第38話 :9

「この扉は何です、あきらさん?」

 

 今経っても、邸内の部屋という部屋を調べ尽くした三人だったが。

 この画家の部屋だけ調べるのを失念していた。

 アトリエとしても使用している雪宮晧ゆきみやあきらの12畳ほどの横に長い洋室。

 通りに面して2つの高窓、角部屋なので横壁にも2つ窓がある。(探偵たちが侵入したのはこちら側の窓である。)

 廊下の扉から入った場合、向かって左側にベッドやチェストを置き、明るい窓の並んだ中央にカンバス、右側に本棚や絵の道具類をまとめているのだが、隅に細いドアがあった。

 そのドアを指して、もう一度探偵は訊いた。

「この扉は何です?」


―― あそこは


 画家の顔に困惑の色が広がる。


―― 納戸です。別にたいしたものは入っていません。

    僕の古い作品がしまってあるだけです


「中を改めさせてください」

 

 静かな声で興梠こおろぎは言った。

「この邸の全ての部屋を確認したいので」


 筆談用の手帳を開いたまま動きを止めた画家。

 柴崎刑事も催促した。

「聞こえていますか、晧さん? 僕達にこの中・・・を見せて下さい」

 

 逡巡の果てに、遂に画家は頷いた。


「ひゃあ! 今度は《ノーウッドの建築家》だな!」

 ノーウッドの建築家は自分の邸に巧みに隠し部屋を作っていた。これまた世紀末の大英帝国探偵小説の傑作である。そして、その隠し部屋の中には……

 昭和の探偵は今、画家のアトリエのドアを開けた。

 そこは窓のない小部屋。

 わだかまっている深い闇。湿った空気。埃と絵の具の匂い。

 ドア横の壁にあった電気のスイッチをすばやく押す。


「うあっ!」

「これは――」

「こりゃ酷い!」


 探偵とその助手と刑事、3人の目に飛び込んできたのは――

 ズタズタに切り裂かれた当邸の主の許婚フィヤンセ清水梓しみずあずさその人の肖像画だった……!


 ―― だから、お見せしたくなかったんです

 

 俯く画家。


「これはどういうことです?」

 殺気立って柴崎が問い質した。

 

 ―― この絵は僕が兄と梓さんとの婚約祝いに贈ったものです。

 

 辛そうに晧は筆談のペンを動かす。

 

 ―― 兄もたいそう気に入ってくれて、ずっと飾ってあったんですが……

 

 婚約者・梓との仲が目に見えて悪化したこの春の夜半、発作的にひかるが切り刻んだ。幸いその場に梓は居なかったが、こんな無残なものを見せられないと思って、自分が女中に命じて取り外させ、ここへ隠したのだと画家は明かした。

 

 ―― その時はまだ長年勤めてきた女中のフキが邸にいました。

    だが、こんなことがあって程なく、

    そのフキすら兄が暇を出してしまった。


 元々、植林業で財を成した雪宮家は質実剛健の家風を誇り、使用人も多くは置かない主義だった。

 その上、父母の代から勤めていた者たちが年老いて次々退職して行ったのだが、新当主の暉は敢えて補充しなかった。当初は結婚後、新妻の意見も入れて、新たに使用人たちを採用しようと思っていたようである。

 雪宮暉ゆきみやひかるにすれば彼なりに未来の夢を描いていたのだ。



「この絵は、今、如意輪にょいりん観音の絵を飾ってある階段上のホールに飾ってあったんですね?」

 興梠が確認した。


―― お気づきになられましたか?


「勿論です。今飾られている絵も素晴らしいです。階段ホールは言うまでもなく一連の観音像、僕は感銘を受けました」


―― そう言っていただけて光栄です。


「観音菩薩は変化へんげの仏……一説には33の変身へんみがあるとか。それだけでも画家にとっては創作意欲を掻き立てられるんだろうな! モチーフに困らないですものね?」

 

 画家は顔を綻ばせた。


―― 流石、帝大で美学を学ばれただけある! 仏像にもお詳しいんですね?

 

 少々照れながら雪宮晧は綴った。


―― お察しの通り、ひところ僕は観音像に嵌りました。

   創作意欲と言うよりは、観音菩薩が救済の御仏だと聞いて。

   何しろ、その頃の僕は煩悩のかたまりでしたから。

   それで、救済を求めて描き続けました。

 

 探偵の優しいコントラバスが響く。

「救済方法は見つかりましたか?」


―― 見つけましたよ!

   いえ、つまり、

   菩薩ですら探し続けていると言うことに思い至った。

   観音菩薩は姿を変えて、弥勒菩薩などは座したまま、

   懸命に人々を救済する道を探し続けている。

   だから、僕などはもっともっと探し続けなきゃいけないと悟った。

   まあ、この程度の答えですが。


 興梠は大きく頷いた。

「なるほど。弥勒菩薩は下天するその日まで56億7千万年間、探し続けるそうですからね!」

「うーん、美学や仏像の話は僕にはサッパリわからないが」

 実直な刑事が切り裂かれた絵を手に取って呻いた。

「この絵はこっそり隠して正解だ! こんな風にされた自分の絵を見たら、誰だって震え上がりますよ! 梓クンだって卒倒したろう……」

「こっちのは素敵な絵だよ!」

 叫んで、少年が引っ張り出したのは、青空の下で微笑む少年の肖像画だった。

 ちょうど志儀しぎくらいの年代。

 降り注ぐ陽光。少年は白いテニスウェアを着てラケットを抱えている。

「ねえ? これ、晧さんだね? そっくりだもの! と言うことは――これは晧さんの〈自画像〉ってわけか!」

 見る見る真っ赤になる画家。

 慌てて鉛筆を握って、

 

