第21話 :5

 美学や美術史を少しでも囓った人間にとってこんなのは謎でもなんでもない、と興梠響こうろぎひびきは言った。

「どうしてこれらの猫の絵を君に見せたと思う? 西洋ではね、特に中世からルネサンス期において、キリスト教会は猫を〈悪魔の使い〉として忌み嫌っていたんだ」

「えー! それ、ほんと? こんなに可愛い生き物を? 信じられないよ」

「そうかい?」

 引き攣った笑いを浮かべる探偵。

 ノアローを見ていると時折、いや、かなり頻繁に悪魔に違いないと思うことがある。

 さっきだって、あの逃げ方はないじゃないか? どれだけ人を傷つければ気が済むんだ? アイツのせいで俺の心はズタズタだ!

 ともあれ――

 気を取り直して探偵は助手への説明を再開した。

「さあ、例えば――この絵の中の猫をよく見てごらん」

「?」

 

 ロレンツォ・ロットの《受胎告知》。

 向かって左に驚愕のマリアを置き、聖なる知らせを告げに降臨した大天使を右にして、敢えて中央には走って逃げる猫が描かれている。まさにさっきのノアローを彷彿とさせるリアルな描写である。

「へえ? で、どういうことを意味しているの?」

「猫は悪魔のしもべだから、恐れおののいて一目散に聖なる天使から逃げ出したのさ!」

「なるほど! じゃ、いつもノアローに逃げられる興梠さんは天使ってわけだ! アハハ!」

 少年のジョークを探偵は無視した。

「こうまで露骨でなくても、例えば、何匹も室内にたむろする猫などは、悪が身近に存在することを示して、注意を怠らないように中世の人々に警告しているのさ。そして」

 探偵は一番重要な絵のグループの前に移動した。

「最も象徴的なのはこれら《最後の晩餐》の絵に描かれる猫だ。猫は何処に描かれているかわかるかい?」

 

 ギルランダイオ、コジモ・ロッセリ、ヤーコボ・バッサノ、ヒューグ・ジェーム、ベルナルド・ルイーニ……

 構図は違っても、いづれも猫はユダの足の下に描かれていた。

 裏切り者の真下に・・・・・・・・猫はいるのだ・・・・・・


「ということは……あの絵の中で猫が描かれている人物を調べる必要がある?」

「その通り! そこで、君の出番というわけさ、フシギ君!」

 

 これから、自宅に帰る前にもう一度依頼人の家へ寄って絵の中の人物全員の名と所在を夫人に聞いて来てもらいたい、と興梠は言った。さっきは、とにかく一刻も早く猫について美術書で確認したかったのでここへ戻ったのだが。僕の推理が正しいとわかった以上、絵の中の人物の詳細を調べねばならない。

 勿論、猫が傍にいる人物・・・・・・・・は特に注意を払って念入りに頼むよ。どうして君に頼むかというとだな――

「人妻の家に何回も、その、僕のような成人男子が出入りするのもなんだからな」

 いかにもこの探偵らしい奥ゆかしい論理である。加えて、いかにも探偵助手らしいこの役回りに志義しぎが狂喜したのは言うまでもない。

 興梠が最後まで言い終わる前に、さっきのノアローに負けない猛スピードで少年は事務所から飛び出して行った。

「おい、フシギ君! タクシーを使いたまえ! 経費で落とすから、領収書をもらって置くように――って、お―い? 聞こえたかい?」





 依頼人の家のやや手前でタクシーを降りた興梠探偵社・助手海府志義かいふしぎだった。

 勿論、領収書などはもらわなかった。全額自前である。

 何、そんなことは全然構わない。少年は海外でも人気の《海府レース》の御曹司なのだ。小遣いはたっぷり持っている。尤も、来月の4月1日、国家総動員法の公布が第1次近衛内閣の下、決定している。この法は国民は元より経済の戦時体制化を目的としていた。

 これ以降、重要物資・資源は軍需が最優先されることとなる。衣料関係の民間会社を経営する志義の父などは大いに将来を憂慮していた。

 とはいえ、そんな事は探偵を夢見る少年には全然関係ない、別世界の話である。

 上機嫌で二連打ちの敷石をスキップして玄関へ至ったのと引き戸が開いて人影が出て来たのはほぼ同時だった。

「あ」

「レっ」

 見事に鉢合わせした、その人は――


「誰だね、君は?」

「え? 失敬な言い方だな? あなたこそ・・・・・、誰だよ?」

 チラッと、人物の背後に立つ湯浅夫人に視線を走らせつつ志儀は言った。

香苗姉様・・・・に何の用さ? 僕は――香苗姉様ねえさま従兄弟いとこだけど?」

「従兄弟?」

 男は後ろを振り返って確認した。

「君にこんな従兄弟がいたとは! 知らなかったな……」

「遠い親戚ですの。最近、その、ほら、輝彦さんの名が新聞に載って色々世間を騒がせたから、――それで心配して訪ねてくれたのよね? そうでしょう、シギちゃん?」

「!」

 志義は内心、湯浅夫人の機転に脱帽した。瞬時に何かを察知して調子を合わせてくれたのだ。

「ちょうど良かったわ! 今ね、こちらのお客様からお菓子を頂いたからシギちゃんも食べてお行きなさいな」

「では、僕はこれで――」

 納得したらしく、男はソフト帽を持ち上げて挨拶すると今度こそ敷居を跨いで、そして少年を避けて、出て行った。

「くれぐれも気を落とさないように、ね、香苗さん」

「お心遣いありがとうございました」

 丁寧に礼をして男を送り出す湯浅夫人だった。

 志義を引き入れ、玄関の引き戸を閉め、足音が遠ざかって完全に消えてしまうまで湯浅香苗は何も言わなかった。

 周囲の静寂を確認してから、

「どうしたの? また戻って来るなんて。何かあったの?」

「助かりました! あの、さっきは嘘をついてしまってごめんなさい」

 改めて志義も制帽を脱いで頭を下げた。

「いきなり〝姉様ねえさま〟なんていうから吃驚しちゃった! ほら、まだドキドキしててよ?」

 志義の手を取って胸の上に置いた。

 銘仙の滑らかな手触り。少年の血が沸騰する。甘酸っぱい思いが全身を貫いた。雷なら感電死しているところだ。

 少年の衝撃を知ってか知らずか、若妻は手を握ったまま、

「私一人っ子だから、姉様って呼んでもらったの生まれて初めて! だから凄く嬉しかったわ! でも」

 ここで小首を傾げる。

「どうしてそんな風に呼んだの?」

「そうだ! 僕、興梠さんの――探偵の使い、重要な任務・・・・・で来たんです!」

 乱れた息で助手は告げた。

「例の大学時代の人物画に描かれている友人たちの名前と所在を聞いて来るようにって」

 

 ―― 特に猫が足元にいた人物は要注意だよ?

 

 ところで、さっき玄関で鉢合わせした男こそ、ドンピシャ、その人だった……!

 志義は人物観察に余念がない。猫のことはともかく、一度見た絵画の中の人物の顔もしっかりと覚えていた。だからこそ、あの場でああいう態度をとったのだ。咄嗟に素性を偽ったのは当人に内偵されていることを悟らせない為。これは探偵業のセオリーである。

「さっきの人はご主人が描いた絵の中の一人ですよね?」

 頬を染めて、動悸を抑えて、探偵の助手は説明した。 

「だから、僕は念のため、自分の正体を悟らせないように嘘をついたんです」

「まあ……!」

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