第34話 :5

「この絵は、あきらさんが描いたものですね? たいしたものだ! 彼には才能があると僕もかねがね思っていたんです! あずさクンだって絶賛しています」

 写真の絵を凝視して刑事は感嘆の声を漏らした。

「でも、この絵の何が問題なんです?」

「この絵はね」

 帝大で美学を修めた探偵は説明した。

「実は贋作がんさくなんです。というか、意識的に構図を借りて描いている」

 

 元絵はヤン・ファン・アイクの《ヴァン・デル・パーレの聖母子》


「よく見てください。跪いている中央の女性、多分この方が清水梓しみずあずさ嬢ですね?」

 探偵の問いに柴崎は即座に頷いた。

「ええ、その通り、梓クンにそっくりだ!」 

「それで右側の甲冑の男――これは騎士なのですが、足元をご覧ください。ほら、裾を踏まれているでしょう? これはこの先、この女性に不吉な出来事が訪れることを暗示しているのです」

 ヤン・ファン・アイクの絵がそうだから・・・・・

 

 いにしえの画家たちは己の絵画に様々な暗示や隠喩をちりばめた。

 その手法で最も有名なのはレオナルド・ダヴィンチだろう。

 彼が画布に埋めた謎については現在に至るまで枚挙に暇がない。

 ダヴィンチほどには一般的に知られてはいないが、《神の手を持つ》と称されたネーデルランドの15世紀の画家、このヤン・ファン・アイクも然り。細密な描写と鮮やかな彩色で謎を隠蔽し後世の人々を惑乱させ続ける……


「あ! 本当だ! 乙女の裾を騎士が踏んでいる……」

「でもそれだけじゃない。もっと重要なことがあります。この小さい写真版ではよくわからないが、元絵であるヤン・ファン・アイクの作品では――」

 

 元絵ヴァン・デル・パーレの聖母子では、描かれた騎士は、異教の有翼竜ドラゴンを退治したと伝えられる伝説上の人物、聖騎士ゲオルギウス。彼が手を差し伸べて聖母子に紹介している中央の人物が市の教会の参事会員を務めていたヴァン・デル・パーレ。この絵の依頼主、本人である。

 ところが、現実ではヴァン・デル・パーレは絵の注文後、大きな不幸に見舞われる。


「画家はね、騎士が身につけている甲冑に、その不幸をもたらす張本人の姿を描きこんだ……」

「――」

 息を呑んで絶句する刑事に畳み掛けるように探偵は続けた。

「今しがた僕は助手ともども晧さんの実際の絵で確かめてきました。なあ、フシギ君? 君も見ただろう?」

「ええーー? そんなの、先に言われなくっちゃわかんないや! 興梠さんの意地悪っ!」

「え? 僕はてっきり、君もわかったものと……」

 意地悪と詰られた探偵。頭を掻きながら――内心、かなり傷ついて――言葉を継いだ。

「とにかく、は見ました。確認しましたよ。こっちの写真では鮮明ではなかった部分です。実際の絵には騎士のかぶとに――」

「冑に?」

雪宮暉ゆきみやひかる描かれて・・・・いましたよ・・・・・

「たった1枚の絵でそこまで判読するとは! 素晴らしい!」

 拍手喝采して探偵を讃える刑事だった。

 その敬意の眼差しを避けるように一旦興梠は顔を伏せた。

「梓さんとおっしゃいましたか? その令嬢の失踪が事実なら、事は急を要する!」

 再び顔を上げると、努めて冷静に、だが、きっぱりと興梠響こおろぎひびきは言い切った。

「僕は明日もう一度、雪宮邸を訪問するつもりです。絵を買い取りたいと言って、何とか、もっと直接、晧さんと接触できるようやってみます」

 送られた手紙からわかるように、画家は今回、兄の婚約者の不吉な未来をいち早く察していて、どうにかしてそのことを伝えたかったようだ。

 ここは何としても彼に力になってもらわなくては……!





