第25話 :9


「きゃ!」

「うぁ?」

「ニヤア」


 いきなり叩きつけるように襖を開けた探偵に一斉に悲鳴が上がった。

「あ、これは失敬」

「もう、興梠こうろぎさんたら、脅かさないでよ! ねえ、香苗かなえさん? 今、ノアロー、香苗さんの膝の上で寝てたんだから」

「――」

 人妻の膝の上で丸まっている自分の飼い猫をまじまじと見つめる興梠。とはいえ、すぐに本題に入った。

「お尋ねします、湯浅ゆあささん、お宅では金魚を飼っていますか?」

「何それ? ノアローが悪戯するか心配なの?」

「そうじゃない」

「飼ってるわ」

 安心してまた寝入った黒猫を愛おしそうに撫でながら香苗が頷く。

「縁側の、丸テーブルの上です」

「どんな容器です?」

「どんなって……普通の……金魚鉢ですけど?」



 襞のある、縁の青い、円形のガラスの金魚鉢。

 赤い和金が三匹泳いでいる。

「湯浅さん、暫く猫をお願いします。フシギ君、君は金魚を洗面器に移してくれたまえ」

 ジャケットを脱ぎ、オーダーメードのワイシャツの袖を几帳面に折りながら探偵は指示した。探偵のトレードマーク(と内心志義しぎが思っている)ジレの、この日の生地はスポテックス。砂色サンドベージュの千鳥格子ハウンドトゥース。

 よく考えたら真夜中叩き起されたのにソツのない選択である。

 言われた通り助手が金魚を掬い取って、空っぽになった金魚鉢に探偵は腕を入れた。

 底の小石をゆっくりと探る。果たして――

「!」

「何ですの、それ?」

 探偵が指先に挟んで引っ張り出したのは油紙に包まれた紙片だった。

「フラスコ画からの連想ですよ。フラスコ……フレスコ。同じ音で、実験機材のガラス容器フレスコがある。が、一般家庭にそんなものはないはずだ」

 袖をおろし、瑪瑙めのうのカフスを止めながら探偵は言う。

「だから、一番近い形状は何かと考えたんです」

 丸いガラスの容器……金魚鉢……

「講釈はいいから、早く中を開けてみてよ!」

 むべもなく助手は促した。


「なんだ、これ?」

 その助手の少年の、油紙から出て来た紙片を見ての第一声である。

 折り畳んであるそれを広げると、何のことはない。破り取られたスケッチブックの一頁。

 そこにも猫の絵が描かれていた。

 というより、例の付け加えられた猫の、これは習作――下絵のようである。

 実際に描かれたベルナルド・ルイーニの猫だけでなく、もう数匹。

 興梠は順番に名を読み上げた。

「ギルランダイオ、コジモ・ロッセリ、ヤーコブ・バッサノ。次も同じくバッサノ。そして、テイントレットの〈猫〉だ……」

「あなたの旦那さんはそんなに猫が好きだったの?」

 猫を抱いたままの香苗夫人に志義が訊いた。

「さあ? 犬は飼いたがってたけど……特別猫好きというのではなかったわ」

「また謎が増えただけだね、興梠さん?」





「紅茶をどうぞ」

 ノックして海府志義かいふしぎが入って来た。夜も11時を回っている。

 興梠はずっと書斎に篭って出現した新たな謎と格闘していた。

 素描の猫たち。

 だが、行き詰まっている。手も足も出ない。

「ありがとう。湯浅夫人は?」

「もう寝たよ。さっき寝室へ引き上げたから」

「君も休みたまえ。明日からはちゃんと学校にも行くんだよ。そうそうズル休みをしてはいけない」

「わかってるよ。でも、僕が登校して留守の間、心配だな、大丈夫?」

 興梠は笑い出した。

「日中だぞ! いくらなんでも大丈夫さ!」

「昼だろうと夜だろうと、わかるもんか。それに襲撃者は何処にでもいる」

 少年の瞳が底光りして煌めいた。

「男は皆、狼だからな」

「ぶっ!」

 盛大に紅茶を吐き出した探偵。

「あ―! 勿体無い! 気をつけてよ!」

 素早く布巾で拭き取りながら少年は呟いた。

「まあ、いいや。廉価のアッサム・ティーだから」

 この助手め、やはり平生、探偵社で俺に飲ませてるのはアールグレイじゃないんだな?

