第39話 :10

「いい気味だ、興梠こおろぎさんめ!」

 

 真夏の太陽の下、志儀しぎ北叟笑ほくそえんだ。

 10分ばかり前に雪宮邸の見張りを探偵と交代した助手。

 その際、例のゴージャスなレースの引き綱の先っぽを抓んでよろよろ帰って行く探偵の姿を思い出すにつけ笑いが込み上げてくる。

 アレじゃどう見たって興梠さんがノアローに散歩させられているようにしか見えないや。ザマアミロ! 

 これで1本取り返してやった。

 小学生じゃあるまいし僕が頭を撫でられて嬉しいと思ってるんだろうか? 子ども扱いもほどほどにしてもらいたい。


「さてと」


 少年は視線をやや離れた豪邸の二階の窓へと戻した。

 最初に見張りに立った刑事の時も、続く探偵の時も、遂に画家から連絡はなかった。

 柴崎刑事の話では、3人が邸から退却したすぐ後で雪宮暉ゆきみやひかるは戻って来たらしい。

 だから、今現在、あの屋敷の中に画家は兄と二人で居るのだ。

あきらさん大丈夫かな? 婚約者の肖像画をあんな風に切り裂くほど凶暴になる兄さんだぞ? 上手く令嬢の監禁場所を聞きだせるだろうか?」

 

 それにしても、暑い。

 

 我が国有数の避暑地とはいえ夏の真昼である。

 じりじりとする胸の思いと同じくらい、空の太陽も容赦なく少年の癖毛の髪を焦がした。

 そこへ向こう側の道から響いて来たのは、天使の喇叭ならぬ――


「あいすくり~ん!」


「うお? 待ってました!」

 これぞ天の助け! 少年はホテル貸し出しの自転車のペダルを力いっぱい踏んでポニーの引く冷菓売りのワゴンめがけて突進した。


「やっぱり夏はこうでなきゃあ!」

 待機場所へ、アイスを舐め舐めご機嫌で戻って来た、その時だった。

 二階の画家の部屋の窓が開いた。

 画家当人の姿は確認できなかったものの飛礫つぶてのような何かが投げ落とされた。


「!」

 

 アイスを口に押し込むや志儀は自転車をその場に倒して駆け出した。


 邸前の道に落ちたそれ・・を掬い上げる。


「何だ、これ?」

 

 放物線を描いて道に落ちたそれを見て〝飛礫のような〟と思った志儀の勘は正しかった。

 紙に包まれた丸い物体。

 ひとまず、ポケットに押し込んでその場から離れる。

 乗り捨てた自転車のある場所――雪宮邸からは見えない小道――に戻って、改めて中身を確認した。

「何だろう、これ?  文鎮ぶんちん?」

 犬の形をした緑色の石である。

 てっきり、手紙やメモのようなものが投下されると思っていた探偵助手。

 眉間に皺を寄せる。

「これは……どういうこと?」

 ええい、今は何より、早く興梠さんに見せなきゃ!

 自転車へ飛び乗ると志儀は探偵の待つホテルまで弾丸のように風を切ってペダルを漕いだ。




 幸運にもホテルのテラスには探偵と一緒に刑事の姿もあった。

 二人はコーヒーを飲みながら今後のことについて話し合っていた様子。


「興梠さん! シバケ……柴崎さんも、見て! これ!」

「フシギ君?」

「たった今、窓から投げ落とされたんだ! 晧さんからの伝言だよ!」

「やったな! よくやった!」

 黒猫を抱えたまま興奮して立ち上がる柴崎刑事。

 何がよくやったのか、わからないが。

 そして、そんな刑事を見て真っ先に志儀が思ったのは――

(あ、やっぱりノアローは柴崎さんが抱いていたのか!)

 一方探偵は猫を見つめる助手の視線を無視して早口に言った。

「よし、その伝言をみせてくれたまえ、フシギ君!」



「何だ、こりゃ?」

 先刻の喜びは一転、籐の椅子に深く腰を落として刑事は呻いた。

 意気揚々と探偵助手が持ち帰ったそれ、画家が投げ落とした緑色の石。

「わからないの? 文鎮だと思うよ。ねえ、興梠さん?」

 柴崎は赤くなって、

「いや、文鎮だと言うのはわかるさ! 僕が言ったのは、伝言の意味だよ。緑色の犬の形をした文鎮? だから? 何だと言うんだ? 僕の知りたいのは梓クンの居場所だ!」

 柴崎から黒猫を抱き取りながら志儀が呟いた。

「はん! 〝緑色の犬〟が馬鹿な柴犬でないことだけは確かだ!」

「おい、柴犬は馬鹿じゃないぞ。忠実で主人思いのいい犬だよ」

「僕の言ってるのはシバケン・・・・のことさ!」

「フシギ君――」

 文鎮を手に取って探偵が言う。

「ふうむ? これは蛍石ほたるいしだな。顕微鏡や望遠鏡、カメラのレンズに使用される鉱物だよ。英名はフローライト」

「高級品ですか?」

 すかさず柴崎が訊いた。

「翡翠に似てるけど……」

「いや。カメラのレンズに使用される蛍石はとても高級ですが、宝石としての価値は低いです。極く稀に夜半光るものが採掘されて、それなどは夜明珠と呼ばれて珍重されるそうですがね」