「ねえ? 興梠さんは、あの男、画家の兄の雪宮暉が許婚フィアンセを拉致して、どこかに監禁してると……そこまで読んでいるんでしょう?」

 ホテルに戻ってから、部屋で猫に餌を与えながら助手は訊いた。

「まあね。君も気づいたろう?」

 ソファに座って《信濃毎日新聞》に目を通していた探偵が答える。

「車椅子の弟の居室が2階だなんて。アレでは弟自身も幽閉されているに等しい。だって、あれでは、外に出るのはおろか1階にすら降りられないんだぜ。つまり、今回の件で何らかの事実を知る弟も明らかに見張られている。自由を剥奪されているんだよ」

「あ!」

 その点は気がつかなかった志儀だった。

「それに、あれほどの大邸宅なのに召使や従者が1人もいないと言うのも奇妙だ」

「なるほど。そういえば、邸内に人の気配がまるでしなかったね?」

 それも今、こうして興梠に指摘されるまで全く気づかなかった!

 こんなことでは探偵助手失格である。

 悔しい思いでキュッと唇を噛んだ志儀。だが、すぐに名誉挽回とばかり探偵の方を振り返った。

「ねえ、興梠さん。僕だって、今回、興梠さんが気づかなかったことで、先取りして、特別に準備してきたモノがあるんだよ!」

 怪訝そうに探偵は眉を寄せた。

「準備って? 何だい、フシギ君?」

「フフ、これさえあれば僕らは100人力さ! 何だって掛かって来い、だ! 今日はうっかりして出すのを忘れていたけど……」

 トランクを開けて荷物を引っかきまわす少年。

 その背中を見つめながら興梠は固唾を飲んだ。

「おいおい、まさか、物騒なものじゃないだろうな?」

 

 拳銃・・とか?

 

 大いにありえる!

 志儀は海外との取引も盛んな大会社の社長令息である。懇意の外国人も多い。彼等から秘密裏に銃を入手することなど簡単だろう。

「い、言っておくがね、フシギ君。僕はその種のもの――武器は一切身に付けない主義だからね?」

 探偵の警告は果たして助手に届いただろうか?

 少年はクルリと勢いよく身を翻した。

 その可愛らしい微笑。興梠の背に戦慄が奔る。

 美少年がこの種の微笑を煌かす時、必ず不幸が訪れる。そのことを身を持って体験している興梠響だった。

「手を出して。 ほら、これさ!」

「うっ?」

 

 少年が手渡したもの。それこそ――

 

 ズシリと重い――

 いや、違う。羽のように軽い・・、だ。

 あるいは雪のように軽い・・……純白のレース……!


「なんだこりゃあーーー?」

 眼を白黒させて狼狽する探偵。

 少年は勝ち誇ったように叫んだ。

「散歩紐だよ! ノアローの!」

「……」

「ほら、あのコは絶対、興梠さんには抱かれたがらないだろ?」

「フ、フシギ君、他人が聞いたら誤解するような言い回しはやめたまえ!」

 溜まらず抗議する興梠を無視して志儀は続けた。

「でも、この紐で縛れば、興梠さんもあのコを好きにすることが出来る!」

「だからっ! そういう表現はやめたまえ!」

「そう? 〝思いのままにする〟とか、〝言いなりにすることが出来る〟って言い方が好みなの? まあ、いいや、そんなのどっちでも。要するに、僕が言いたいのは――」

 さざなみのごとく煌くレースを探偵の手から掴み取ると、志儀はカウボーイの投げ縄よろしく頭上でくるくる回した。

「いざって時、これがあれば興梠さんにノアローを預けられるってことさ! そうすれば僕は両手が使える! 危機に臨んで、もう2度と柴崎さんの時みたいなドジを踏むことはないんだ! 誰であろうと僕たちを襲う悪漢の脳天を僕がぶち割って見せるよ!」

「それは頼もしいが……」

 弱弱しく探偵は微笑んだ。この旅でもわざわざ持参した専用の小鉢――薔薇模様のカルベール焼きのファイアンス―から満足げに餌を食べている黒猫をそおっと振り返りながら、

「ノアローがおとなしく引き綱に繋がれてくれるだろうか?」

「大丈夫さ!」

 自信満々に胸を反らせる志儀。

これ・・はそんじょそこらの紐じゃない! 我が〈海府レース〉の誇る最高級レースなんだぞ!

 気品に充ちてゴージャス! これならノアローだって気に入るさ! ノアローの漆黒の毛並みに良く映えて……宛ら〝襞襟エリザベス・カラーを付けた女王陛下〟……」

 そこで少年は言葉を止めた。流石にソレは言い過ぎだろう。

「えーと、そう! 〝小公女〟みたいだ! とても良く似合うよ! なあ、ノアロー?」



   ※ヤン・ファン・アイクの作品はこちらから↓

 http://matome.naver.jp/odai/2135373363993935401


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