 ―― 違います。それは僕の


「見てよ、興梠さんも! これ、いい絵でしょう? 僕が見つけたんだ!」

「フシギ君」

 探偵は助手から絵を取り上げた。そっと古いカンバスの山の中に戻すと口早に言った。

「時間がない。もう戻ろう」

「おっと! その通りだな! もう限界だ!」

 刑事も、再び腕時計を覗き込んで叫んだ。


 三人と一匹は今度こそ、窓から枝を伝って庭へ飛び降りた。

 心配そうに様子を伺っていた画家に手を振ると邸の前の道へ戻る。

 どうやら暉とは鉢合わせせずに済んだようだ。

「それでは――これから正午まで僕がこの近辺に張り込むことにします」

「では、その後は僕と助手とで順番に交代しますよ」

 邸を振り返って眺めながら刑事はため息を吐いた。

「晧君にがんばって居場所を突き止めてもらって……なんとか今日中に梓クンを救い出したいものだ」


 興梠と志儀はホテルに戻って食事と軽い休息をとることにした。





「流石、わが国有数の避暑地のホテルだけのことはあるな! このカツレツの味は絶品だよ!」

 ホテルのレストランで大いに舌鼓を打つ探偵。

 すかさず助手も相槌を打った。

「このオムレツだってモン・サン=ミシェルの修道院対岸にあるホテルで食べた、巡礼者をもてなした伝統の味に勝るとも劣らないさ!」

 ノアローは部屋係のメイドが預かってくれているのでゆっくり食事が出来る二人だった。

「何だって、君? 実際現地そこへ行ったのかい、フシギ君?」

「まあね。ひと夏、父さまが商用旅行に僕と姉様を連れてってくれた。でもまだ4歳だったから、オムレツの味とエッフェル塔に登ったのしか憶えていないんだ。それより、興梠さん。僕、訊きたいことがあるんだけど……」

「いいよ。何でも訊きたまえ。だが、予想はつく。切り裂かれた絵の件だろう?」

 カツレツをナイフで切り分けながら少々得意げに探偵は言うのだ。

「あの絵の酷い状態はともかく、階段上に掛かっていた仏画が最近取り替えられたのだと言う事実は、僕はすぐ気づいたさ。壁紙の、陽に焼けて褪色たいしょくしていない部分が明らかに仏画より広かったからね」

 つまり、もっと大きな絵が最近まで掛かっていた証拠だ。

「婚約を祝って、と晧さんは言っていたから、少なくともあの美しい梓さんの肖像画は2年以上あそこに飾られていたわけだ」

「それはわかった。じゃさ」

 ナプキンで口を拭うと志儀は真向かいに座る探偵の目を真直ぐに見つめた。

「興梠さんは何故あんな素っ気ない態度をとったのさ?」

 吃驚して聞き返す探偵。

「何のことだい?」

「納戸で僕が見つけた素敵な絵を、何も言わずさっさと元へ戻したことだよ!」

 あの絵はいい絵だった。

 いつもなら興梠さんだって即座に反応したはずだ。それなのに、あの態度はない。無視したに等しい。あの場面、志儀は自分を否定されたようで深く傷ついたのだ。

 少年は眉間に皺を寄せて怒りの表情を向けた。

「興梠さん、あの絵、素敵だと思わなかった?」

「フシギ君。人にはね、触れてもらいたくないモノ……そっと自分だけの秘密にしておきたいモノがあるんだよ」

「?」

「確かにあの絵は素敵だったよ。晧さんの中学生の頃の作品――君が言った通り〈自画像〉だろう」

「じゃ、何で誉めなかったの? あの場でもっと話題にしても良かったじゃないか!」

 志儀は怒りを爆発させた。

「観音像についてはあんなに誉めそやしたのに! それを――せっかく僕が探し出した絵に対しては知らんぷりするなんて、不公平だ!」

 ナイフを置くと探偵は水を飲んだ。グラスに伝わる水滴を親指で弾く。

 それからゆっくりと口を開いた。


「あの絵には晧さんの〈夢〉が描かれていた」

 

 探偵は静かに繰り返した。

 

「あの絵は永遠に実現しない儚い〈夢〉の絵だった……」


「あ!」

 

 志儀も気づいた。

 青空の下、降り注ぐ陽光の中、テニスウェアを着てラケットを抱いた少年。

 彼は、健康で・・・自分の足で・・・・・コートに・・・・屹立していた・・・・・・……!


 幼い頃から体の自由が利かなかった画家にとって、あの絵は実現不可能な、有り得ない憧れを転写した一枚なのだ。


「だからさ、他人に無遠慮に触れて欲しくないに違いないと、僕は思ったんだよ」

「ああ、そうか」

 聞き取れないくらい小さな声で少年は言った。

「……了解」

 次の瞬間、優しく手を伸ばして探偵は助手の頭を撫でた。

「よしよし――」

「!」

 睨んでいた視線を外したばかりだったので不意を突かれた格好になる。

「――本当に君は良い子だねえ、フシギ君!」

「ねえ?」

 慌てて助手は頭を振った。

 手元の皿のケーキに添えられた木苺のジャムと同じくらい真っ赤になっている。

「ぼ、ぼ、ぼ、僕を……ノ、ノアローの練習台にするのはやめてよ!」

 笑いを噛み殺す興梠。

「別に、そんなつもりはないさ!」

 

 (……1本!)

 

 こんな風に稀にだが、探偵が助手に勝利する瞬間もあるのである。



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