第3話 :3

 少年が戻って来たのはほぼ1時間後のこと。

  冬の陽はとっくに落ちて辺りは闇に塞がれてしまった。

 しんしんと冷え渡る12月の夜である。

 とはいえ一時間で取って返したという事実は、興梠こおろぎ探偵社の建っている地所を思えば驚異的な速さだった。

 多分、往復タクシーを使ったに違いない。

 このことで一応少年の身分に嘘はないことが立証されたが。

 依頼人は紛れもなく上流階級の子息なのだ

 そして、その美しい姉が何らかの理由で脅されている、というのもあながち嘘ではないだろう。


「持って来たよ! 包み紙!」

 

 事務所に飛び込むなり自分自身が往復ずっと走って来たかのように少年は荒い息をして叫んだ。

「二枚めのは僕の部屋に、僕がそこで開けたから、そのまま机に置いてあった! 最初のは――幸運だった!」

 少年は正直にその事実を認めた。自分で言う通りこの子は嘘つきではないようだ。

「キヨ――僕の家の女中だよ、が大切に取っておいてくれたんだ! それというのも――」

 ――包み紙のせいだった。

 絵を包装してあった纸は二枚とも美しい千代紙を貼り合わせたものだった!

 もったいなく思ったキヨは捨てずに持っていた。

「美意識のある送り主だな? 包み紙が千代紙だなんて。この点について君は一言も言及しなかったが」

 また少年は頬を染めた。

「その上、凄く重要な痕跡がここには残されているぞ!」

「え?」

「見たまえ!」


 興梠が指し示した箇所。

 包み紙に張り付けた宛名の箇所。

 明らかに書き直した形跡がある。


 《海府■■ゆきこ様》

 

 ゆきこの上が塗り潰してあって、その下に新たに名前が書かれている。



「どっちが一枚目の絵を包んでいた紙だい?」

「こっちだ! 扇模様の方……」

 ありがたいことに美意識のある送り主のおかげで、千代紙の模様から一枚目か二枚目かは容易に判別できた。 

 そして、両方とも、名前の上に書き直しが認められた。

「これはどう言う意味だろう?」

 上気した頬で少年は探偵を振り返った。

「送りたい相手の名を、しかも、二度も間違えるなんて! そんなことある?」

「普通はありえないな。だが今回はこのことが絵の謎を解く鍵になるかも知れない」

 絵に込められた謎は謎として、絵のレベルは中々のものと興梠は見た。

 これほどの油絵の素養のある者なら一応の教養もあるはず。それなのに一度ならず二度も宛名を書き損じている――

「君のお父さんの商売相手に外国人はいるかい?」

「勿論さ!」

 むしろ外国人の方が多いと少年は即答した。

「海府商会は御祖父さまが明治になるとすぐ設立したレースの製造卸の会社なんだ!」 

 繊細で美しい〈海府レース〉は、国内は言うまでもなく欧州で絶大な人気を博してる。

「当然、取引相手は西洋人だらけさ! だからだよ、今月――西洋で聖月に当たる12月はパーティばっかり! パーティ漬けの毎日だ。父さまも姉さまも招待に応えて出席するだけでそりゃもう大変なんだ!」

「君の大切なお姉さんの取り巻きに西洋人はいる?」

「そりゃ……勿論。だけど、何故そんなこと聞くのさ?」

 不審もあらわに少年が探偵の顔を見返す。

「絵の謎はそっちのけでさ?」

 絵の方は兎に角、と興梠は北叟笑ほくそえんだ。心の中で。

 送り主の方は存外早く判明するかも知れないな?


 美しい千代紙と書き損じた宛名……


「確認するが、君のお姉さんの名前……〝ゆきこ〟さんは、漢字ではどう書くんだい? 雪子? 幸子? それとも、由紀子?」

「どれも大外れさ!」

 再び取り戻した得意顔。

 まだあどけなさの残る中学生は探偵の差し出した紙に姉の名を書いてみせた。

 

     《六花子》


「なるほど、姿に違わぬ美しい名だな!」

「言うまでもなく姉さまは12月……しかも24日生まれなんだ! その朝、雪が降っていて父さまは感動にむせんでこの名をつけたって。フフ、父さまはロマンチストで凝り性なんだ。僕の名も、変わってるだろ? 子規しきじゃないよ。よく間違われるけど、志義しぎ。尤も、姉さまの名の方は、母さまが猛反対したらしい」

