第40話 :11

 そこはホテルから歩いて20分、雪宮ゆきみや邸からなら30分の場所。

 時間で言うとそうなのだが、但し、案内人がいないと確実に迷ってしまうだろう。

 先住の外国人たちが名づけたと〈幸福の道ハッピーバレー〉――苔むした石垣と石畳の道――は迷路のごとく入り組んでいて、それらの道1本1本の果てに瀟洒な別荘が隠されている。

 先に刑事が言及した通り、建築当初は〈覗水しすい亭〉という高雅な名前がつけられていたくだんの建物は、現在ではもっぱら〈元牧師の別荘〉とか〈池に突き出た廃屋〉などと呼ばれていた。

 呼び名から分かるように小さな池に突き出した崖の鼻先に建っているので、そこへ行くためには車は勿論、自転車等乗り物類はいったん道筋に留めて、そこから先は徒歩で登らねばならなかった。

 ホテルの貸し自転車でやって来た探偵と助手、刑事の三人もそうした。

 道沿いにきちんと並べて自転車を停める。

「教えてください。あずささんが囚われているのはどうして、ここ・・だと推理したんです?」

 元牧師の別荘・覗水亭を目指して歩き出すと、すぐさま柴崎は訊いてきた。

「ここには仏像なんかありませんよ。住人の牧師・・はその名の通りクリスチャンだったはずだから」

「この像は――」

 足は止めずに興梠はポケットから画家が投げ落とした紙片を取り出した。

「特異な像でしてね」

「?」

「中国の宋の時代に大流行して我が国にも入ってきたんだが、どういうわけか当時の都、平安京では全く受け入れられなかった」

 探偵は一つ息を吐いた。

「観音菩薩のあまりに艶めかしい風情のせいかもしれません」

「そ、それで?」

 全くチンプンカンプンな顔つきで柴崎が先を促す。

「唯一、受け入れた地域がある。何処だと思います?」

「いや、僕にそんな質問をしても時間の無駄ですよ! 僕は無粋で無教養ですから。ハハハハ……」

「シバケンは正直だけが唯一の取り得だな!」

 黒猫を抱いた少年の強烈な一言。

「鎌倉です」

 咳払いして興梠は続けた。

「当時貴族に代わって隆盛してきた武士達は受け入れた。従って、新進の機運溢れる鎌倉の地でのみ、この観音像は流行しました。現在に至るもそこでしか見ることが出来きません」

「だから?」

「この種の形の観音像の正式な名称はね、〈水月すいげつ観音菩薩かんのんぼさつ半跏はんか像〉と言うんです」

「……水月」

「そう。その名の通り、水面に映った月を見ている観音の姿を表しているんです」

「なるほど!」

 剛直な刑事も、ここへ来て漸く悟った。


 水面に・・・映った姿・・・・……


 何らかの事情で伝言を書くことが出来なかった画家は一縷の望みを託して自分の古い絵を投げ落とした。仏像にも造詣の深い探偵の、その知識に期待して。


「あれだ! 見て!」

 

 少年が熱を帯びた声で指差す。

 三人の眼前に、朽ちかけたとはいえ、まさに今、己の姿を湖面に揺らして別荘〈覗水亭〉が出現した。



 


 明治の威風を残す堂堂たる洋館である。

 玄関は鍵が掛けられ厳重に戸締りされていた。

 勿論、人のいる気配はない。

 いち早く裏へ回った刑事。張り出したテラスの窓を覗いて声を上げる。


「梓クン!」

 

 次の瞬間、刑事は古風なフランス窓に体ごと突進した……!


 



 埃の積もった洋間のそこだけが整然と掃き清められていた。

 頭に包帯を巻いた洋装の美女が寝椅子に横たわっている。

 両手と両足を緊縛されている。

 気を失っていたようだが、柴崎が助け起こすと薄っすらと目を開けた。


「……柴崎さん?」


「もう大丈夫ですよ、梓くん!」

 素早く縄を断ち切りながら刑事は叫んだ。 

「良くがんばった! 本当に……ひどい目にあったねえ?」

「私……私……」

 安心したのか令嬢の目にどっと涙が溢れた。


 だが、それはほんの短い間だった。

 気丈にも令嬢・清水梓しみずあずさは涙を拭うとしっかりした口調で自分の身に起こったことの一部始終を説明した。



「私、あの日、柴崎さんに誓ったように、ひかるさんにハッキリ伝えましたの」

 

 婚約を解消させてください。真実に愛する人と巡り会ったから。

 残念ながら、それは貴方あなたではありません。

 貴方には大変良くしていただきましたが。

 でも、貴方だって、偽りの愛など必要ないでしょう?


