第35話 :6
翌日。
「たのもー!」
「ちょ…… その言葉は違う気がするよ、フシギ君。道場破りじゃないんだからね」
「いや、そのぐらいの気概を持って乗り込まなきゃ――どうしたの?」
呼び鈴を押す探偵の視線の先を追いかけて
「何を見てるのさ?」
「いや、流石、雪深い地域は違うと思ってね」
「アレは車庫だな。浅間石をふんだんに使って本宅に劣らぬ頑丈な作りだ。あれなら冬場、車が雪に押し潰される心配はないな!」
「ああ、興梠さんは車が大好きだものな! ついでに中も見たいんじゃないの? 高原の大地主はどんな車を有しているか――」
ここで漸く、重々しい音とともに玄関扉が開いた。
何とかして画家本人だけで話をする機会を持てたら……
今日、応対してくれるのが召使ならいいのだが。
一縷の望みを胸に再訪した雪宮邸。
だが、そんな探偵の願いは呆気なく
その日も扉を開けたのは、当主であり画家の兄でもある
「またあなたたちか? 絵は見せたはずだ。お引取り願おう!」
「そこを何とか――」
扉を閉めようとする暉に興梠は食い下がった。
「昨日、ホテルに戻ってから僕も画商としてどうしても諦め切れず悶々として一晩過ごしました。それで――こうしてお願いにあがった次第です。あの絵を僕に預からせて欲しい。そのことについてどうかもう1度、弟さんと話をさせて頂けませんか?」
「それとも僕らをこの邸に入れたがらない別の理由があるんですか?」
「な、何だと?」
暉の顔色が変わった。
「これ、フシギ君」
「だって、あまりにも頑ななんだもの! 勘ぐりたくもなるよ!」
「奉公人の失礼な言動をお許しください。後で叱っておきます」
興梠は口調を変えた。
「でもねえ、暉さん? 僕たちは騒動を起こしに来たわけじゃない。ただ商談をしたいだけです。これを最後にしますから弟さんに会わせてくださいませんか?
「……弟が絵を手放すことを
暉は扉を開いた。
「仕方がない! 本当にこれが最後だぞ!」
画家は、玄関先でのこのやり取りを階段上のホールから眺めていたようだ。
兄の後をついて上ってくる興梠と少年(その腕の中には黒猫が抱かれている)を食い射るような目で見つめていた。
昨日同様、
咳払いをしてから興梠は画家に向かって言った。
「
画家は懐から小さな手帳を取り出した。筆談用に常日頃持ち歩いている様子。
興梠、志儀、そして兄、3人の見守る中ですばやく筆を動かした。
短い語句。×と書いたように見えた。
すぐに興梠に渡す。
受け取った興梠は、刹那、眉間に皺を寄せた。
「なるほど」
破り獲ると新しいページに自分の万年筆で何事か言葉を記そうとした、その時、
「待った!」
雪宮暉の手が伸びて手帳がひったくられる。
「あなたは口で質問すればいい。喋れるのだから」
そう言いながら手帳に一瞥をくれる兄。
興梠が破ったとはいえ手帳には薄っすらと弟の記した前の頁の文字痕が残っていた。
×印。
拒絶の意。
満足げに頷いて手帳を弟へ戻す。
「わかりました。では、もう1問、お尋ねします」
雪宮暉の指示通り興梠は口に出して質問した。
「この絵以外の絵ではどうです? 僕はこれ以外の貴方の絵も見てみたいのですが?」
唇を噛んで画家は手帳に答えを記す。
さっきと同じ動作。
短い語句。どう見ても×印。
確認するまでもなかったが興梠は受け取った。手帳を見下ろしながら、
「……残念です」
「そういうことだ。さあ、今度こそ、お引き取り願おう!」
「僕が抱いていなかったら」
外へ出るやいなや志儀は言った。
「ノアローは絶対
邸から続く広い道を曲がった処、ヤマボウシの下に
