第37話 :8

 床に転がった人物を見て探偵と助手は同時に声を上げた。


「柴崎刑事!?」


「今頃、ここにやって来たってことは――」

 黒猫をきつく抱きしめながら志儀しぎが言う。

「また尾行に失敗したな? ひかるさんにまんまとマカれちゃったんだね?」

「面目ない」

 頭を掻いて立ち上がりながら刑事は弁解した。

「しかし、暉さんが途中の雑木林に自転車を隠してるとは思わなかった! ソレに乗っていきなり猛スピードで走り出したんだ! 勿論、僕も全速力で追いかけたさ! だが、見失ってしまった……」

 助手は探偵に目配せした。

「ね? 興梠こおろぎさん、僕が推理した通りだろ? このシバケン・・・・はダメだよ」

 目をしょぼつかせながら柴崎は訊いた。

「え? なんだい? 君達の探偵社では黒猫の他に柴犬も飼ってるのかい?」

「いえ、こちらの話です。それより――」

 興梠は慌てて咳払いをしてから、

「失敗したものは仕方がない。暉さんが戻るまでの時間を有効に使いましょう。あきらさん、貴方はあずささんの居場所についてはご存じではないんですよね?」

 画家は悲しげに首を振った。

「では、何か手がかりがないか僕たちが邸内を調べるのをお許しください」

「そ、そうだ! それだ!」

 柴健が気を取り直して叫んだ。

「梓クンの監禁場所を推察できる何かが見つかるかもしれない!」

「時間がない、柴崎さんは1階をお願いします。僕と助手は2階を受け持ちます」

「合点承知!」

 一目散に部屋を飛び出していく刑事。続く探偵。助手は足を止めて部屋へ戻って来た。

 不安そうに見送っていた車椅子の画家の膝に黒猫を乗せる。

「この子をお願いします!」


 (何故だ?)

 何故、画家といい、刑事といい、ああも易々と猫を抱けるんだ?

 探偵は歯噛みしたものの、勿論、今はそんなことにこだわっている場合ではない。


 雪宮邸の部屋数は10を下らない。

 外観は洋風。内部は数奇屋造りの和室もある和洋折衷様式である。

 請け負った二階の全室を興梠と志儀は迅速且つ丹念に確認して行った。

「うひゃあ! こりゃまるで《ぶなの木屋敷の怪》みたいだな!」

 興奮を隠さず探偵小説マニアの少年が呟いた。言わずと知れたコナン・ドイルシャーロック・ホームズの冒険のことだ。かの名作において探偵が〈ぶなの木屋敷〉で見つけるものは……

「でもさ、1階はシバケンだけで大丈夫かな?」

 興梠は苦笑した。

「向こうはプロだぞ、安心したまえ、フシギ君。それに――柴崎さんのことを妙な綽名あだなで呼ぶのはどうかと思うよ」

「どうしてさ? 興梠さんだって、僕のことセンスのない綽名で呼んでるくせに」

「……」

 2階はほとんど使用していない状態だった。

 和室が2室、残りは、晧のアトリエを含めて洋室が6部屋。

 最も広い1室、第2応接間と思われる部屋ではソファやテーブル等家具の全てに埃よけの布が掛けられていた。

 拉致されたと思われる令嬢の居場所について、なんら痕跡ヒントを見つけられないまま全室を点検し階段上に至った二人。

 ちょうど1階から階段を上がったその場所。

 突き当たりの壁に飾られた絵に興梠は歩み寄った。

「それもあきらさんの絵?」

 助手の質問に探偵は頷いた。

「多分ね」

「へえ? なんか……雰囲気が違うね?」

 少年の言うのは尤もだ。油絵だが仏画――仏像を描いたものだった。

「これは如意輪にょいりん観音だな」

 美学を修めた探偵は即答した。

「晧さんは一時期この種の仏像――特に観音菩薩を描くのに嵌まっていたようだ」

「どうしてそう思うの?」

「タッチがまだ未熟だ。だから、昔の作品だとわかる。それに、今まで廻って来た部屋に数点、この種の仏像の絵が飾られていたよ。そのどれもが観音像だった。だから、とりわけ観音菩薩に惹かれていたのだとわかる……」

「流石に興梠さんだな!」

 志儀は低く口笛を吹いて賞賛の意を表した。

「僕は絵なんて全然見てなかった! 気づかなかったよ! しかも、観音菩薩だとか言われても仏像なんて皆同じに見えるけどな?」

「一目でわかるさ。例えばこの如意輪観音は一面六臂ろっぴ。ほら、右の第1手を頬に当ててるだろ。これは人々をどうやって救済するか、その方法について思案しているのさ」

 六臂とは6つの手。一面六臂は一つの顔と6つの手ということだ。

「面白いな! 他にはどんな観音像の絵があったの?」

しょう観音と千手せんじゅ観音と馬頭ばとう観音……」

「へえ! 聖観音や千手観音は聞いたことあるけど、バトウって、何さ、それ? 観音様なのに悪態をつくの?」

 少年の問いに探偵は声を上げて笑った。

「その罵倒・・じゃない。馬の首と書いて馬頭。確かに、この観音はちょっと珍しいな」

 興梠は助手の為に説明した。

「馬の首を頭につけているんだ。農耕や運送、それから古代では戦闘にも欠かせなかった大切な生き物、〈馬〉を守護する観音様なのさ。勿論、人間の苦悩や災難を粉砕する〈最強の観音〉としても篤く信仰されている。実は特異なのは頭部につけた馬の顔だけじゃなく観音自身の顔・・・・・・だ」