「暉さんは私が愛している御方の名をお尋ねになりました。

 私は正直に告げました」

 

 刹那……


 激昂した暉に殴打され床に昏倒した。

 気がついたらこの場所だった、と令嬢は言う。

 以来、毎朝やって来ては怪我の手当てをし、飲食物を用意し、その他、世話をしてくれた。

 

 最後の一線で婚約者が〈紳士〉であったのは幸いと言うほかない。

 雪宮暉ゆきみやひかるは許婚を殴打し、拉致監禁しただけで、それ以上の狼藉は働いてはいなかった。

 とはいえ、それは時間の問題だったのかもしれない。


「暉さんは旅券が届くのを待っていたんです。外国へ私を連れ出すと言っていました。旅券が手に入ったらすぐにハネムーンという名目で出帆する、そして、自分達は離れられない仲になるのだと……」

 ここで瞳を上げて令嬢は言った。

「そんなことが歯止めになると本気で考えておられるとしたらお笑いですわ。

 だって、どんな目にあっても、たとえ力ずくで言いなりにされたとしても、

 心に住む永遠の御方、私が真実に愛する人は変わりませんもの」

貴女あなたはとても強いお嬢さんだな!」

 思わず漏らした探偵の言葉。

 梓は頬を染めた。

「いいえ、いいえ」

 恥ずかしそうに頭を振ると小さな声で言う。

「私はけっして強くはありません。でも……」

 縛られた痕の残る手を胸の前で握り締めた。

「私の中の愛が私を強くするんです」

「!」

 

 かつてそんな目をした乙女を探偵は知っていた。

 それとも恋を憶えた乙女達はあまねくこんな目を持つのだろうか?

 あの、けっして自分の言いなりにならなかった乙女……

 今でも思っている。彼女の愛は間違っていた。未熟で、危うかった。

 だが、強さは……

 愛の焔は……

 探偵では遂に消せなかった。全身全霊をかけた清らかな愛では。

 眠れない夜に今でも探偵は自問する。

 自分には何が足りなかったのだろう? と。

 俺には何が欠けていた? 

 乙女に必要だったのは清らかな愛ではなくて、激烈な愛だった? 

 全てを焼き尽くす煉獄の炎?

 俺にそれがなかったと、君は思っているのか? 杏子さん?

 俺だって――

 

「はっ、いけない!」

 

 梓の小さな叫びが興梠響こおろぎひびきを現実に引き戻した。

「暉さんは何処に居ますの? もう警察に逮捕されたのでしょうか?」

「あ、いや、それはまだです。何よりも、まず、貴女の身が心配で、僕は――」

 N県警所属の刑事は女学生の前でタジタジだった。先刻、体ごとガラスをぶち抜いた男とは思えないくらいシドロモドロになって口の中で言う。

「も、勿論、こ、こ、これから直ちに取り押さえますよ!」

「早くそうなさってください! 私が救出されたことを知ったら、何をするか分からない! あ! あきらさんは暉さんの傍におられるんでしょう?」

 恐怖に大きく見開かれた目。 

「何てこと! 今度は晧さんの身が危険です!」

 刑事の腕を強く掴んで梓は懇願した。

「私のことは結構です! もう大丈夫ですわ! それより―― 早く、早く、暉さんを取り押さえてください! これ以上酷いことをしないように……晧さんに危害が加えられないうちに……」

「わかりました! 僕は雪宮邸へ急行します。雪宮暉の犯罪は立証された! もう自由にやるべきことをやれます。おっと、ここへもすぐに警官と医師を派遣させますからね!」

「私のことより、早く……!」

「よし!」

 颯爽と身を翻すと柴崎は興梠に言った。

「ここまで来たからには――どうか、最後までお付き合いください、興梠さん!」

「喜んで」

 かつて救えなかった女学生のことを思って探偵は頷く。

「あ、待って!」

 既に駆け出した刑事と探偵から一歩遅れて少年が叫んだ。

 令嬢の傍へ取って返すと黒猫を差し出す。

「護衛にどうぞ! 救援の警官が来るまで、この子・・・が貴女をお守りしますよ!」

「まあ?」

 張り詰めていた空気が一瞬に和らぐ。

 宛ら薔薇の蕾がほどけるごとく、令嬢は微笑んだ。

 不覚にも三人の男たちは見惚れてしまった。

「頼もしい猫ちゃん! お名前は?」

「ノアローです」

 ここで志儀は片目を瞑ってみせた。

「どうぞ、お気を許してくださって大丈夫ですよ! だって、このコは婦人警官・・・・ですから!」



「上手いこというじゃないか、フシギ君!」

 追いついた助手を探偵は絶賛した。

「そりゃそうさ! 僕は興梠さんみたいに野暮じゃないもの! 良かったら今度、口説き文句を教授してやってもいいよ?」

「……それは結構だよ。遠慮しておこう」

 誉めなきゃよかった。つくづく探偵は後悔した。

「チェ、痩せ我慢するなって!」

 探偵社の小悪魔サライは微笑んで言うのだ。

「見てみろよ、柴崎さんのあのハッスルぶり! あーあ、シバケンでもあんな素晴らしい女性をモノに出来るんだから! 興梠さんだってがんばらなきゃね?」

 そのシバケン、もとい、柴崎健吾が振り返る。

「どうかしましたか?」

「いえ、梓さん、美しいだけでなく気丈なお嬢さんだと思って感動してたんです。ねえ、興梠さん?」

「あ? ええ、そう!」

「あんな素敵な人の愛を勝ち取った人が羨ましいなあって!」

「いやあ、ハハハ……」

 耳を掻きながら照れ笑いする柴崎健吾。

「からかわないでくださいよ! まいったなあ……!」

 

 こうして、廃屋からの道を刑事と探偵とその助手は一気に駆け下りた。 

 街道沿いに止めた自転車に飛び乗ると一路、雪宮邸へ向けて走り出す。


 だが、遅かった。

 雪宮邸で三人を待っていたものは――



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る