第10話 :2
「母、アリッサは精神状態がおかしくなって――記憶が混濁している、と言うのはお話しましたよね?」
一旦決心すると堰を切ったように藤木は語りだした。
「最近の母は僕の問いかけにも反応しなくなって、それこそ、人形みたいに静かにベッドに横たわっていることが多いのです。それは仕方のないことと諦めていました。ところが、今から一ヶ月前の小春日和の日――」
その日、アリッサは突然ベッドに起き直ると息子の名を呼んだ。
宛ら、若い頃に戻ったように明るくしっかりした口調だった。
「エミール、エミール、ヒサチャン!」
「僕はここだよ、ママン、どうしたのさ?」
「ツレテッテ……アソコ……」
「?」
「母の言う〝あそこ〟が庭だというのはすぐわかりました。僕の母は庭をこよなく愛していましたからね。母は花が大好きなんです。勿論、父の次に」
「どうぞ、お続けください」
「それで、僕は車椅子に母を乗せて庭へ連れて行きました。そうしたら、母はそれをしたのです。右手の腕を伸ばし、人差し指を突き出して――」
「?」
「こう」
雅寿・エミール・藤木はそれをやってみせた。
「それが、僕が、母がその仕草をするのを初めて見た瞬間でした」
以来、幾度も自分を呼んでは、〝アソコ〟へ連れて行くことを要望し、そして、その仕草を繰り返すのだと藤木は言った。
「それは――何かを指し示すということでしょうか?」
「多分」
「その仕草をする際、お母様は何か言葉を話されますか?」
悲哀に満ちた目で青年は首を振った。
「いいえ、一言も。ただその仕草をするだけです」
「そりゃ、不思議な話だなあ!」
またまた声を上げる
一旦少年を見て頷いてから、探偵に視線を戻すと藤木は言った。
「僕がこうしてやって来たのは、母のその仕草の謎を解いていただきたくて、です。引き受けてくださいますね?」
「僕としても、お力になりたいのは山々ですが……」
探偵の返事は意外だった。
「こればかりは無理だと思います」
「えー!?」
吃驚して叫んだのは依頼人ではなく助手である。
やや遅れて依頼人が訊いてきた。
「お断りになる理由は何故でしょう?」
「息子さんである
きっぱりと探偵は言い切った。
「それがお断りする理由です」
「そ、そこを、何とか」
執拗に藤木は迫った。
「そうだ、では、こうしましょう。時間制で、どうです?」
「?」
「仕草の謎……と言うか、意味を聞き出せたらと言うのではなく、母の傍で、せめて、取り敢えず1時間だけ一緒にいてもらって、その時間内に様子を探っていただけたら……その分のお金をお支払いいたします」
「悪くない条件じゃないか!」
喜んだのは、勿論、志義である。
扉近くの椅子から飛び降りると駆け寄って探偵の腕を引っ張った。
「お引き受けするべきだ! 興梠さん! どうせ、暇なんだからさ!」
その後で、円らな瞳を細める。可愛らしい顔が一変して何やら小悪魔的な表情になった。
「でなきゃ――このままだとますますノアローに嫌われちゃうぜ?」
「ど、どう言う意味かな、志義君?」
明らかに探偵は動揺した。
「この処、全然仕事がなくて、貴方ずっと家にいるでしょ? そのことがノアローの神経を逆撫でしているって気づかないの? 彼女を少し、自由にしてやるべきだよ!」
「わ、わかったよ」
内心深く傷ついた探偵。眉間に皺を刻んで興梠は頷いた。
「君がそこまで言うなら――」
改めて混血の美青年に向き直ると、
「藤木さん、これから、一時間ばかり、お付き合いさせていただきます」
「ありがとうございます!」
安堵の息を吐いて、紅茶カップに手を伸ばす依頼人だった。
微苦笑して言い添える。