「顔?」

「うん。馬頭観音は恐ろしい憤怒相なのさ。深い苦悶や煩悩を祓うには優しい慈悲の顔だけでは無理だと古代の人々は考えたのだろう」

 絵に近づいて興梠響は小さく息を吐いた。

「さっき未熟だと言ったけれど――とてもいい味だ。こんな絵を見ていると絵は決して技術で描くのではないことがわかる」

 救済を思案する澄んだ眼差し、溢れる情熱。

雪宮晧ゆきみやあきらは画家として必ずや大成すると僕は思うよ――うん?」

 ふいに探偵の視線が揺れた。

 絵ではなく絵を掛けてある壁に手を這わせる。2、3歩退いて改めて絵を凝視した。

(これは……?)

 その時、志儀が声を上げた。

「危ない!」

「?」

 階段を駆け上って来た刑事が勢い余って探偵の背中にぶち当たる――

 折り重なって倒れる二人。

「や、これは失敬!」

「いや、こんなところで突っ立っていた僕が悪かった……」

 怪我がなくて幸いだった。

 少年に助け起こされながら二人は互いに報告し合った。

「で? そちらはどうでした? 何か見つかりましたか?」

「残念ながら」

「1階もですよ。居場所を暗示するような手がかりは全くありませんでした」

 三人は画家のアトリエへ引き返した。




「これからどうします?」

「うむ。そろそろひかるさんが戻ってくる頃だ」

 腕時計を覗き込む刑事に画家が手帳を突き出した。


―― 僕が何とかして兄から梓さんの居場所を聞きだします。

 

 画家は言うのだ。

 僕はいままで何も出来ないと絶望していました。でも、こうして皆さんが力を貸してくださるのを知って勇気が湧きました。僕だって怯えているだけじゃなく、もっと積極的に何か出来るはずだ!


―― 何としても今日中に、兄から居場所を聞きだしてみせる。

  

 画家は繊細な白い指を組んで眼前の刑事と探偵、探偵助手を拝んだ。


―― どうかお願いです、皆さん。

   今日一日だけでいい。この邸の近くに待機していてもらえませんか?

   居場所について何かわかり次第、

   その場所を記した紙を窓から投げ落としますから。


「ふうむ。今はそれしかないか……」

 同意する柴崎。興梠も頷いた。

 雪宮家は地元の名家だし、一方の名家、清水家から令嬢の失踪届けが出ていない以上警察も動きようがない。


―― そうと決まれば、皆さんはお戻りください。

   ここで今、兄に見つかっては元も子もない。

 

 車椅子のため再び一同を2階の窓から帰さざる得ないことを画家は詫びた。

 体が自由なら玄関から見送った後で、改めて鍵を閉め直すのに、と。


「何、そんな事はちっともかまいませんよ」

 ふと思い出して興梠が尋ねる。

「ところで、晧さんはいつから二階のこの部屋をお使いなんです?」

 

 半年前から、と画家は答えた。


―― いよいよ結婚が迫って、兄は一階全てを梓さんとの新居に改装したんです。

   それまで僕は一階の両親の隣の部屋を使っていました。


「不便になると思わなかったの?」

 率直に聞く探偵助手。


―― その時はさほど思いませんでした。

   梓さんが同居する、その期待の方が大きかった。

   それに、一階にも車椅子が置いてあるんです。

   必要とあらば兄が苦もなく抱きかかえて僕を下まで連れて行ってくれる。

   ご覧の通り兄は上背があって逞しいですからね。

   あんな風だったら良かったと何度思ったことか。

   同じ兄弟なのに。


 そこまで書いて雪宮晧は鉛筆を握り締めた。記したことを後悔するように最後の1行を見つめる。

 探偵はそっと視線を逸らせた。

「行こうか、フシギ君」

「くれぐれも気をつけてください、晧さん。問い詰めるというより、さり気無く聞く方が効果がありますよ」

 刑事がその道のプロらしくアドバイスした。

「じゃ、その子をいただきます」

 この時まで車椅子の画家の膝で丸まって寝ていた黒猫。

 抱き上げようとした志儀の手を掠めて床に飛び降りた。

「あ! こら、ノアロー、戻って来い! 帰るんだから! ったく、ここがそんなに気に入ったのかい?」

 笑いを噛み殺して助手は探偵を横目で窺った。

 案の定、日頃のクールさは何処へやら苦虫を噛み潰したような顔の探偵。

「早く、つれて来たまえ、フシギ君!」

「OK、わかってるって」

 画家の部屋の隅まで黒猫を追いかけて行った志儀。

 が、抱き上げる代わりに素っ頓狂な声を上げた。

「あれぇ? こんな処にドアがある・・・・・よ、興梠さん?」

「え?」

 

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