第36話 :7

 身の軽い探偵と助手は苦もなく枝を伝って二階の画家の部屋へ侵入を果たした。

 猫のことを言及しておくと、志儀しぎのポロシャツの懐に入って、こちらも無事に連れ込めた。

 画家・雪宮晧ゆきみやあきらは穢れのない瞳を潤ませて二人を迎えた。

 急いで手帳に記す。


―― 心から感謝します。

    まさか貴方が僕の手紙を読んで、やって来てくださるとは!

   

 迸る思いのたけを画家は手帳に綴った。


―― 正直、今でも信じられない思いです。

    僕はご覧の通り何の力もなく

    あずささんの身の安全を守ってやることなど出来ない。

    でも、何かせずには居られず、無駄と承知であの手紙を書いたのです。

  

その時点では実際にはまだ何事も起こってはいなかった。

だが、目に見えて悪化していく兄と許婚の関係に不安を募らせて震えていた。


―― 兄も昔はあんなではなかったのですが。

    梓さんへの愛情が深すぎて……

    彼女が、自分を愛していないと気づいてからは人が変わってしまった。

 

 愛しすぎる罪……

 愛故に狂う……

 

 興梠こおろぎは瞳を伏せた。

 かつて自分も愛故に罪を犯しかけたことがある。

 人がなんと容易に〈境界線〉を越えられるか身を持って知っていた。

 窓辺に煌いていた少女の薄い肩。

 後から抱きしめた時、鼻腔を満たした甘い髪の香り。

 あの刹那、俺は何を思った? 一思ひとおもいに、いっそ一思ひとおもいに……

 今だって、

 明日だって、わかったものじゃない。

 本当に愛する人を手に入れられるなら、俺は――


「にやああ!」

「つ?」

 

 上等のオックスフォ-ドバッグスのズボンを引っ掻かれて我に返る。

「こら、ノアロー! 目を離すとすぐこれだ! この悪戯っ子め!」

 慌てて助手が黒猫を抱き上げる。

 興梠は画家に向き直った。

あきらさん、一体何があったのか、出来るだけ詳しく教えてください」

 安心させるべく言い添えた。

ひかるさんの方は、今現在、柴崎刑事が追っています」


―― 柴崎さんが!


 画家の瞳に希望の光が過ぎる。


「ご存知ですか、彼のこと?」


―― 勿論です。

    梓さんから、誰よりも信頼できる幼馴染だと伺っています。

    今度の僕たちの件でも親身になって相談に乗ってくださっているとか。


 以下、画家・雪宮晧が語ったこと。


 兄は全身全霊をかけて清水梓しみずあずささんを愛していました。

 そのことがこんな悲劇をもたらすとは……!

 

 兄が変貌したのは、梓さんの心の内に自分が居ないと気づいた時からです。

 誓って、本当に、それまでは愛情深くて面倒見の良い、優しい、兄だったんです。

 6年前に母が逝き、2年前に父が他界して、兄がこの雪宮家の当主となりました。

 梓さんとの婚約が成立したのは父の死後ほどなくでした。

 兄はずっと少年の頃から、家同士で親交のあった清水家の長女・梓さんに恋をしていました。

 だから、彼女の実家の危急を救いたいと本心から願ったのです。

 その上で愛する人と結ばれるならこれ以上の幸福はありません。

 確かにこの婚約に関してはその当初から色々言う人はいました。

 でも、兄の名誉の為に言いますが、婚約した時は梓さんも兄を嫌ってはおらず、妻として生涯の伴侶となることを快く承諾しました。その証拠に、婚約後頻繁に通って来て細やかな心遣いで家のことをあれこれ手伝ってくれました。

 母を失くして女主人が不在だった僕たち雪宮家にとってどれほどありがたかったことか!

 彼女がいるだけで雪宮邸は花が咲いたようになった!

 彼女は太陽です!

 でも、その幸福は長くは続かなかった……


「梓嬢が真実の愛に・・・・・目覚めて・・・・しまった・・・・から!」

 

 少年が叫んだので画家は射抜かれたように体を震わせた。

「柴崎さんが教えてくれました。それが真実なんでしょ?」


―― 梓さんが柴崎さんにそんなことを? 

    そこまで梓さんは赤裸々に語ったのか! 

    包み隠さずに率直に?

 

 明らかに画家は衝撃を受けたようだった。

 やがて感嘆の息を吐いて微苦笑した。


―― 梓さんは、情熱的だからなあ! 