「どうして?」

「美しいには美しいけれど儚げな名前だから。すぐ消えてしまうんじゃないかと。それで、音は同じだけど表記は〈雪〉をやめて漢語的表現の〈六花〉とした。とはいえ、儚く消えてしまったのは母さまの方だったけどね。母さまは二度目のお産で――つまり、僕を生みおとすとすぐ、その日の夕方に死んでしまったんだ。僕の誕生日が母さまの命日というわけ」

 少年は長い睫毛を伏せた。

「さっき言い忘れたけどね、僕の名はその夕方……母さまを失った悲しみで父さまの頭の中にはその歌しか思い浮かばなかったからだってさ」

 朗々と志義は歌い上げた。


「心なき身にもあわれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕暮れ……」


 言わずと知れた西行の名歌である。

 ロマンチストの父親は息子の方も音だけ残して――鴫を志義として命名した。

 その悲しい話を聞きながら、自分も、早くに母を亡くしたことを言うべきかどうか探偵は逡巡した。

 だが当の少年はすぐに言葉を継いだ。

「だけど、僕は寂しい思いをしたことは一度もない。いつも傍に姉さまがいたから! 姉さまは、母さまが死んだその日から、自分が母さまの代わりになると誓って、どんな時も僕のそばを離れず、守り、育ててくれたんだ! たった四歳しか違わないのに!」

 双眸を青く燃え滾らせて少年は拳を握った。

「だからこそ、今度は僕が姉さまを助ける番だ!」

「君の決意のほどは、充分にわかった」

 探偵は静かな声で促した。

「じゃ、今日のところは、君はもう帰りたまえ。明日から僕は色々調べてみよう。何かわかったら、すぐ連絡するよ」

 先刻、姉の名を書かせたメモパッドに連絡先の詳細を記させると、当然というように探偵は付け足した。

「この二枚の絵は預からせてもらうよ?」




 

 少年を返してから、遅い夕餉をとり、風呂に浸かったあと興梠響は事務所にしている部屋へ戻った。

 パジャマにガウンという、この男にしては砕けた格好。

 ウイスキーのグラスを持って一人がけの椅子に腰を下ろすと改めて二枚の絵を眺めた。

 風景画(或いは肖像画とも言える?)……〈西洋人の男と二本の木〉の絵。

 静物画……〈二個の鈴〉の絵。

「うーん……模写ではないことだけは確かだ。こんな絵は見たことがない」


 カタッ!


 幽かな物音。

 一人暮らしの興梠の室内で?

 

 だが、勿論、興梠は驚かなかった。

「いけない。色々あったんで、今日はまだ餌をやってなかったな?」

 絨毯の上をゆっくりと歩いて来たのは黒猫だった。

 興梠は可愛らしいバラの描かれたカルベール焼きのファイアンスの小鉢に餌を入れると床に置いた。

「さあ、お食べ、ノアロー」

 ノアローと呼ばれた猫は顔を突っ込んで食べはじめた。だが、興梠がそっと手を伸ばすと絶妙の差で体をくねらせる。

「――」

 今に始まったことではないので興梠は慣れていたが。

 そう、実際、興梠は未だに、過去一度も、飼い猫であるこの黒猫に触れたことがなかった。

 嘘ではない。

 拾ったその日さえ、雨に濡れて玄関ドアの前で蹲っていた子猫は、帰宅した興梠がドアを開けてやると、さっさと自分で邸内に入って行ったのである――

 以来、餌の時間にだけ何処からともなく(何しろ元医院だけあって広い邸である)現れて、食べ終わるとまた消え去る。首に巻いた真紅のビロードの紐は飼い始めた頃、獣医に結んでもらった。しかもわざわざこの邸まで来てもらったのだ。自分ではどうやっても、黒猫を捕まえられなくて。

 ひょっとして……と、半ば本気で興梠は考えていた。

 あの猫は実在しない、幻の猫なのかもな? 

 孤独な自分が作り出した〈幻想の同居人〉。

 だから、触れることができないのだ。

 獣医だの餌だの、猫にまつわる事柄は全て己の妄想である。

 それならそれでいい、と興梠は思っている。

 どうやら、自分は人に――特に好いた人間に――嫌われる属性があるみたいだ。

 その上、近づいて来るのは嫌いなタイプばかりとくる。


 今日の依頼人・海府志義かいふしぎ


 数年前、自分を地獄へ叩き落とした某少年に似ている――

 だが、ままよ。

 探偵は孤独な人間に似合いの職業である。

 大家族に囲まれた幸福な探偵を君は見たことがあるか? ないだろう?

 



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