今日は休みではないはずだが心配で抜け出して来たのだろう。昨日とは打って変わって地味なギャバジンの灰色の背広姿だ。
「どうでした?」
駆け寄った刑事に志儀が首を振って答える。
「だめだった! 今日もぴったり兄貴が張り付いてて……何の情報も得られなかったよ」
「そうでもない」
薄く微笑んだ興梠。
探偵がズボンのポケットから取り出した紙片をみて刑事は勿論、助手もあんぐりと口を開ける。
「何それ? 興梠さん、いつの間にそんなもの――」
「予め書いて用意してあったんだろうな。手帳を最初に渡された時、1ページ目の下に挟んであった。僕も驚いたよ」
「だから? 急いで最初のページごと破り獲ったのか?」
探偵志願の少年は目を煌めかせた。状況を思い出しながら推理を働かせる。
「そうして、自分も何か書く振りをして、その為に破いたんだと思わせたんだね?」
兄は破り獲られたページに薄っすらと残る×の痕跡を見て、安心したのだ。
「で、なんて書いてあるんです? 早く、見てみましょう!」
メモは簡潔だった。
必要最低限のことを記したのだろう。
《 兄が傍にいて多くは語れません。
でも、最近兄は毎日夜明けから2時間程、何処かへ出かけます。
その時間帯においで下さい。二階の窓を開けておきます。 》
「なるほど」
改めて3人は道から豪邸を振り返った。
画家の自室の横の窓近く、アカシアの巨木が枝を張っていた。身の軽い者ならそこを伝って進入することが出来そうである。
「明日の夜明けか。貴重なチャンスだな」
「晧君の方はあなた方にお任せしてもよろしいですか?」
悲壮な決意を込めて柴崎が言う。
「僕は暉さんの後を
画家が兄の眼を盗んでしたためた短いメッセージには多くの情報が含まれていた。
何よりも、行方不明の婚約者、
これは僥倖である
最近、暉が毎朝通っているのは梓嬢の監禁場所に違いない。
とはいえ、消息を絶ってから今日で4日、明日で5日目だ。
最早1刻の猶予もない。出来るだけ早く令嬢の身を確保しなければならない。
落ち着かない気分でジリジリとその日を過ごした探偵と助手と刑事だった。
N県警所属の柴崎刑事は所轄へ戻らず、「夏風邪が悪化して肺炎になった」と電話で嘘の報告をした。
「何、偽の診断書を書いてくれる医者くらい何人か知っています。こう見えて僕は交際範囲が広いんです。自分で言うのもなんですが、刑事と言う職業の割りに印象が良いみたいで、ハハハ……」
印象は良いかも知れないが懐具合はさほど良くなさそうで、その夜は興梠と志儀の部屋にエキストラベッドを出してもらってそこで寝た。
そして、夜明けがやってきた。
避暑地の空を真っ赤――美学を修めた興梠曰くバーガンジー色――に染める雄壮な朝焼け。
雪宮邸の玄関扉が開くのを朝靄に身を潜めた3人は息を殺して見護った。
「では、僕は行きます!」
出て来た人影を追って飛び出して行く刑事。
「大丈夫かなあ……」
ぼそりと探偵助手は呟いた。
「何がだい?」
「シバケンのやつ、尾行が上手くなかったじゃないか! 僕たちの時もまんまとマカれたろ?」
志儀は肩を竦めて、
「今度も失敗しなきゃいいけど」
「シバケン?」
「柴崎健吾だから
「ああ、なるほど」
探偵は噴き出した。
なんとなく雰囲気が似ている。実直そうな性格といい、いつも眉間に皺を寄せている真剣な眼差しといい――
それから、すぐに表情をを引き閉めた。
「よし、僕らも行くぞ、フシギ君!」
二階の窓に画家の頭が揺れている。それを確認して探偵も走り出した。
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