といい、言葉遣いといい、そして、何より将来への明確な展望といい、雲泥の差だねえ!」

「GuGu」

 どーいう意味だよ! いや、しかし、ここは我慢だ。なんせ今回は僕の依頼なのだから。

 興梠さんは演技して心にもないことを言ってるに過ぎない。探偵業にはよくあることサ。



 一行が至った最終地点とは――

 岡山県倉敷市大原美術館だった……!


 この美術館は、昭和5年(1930)、郷土の実業家・大原孫三郎おおはらまござぶろうにより設立された。西洋近代美術の展示を主体とした我が国最初の私立美術館である。

 MOMAの愛称で知られるニューヨーク近代美術館開館に遅れることわずか一年。

 外観も同様のアメリカンルネサンス様式だ。その荘厳な入口前でトレンチコートの裾を靡かせて探偵は言った。

「さあ! それでは、君たち……大いに楽しんでくれたまえ!」


「ちょ、ちょっと、ちょっと、興梠さんっ!」

 ハッシ! 志儀は慌てて探偵の腕を掴んだ。その顔たるや不満いっぱいである。

「納君をさ、慰めてほしいって頼んだけど、こりゃないよ!」

 その納季之は、流石、文学と芸術を愛する少年という言葉通り、興味深げに美術館入口横の《カレーの市民》を見上げている。これは ロダンの彫像也。

「なにがだい、フシギ君?」

「だって……そりゃ貴方あなたは絵画が大好きかもしれないけど。でもね、全ての人間が貴方と同じように、絵さえ見ていたら心が癒されると思ったら大間違いだよ!」

 意地悪く眼を細める。

「これじゃあ、あまりにも手抜きだ! 単に興梠さん自身がこの美術館へ来たかったからじゃないの?」

「探偵助手としては失格だな、フシギ君」

 ピシリと探偵は人指し指を立てた。

「僕の計画が読めないとは情けない」

「へ?」

「まあ、いい。では、改めて――特別にここで君に〈謎〉を出そう。探偵社の助手としての抜き打ちテストだと思いたまえ。日頃から自分が優秀な助手だと豪語している君だ。見事に解いてみせてくれよ」

「なにそれ! ヤブヘビだっ!」

「この美術館の全域――丸ごと1階から2階全て含めて――明らかに普通の美術館とは違う〈特異な点〉が一つあるはずだ。それが何処か見つけ出して僕に報告すること」

「えええええ! 絵画の意味とか価値とかじゃないよね? 僕そんなの丸っきり知らないからね?」

「いや、君にそこまで求めるつもりはハナからない」

 ピシャリと探偵は言い切った。

「安心したまえ。君が芸術に無知なのは承知だ。その種の高尚な問題は出さないさ。これはあくまで君レベルの一般的な問題だよ」

「……あのさ、最近、毒舌がひどくなったよね、興梠さん?」

「〈悪貨は良貨を駆逐する〉のさ」

 探偵は微笑した。こういう笑い方をする時、探偵は凄味がある。ぞっとするくらい男前だ。とても女(と猫)にモテないとは信じられない。失礼――

 その魅力的な微笑の後で、興梠響こおろぎひびきはやや首を傾げて足を止めた。

「だが、そうだな、君の観察では僕は世界でイチバン優しい探偵に分類されているようだから――では、少しヒントを与えよう」

 美術館の玄関前で足を踏みしめて、人造石造りの床から、真っ直ぐに伸びる優美なるイオニア式オーダー柱、そして、その上に乗る威風堂々たる三角ペディメントまで、ゆっくりと眺め渡すと、探偵は言った。

「君が注目すべきは、絵だけではなく美術館の構造だ。この美しい建物全体に広く注意を払ってみるといい。芸術の鑑賞眼というより観察眼が試される〈謎〉だからね」

 言うだけ言うと探偵は身を翻した。今度こそ、トレンチコートの裾が完璧なラインで春の陽光にひらめく。

「では、行きたまえ。僕はゆっくりと美の世界に身を委ねさせてもらうとしよう」

「――」


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