「おい、フシギ君!」

 だが、この場合、紅茶の銘柄よりも質すべきことがある。

「狼とは僕のことかい?」

「もちろん、あなたさ」

 少年は真顔だった。

「実際、香苗さんは素敵な人だもの! 石仏のような興梠さんだっていつ何時なんどき野獣に豹変するかわかったものじゃない。僕はあの人を全力で守るって誓ったんだから。あの日の夜から!」

「暴漢に襲われたあの夜か……?」

 ちょっと違う。(正確に言うと)もう少し前だ。

 普段は元気いっぱいの人が肩を震わせて泣いたその時から。

 勿論少年はそのことについては探偵にも言うつもりはなかった。あの瞬間、自分の胸にざした熱い思い。何百年(いや何千前から?)その現象・・・・に既に名があることを少年は知らなかった。

 amour  Liebe  Con amoure  love  恋……

 幸い探偵の関心はそこにはないようだ。

「待てよ、狼? 狼……」

「やだな? 狼って言われたことがそんなにショックだった?」

「いや、そうじゃない。君の言動の中じゃこんなものショックの内に入らないさ」

 本音である。

「それより――見たまえ」

 探偵は手元にあった紙片に字を書いてみせた。

「狼――ケモノヘンに良だ。 では、猫は?」

「猫?」

 助手はオウム返しに答える。

「ケモノヘンに、苗だろ。だから?」

「苗か。ところで湯浅婦人の名にも。その字――苗が入っている」


 香


「や、ホントだ! 猫は猫でも、〈絵〉ではなく〈字〉から考えるのか? 発想の転換だ! その線で何か読み取れるかもしれないね、興梠さん!」


         


 新しい謎はまた新しい謎に繋がって行く……

 興奮した志義も居残って時が過ぎるのも忘れて探偵と助手は(字〉の解明に没頭した。


 香苗……  かなえ…… KANAE……


 探偵がふいに微笑を漏らしたので助手が怪訝そうに顔を上げた。

「どうしたのさ? 何かわかった?」

「いや、わかったというのじゃないが。こう、か・な・えと分解するとだな。こんな風にもなるな、と思って」


 かな絵 


「今回はどうも、絵・画に纏わる謎だろう? そこへまた本来の香・の字を戻すと――」


 香な絵


 妙にマッチしている、と探偵は言うのだ。

「名は体を表すというからなぁ!」

 元々〈香る〉は立ちこめる、発生するの意味だった。それが〝良いにおいが立つ〟意味になり、更に雰囲気、見た目の美しさを表すようになった。

 逆に〈匂う〉は元は美しい色彩のことで見た目の美しさを表現したんだが、いつのまにか良い香りがする、という風に嗅覚の表現に使用されるようになった。

 美学を修めた青年はうっとりとして言う。

「いずれにせよ、香る絵、香な絵 と変換できる名は湯浅夫人に似合っている。ふさわしい名じゃないかなと思ってね」

「フウウゥン?」

 ノアローそっくりに少年は鼻を鳴らした。

「やっぱり、香苗さんのこと、好きなんだね、興梠さん? こりゃあ益々、昼間二人だけにさせるの心配になってきたな、僕」

「ばっ、馬鹿な! そう言う意味じゃないよ!」

 慌てて弁明する探偵だった。

「僕は純粋に美の話をしているのさ。名前から読み取ることのできる重要な情報を探ってだな……時にこんなアプローチも謎の解明には役に立つものなのさ」

「だったら、もっとマシな解読をして見せてよ。明らかに方向がズレてる。興梠さんの変換はロマンチック過ぎるよ」

 ピシャリと探偵小説マニアの少年は言った。

「聞いて。僕の読み取りはこうさ。〈香〉の字をもっとバラバラに分解してみるんだ」

「禾・日?」

「もっとさ! ノ・木・日。これを組み立て直して何か意味のある言葉はないか考えると――」

「ふむ? 日・ノ・木……ひのき……檜か?」

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