「探偵さんも? 外国人の奥様をお持ちなんですね? お察しします。気をお使いになられて色々と大変ですね?」
探偵は即座に依頼人の誤解を訂正した。
「妻じゃない。ノアローは猫です」
そのまま一同は探偵の愛車、空色のフォルクスワーゲン・ビートルで移動した。
この夏、発表された話題の新型を、探偵はいち早く購入している。
助手席に座った依頼人の指示通りに車を走らせ、やがて、到着した郊外の一軒家。
「……」
「驚かれましたか?」
車を降りながら赤い髪を揺らして藤木は悪戯っぽく微笑んだ。
「いえ、別に」
如才なく興梠響は言葉を濁したが――
内心ひどく驚いていた。
と言うのも、思いのほか立派な家だったので。
空を突く鐘楼のような塔を持つ洋館。
鱗模様の外壁はサーモンピンクで、屋根は苔色だ。
この様子ならパリジェンヌだった夫人が、日本人の夫の次に愛したという庭も相当のものだろう。
息子の言葉通り、
「どうぞ、お入りください」
探偵とその助手を応接室へ案内すると、藤木はすぐ出て行った。
階段を駆け昇る音。
勢いよくドアを開ける音。
「ただいま、ママン! いい人をお連れしたよ!」
藤木が母を起こして連れて来るまで少々時間がかかった。
その間に部屋を見回しながら少年が率直な意見を述べた。
「可愛らしい家だなあ! まるでお伽話にでてくる家みたいだ!」
ガレ風のクリーム色のソファ、花瓶やランプは植物をモチーフにしたナンシー風。
この家の住人はアール・ヌーボーが好みらしい。
蜻蛉模様の壺を手に取って興味深げに見つめている少年に興梠は囁いた。
「フシギ君、憶えておきたまえ。君の家に比べたら、大概の家は
探偵の助手は海外にも広く輸出される人気のレース会社の子息なのだ。
「チェ、そう言う興梠さんだって元大医院の御曹司じゃないか。未だに自分の事務所も持てず、結局は親の残した豪邸から出ていけない、シガナイ探偵のくせに」
「うっ」
図星である。
興梠は胸の中で十、数を数えながら掃き出し窓へ寄って庭を眺めた。
先刻、玄関先で予想した通り、庭は広かった。
だが、悲しいかな、その広い庭は荒れ果てていた。
息子は容貌ほどには母の趣味――
アリッサ夫人が元気だった頃は手入れが行き届いて、さぞや美しかっただろうに!
だが、今は、惨めな様相を呈していた。宛ら、捨てられた恋人のように。
探偵は顔を顰めた。この表現は却下。好きじゃない。
悲しい記憶を封印して、改めて庭に視線を戻す。
野放図に繁茂する宿根草が余計に寂しさを感じさせた。
目に付いた中で知っている草花の名前を興梠は呟いてみた。
フジバカマ、エリゲロン、アスチルベ、コバノランタナ、ユリオプスデイジー、ツワブキ……
おや? あれはなんだ?
「――」
「どうしたのさ? 何をそう熱心に見てるの? 好きな花でも見つけたの?」
「フシギ君、ちょっと来て、見てごらん、あれ――」
「お待たせして申し訳ありません!」
ちょうどその時、藤木青年がドアを開けて入って来た。
息子の押す車椅子に乗っているのは小柄な西洋人の女性だった。
銀の巻き毛、息子と同じ水色の瞳、透き通った白い肌。折れそうな細い体を包む鴇色のガウン。
どこもかしこも淡い色。秋の午後の光に滲んで、今にも溶けてなくなりそうだ。
だが、その儚げな印象を裏切るように、小さな唇から声が漏れた。
瀟洒な家を揺るがす程の叫び声――
「マサミチ!」
銀髪の夫人は車椅子から立ち上がると探偵の胸に飛び込んだ。
「ああ、貴方、帰って来たのね? マサミチ!」
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