「カメラ関係の石だとしたら、梓さんが持ち込んだものかも知れないね?」

「なるほど!」

 梓の名を聞いて多少元気を回復する柴健だった。

「で? このホタルイシとやらから、何かわかりますか、興梠さん!」

「いや、残念ながら、皆目」

「何てこった! 晧さんも晧さんだ! 伝言なら、もっとわかりやすくしてもらわないと! モノじゃなく、せめて紙に書いてくれなきゃ困るよ」

「紙?」

 探偵がハッとして顔を上げる。

「フシギ君、この蛍石はこのままの状態で投げ落とされたのかい?」

「ううん、紙に包んであった。書き損じの古い画用紙みたいなの――」

 探偵に指摘されて助手はポケットを探った。

「これだよ」

「――」

 確かに志儀の言うとおり古い紙だった。

 古いだけでなく、文鎮を包んだために皺くちゃになっている。

「これはフランスはアルシェ社の高級画用紙だよ。全ての画家の憧れ……」

 そこまで言って興梠は動きを止めた。


「どうしたのさ、興梠さん?」

 驚いてたずねる助手。刑事も肩に手を置いて顔を覗き込んだ。

「興梠さん?」

「これだ!」

 

 興梠響こおろぎひびきは叫んだ。

「こっちが伝言だ! 蛍石……文鎮はキャラメルと同じ、重石おもしに過ぎない!」


「だ、だけど」

 唾を飲み込んで叫び返す志儀。

「これには一言の文字も記されていないよ! ただ絵が描かれているだけだ!」

 助手の言う通りなのだ。

 

 そこにはただ絵が・・・・描かれて・・・・いるだけ・・・・


「僕が推理するに、晧さんはよほど急を要したか、切羽詰ったのだろう。新たに伝言が書けないくらいにね」

 紙片を見つめて興梠は指摘した。

「それでも何とか伝えようとしたのだから、これこそが梓さんの居場所を示す重要な〝伝言〟に違いない。僕らはこの絵をじっくりと読み解く必要がある」

「そういうことなら――」

 改めて紙片をひったくると柴崎は鼻に皺を寄せて描かれている〈絵〉を凝視した。

「これは……仏像ですね? それはわかる。だが、一体全体どうして――」

「うむ、これは晧さんがひところ描き続けたと言う観音像、その1枚だ。完成品ではなく、下絵の段階です」

 興梠が腕を組む。

「この観音像の絵は、僕が見た限りでは雪宮邸には飾られていなかった。ひょっとしたら、下絵だけで完成品は描かなかったのかもしれない。それを今になって、わざわざ、何故?」


 興梠の脳裏に車椅子の中で嬉しそうに笑った画家の姿が蘇った。

 あの時、画家は何と言ったんだっけ?


 ―― 流石、帝大で美学を学ばれただけある!

    仏像にもお詳しいんですね?


 詳しい仏像……

 観音には33の変化体がある……

 それは観音が救済の菩薩だから。

 様々な姿に成り代わって人々を救済に赴くのだ。

 しょう観音に始まって、十一面観音、千手観音、如意輪にょいりん観音、不空羂索ふくうけんざく観音、馬頭観音……

 だが、この観音像はそのどれとも違う。

 ここに描かれている観音は、岩の上に片膝を立ててゆったりと座している。傾げた首。優しく伏せた目は斜め下に伸びて――



 黙り込んだ興梠の傍らで刑事と助手は懸命に知恵を絞っている。

「何を言いたいんだろう? 仏像だから――寺?」

「この辺りに寺は幾つあるの? 勿論、あの邸から2時間で通える範囲内でだよ?」

 探偵小説で鍛えた的確な質問を志儀は投げかけた。

「うーん、4つか5つ。地蔵堂クラスならもっとある」

 刑事は腹を括った。

「よし、迷っている時間はない! こうなったら一つ一つ虱潰しに当たってみよう!」

「それより――」

 立ち上がりかけた刑事を、探偵が腕を伸ばして押し留める。

「柴崎さん、この近くに、池か湖のほとりに突き出して建っているような建物はありませんか?」

「はあ?」

「常に水面にその影を映している……そんな建物です」

「あ!」

 刑事が両手を叩いた。

「あるぞ! あります! 今は打ち捨てられて廃屋同然だが、かつて明治の頃の……この地域が避暑地として開拓された最も早い頃の建築物。外国人牧師の元別荘です。名は確か〈覗水しすい亭〉とか言ったな」

 湖に突き出していて、さながら建物自身が湖面を覗いているように見えるからこの名がついたとか。

「でも、何故、そこが?」

「説明は道々します」

 訝しがる刑事に、力を籠めて探偵は言いきった。

「とにかく――そこへ行って見ましょう!」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る