    そこがまた、彼女の魅力なんですが。


 雪宮晧の筆記の速度が鈍ったのは兄について記し始めた時だ。

 肉親について語るのはやはり辛そうだった。


 梓さんが婚約を苦痛に感じ始めたのに気づいてから兄は変貌しました。

 最初は宥めたり機嫌をとったりしていたのですが、その内に恫喝したり、罵ったりし始めました。

 そういう時、僕は自室に籠って自分の無力さを噛み締めるばかりでした。

 このままで済むはずがない。必ずや恐ろしいことが起こる。

 絶望感に駆られ、居ても立ってもいられず――

 

 幼い時から兄の力を借りずには生活できなかった画家は兄に逆らったことがなかった。

 今回も万が一兄に見つかってもわからないような文面で手紙を書いた。自分の絵の写真を同封し――

 ここで晧は嬉しそうに笑った。 


―― あの写真は梓嬢が撮ってくれたんです!


「ええーーっ! 本当?」

 カメラに詳しいと豪語した志儀が声を上げる。

「凄く上手だよ! 正直、僕の父さまよりも!」

 

 清水梓も、写真が趣味の実父の影響でカメラを始めたのだと画家が教えてくれた。


―― 女学校でも写真部に籍を置いていて、

    県主宰のコンテストに入選したこともありますよ!

    ひょっとして梓さんは僕などより芸術家かもしれないな!

 


 その彼女が、良い作品だからもっと自信を持って積極的に画商に売り込むべきだと言って、描き上げたばかりの晧の新作を撮影して幾枚も現像してくれた。

 皮肉にも画家が描きこんだ不安の隠喩には梓は全く気づいていなかったのだが。一方、出来上がった絵の写真を見て晧は気づいた。これを有効に使えないだろうか? 外部から人をこの邸に呼び込むことで現在の緊張した兄と梓の関係を緩和できるかもしれない。勿論、ほんの気休めに過ぎなかったのだが一縷の望みを込め決行した。その際、自分では投函できないため、写真を同封した手紙を紙袋に入れて、窓から投げ落とした。


―― ちょうど朝の登校時刻、小学生が邸の前の道を通るのを待ちました。

    拾ってくれた子に中の封書をポストへ投函してくれるよう窓から身振りで頼んだんです。


「その際、封筒を入れた紙袋に重石代わり・・・・・にキャラメルも入れたのですね?」

 ここで初めて興梠が口を開いた。

「良いアイディアだ。投函のお駄賃にもなるし、まさに一石二鳥です」


―― 良くおわかりになられましたね! 流石、探偵だ!


「え? 興梠さんの正体を知ってるの、晧さん?」

 

 吃驚した志儀を見て画家は力強く頷いた。


―― 勿論ですよ。

    こんな体の僕です。

    幼い時から趣味は絵を描くことと読書でしたから。

  

 画家が目配せして示した書棚には画集に混じって探偵小説が並んでいた。『新青年』『ぷろふぃる』『ロック』『宝石』『探偵文学』から『シュピオン』に至る雑誌類も……!

「ははあ! 貴方もあの雑誌の特集記事新時代の探偵たちを見たんだね! 興梠さんのあの気障きざったらしいスーツの写真を?」

「フシギ君、それはもういいから……」

 でも、と画家は白状した。キャラメルとともに投げ落とした袋には、実は手紙が10数通入っていた。

 興梠以外は全て画商宛だった。もともと絵を写真に撮った目的は画商への宣伝用だったし、絵に詳しい画商の方が何事か察して連絡をくれるかと期待した。探偵小説ではあるまいし、よもや、現実に探偵が動いてくれるなどとは露ほども期待していなかった。


―― ですから、貴方がいらっしゃった時は本当に嬉しかった!


「だが、一足遅かった」

 

 ハッと身動みじろぎして画家は唇を噛んだ。


―― その通りです。


 探偵がやって来る前に悲劇は起こった。

 6日前の午後、清水梓は雪宮暉ゆきにやひかるにきっぱりと婚約破棄を申し出た。

 例によって画家は二階の階段の上から階下の二人のやり取りを心配しながら聞いていた。

 

 激昂した兄の怒声が続いた後で鈍い音が響いた。

 殴打の音、そして、テーブルや瀬戸物とともに人が床に倒れる音――

 車椅子の画家は階段を降りる術がなかった。

 助けを求めて声を張り上げることもできない。


 暫くして、車庫の戸が開いて兄が車で出て行くを音がした。

 

―― 僕が知っていることは以上です。


 ガタガタガタッ……


 この時、ガラスを軋ませて凄い勢いで窓から室内に飛び込んで来た影――


「な、何だ!?」

「あーーーっ?」

「ニヤアアア!?」


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