第26話 :10
翌日、起きて来た
「庭に
流石に驚いた顔をしたものの湯浅夫人はあっさりと頷いた。
「あるわ。結婚を記念して桜と楓と檜の苗を新しく植えたから」
「やった!」
飛び跳ねて喜ぶ助手に
「君は学校へ行きなさい。あとは僕が確認しておくよ」
「チェ! そんなことだろうと思った!」
「チェ! こんなことだろうと思った……」
早々に中学校から帰って来た
少年が登校後、探偵は庭の檜の周辺を掘ってみたが収穫はゼロ。何も出て来なかった。
「認めるよ。僕はミスった。明らかに読み間違いだったんだね?」
がっかりして少年はため息をついた。
「あーあ、現実は探偵小説のようには展開しないや。これでまた〈原点に立ち返れ〉、だな」
一方少年が肩に担いでいるものに視線を留めて興梠が訊いた。
「ところで、
「ああ! 学校の剣道部の友人から借りてきた。この先、賊が侵入したらその時はこれで脳天をブチ割ってやる!」
悔しそうに志義は言い添えた。
「この間、一擊で倒せなかったのは細い
薩摩藩士の血を引く少年を見つめて興梠響は微苦笑した。こりゃ、案外頼りになるかも。
剣客、小天狗と称された心形刀流の伊庭八郎も、示現流の達人篠原十内も、外見は華奢な美少年だったそうだからな?
竹刀を肩に担いだ
思わず一句捻り出してしまう。
《 色白の少年剣士 春の水 》
そんな探偵の心を見透すように横目で見ながら助手は言うのだ。
「僕が沖田総司なら――興梠さんはまさしく土方歳三だね!」
「副長とは光栄だな! 毒舌の君にしては高評価じゃないか?」
「嫌だなあ、僕の言ってるのは剣の腕じゃなくて、句作のことだよ!」
「――」
余談だが、新選組の鬼の副長・土方歳三も豊玉という俳号を有すほど俳句が趣味だったのだが、腕前の方は……
ちなみに最も有名な句は、
《 梅の花 一輪咲いても 梅は梅 》
(これなら俺の方が遥かに――)
いや、こんなことしてる場合じゃない。
探偵は頭を振って諸々の雑念を篩い落とした。
名前に固執するのは間違いだった。
やはり、美術、絵画の線で考えるべきなのだ。
改めて猫の並んでいる紙片を前に腕を組む興梠響。
ギルランダイオの猫(フレスコ画)
コジモ・ロッセリの猫(フレスコ画)
ヤーコボ・バッサノの猫(フレスコ画)
ティントレットの猫(フレスコ画)
共通点は〈猫〉と原画が〈フレスコ画〉だということ。それにしても――
よくぞ網羅したものだな?
「!」
よく……網羅……?
興梠はハッとした。
これらを模写したということは当然ながら輝彦さんはお手本――美術書を持っていたはずだ。
空っぽの書棚を探偵は眺めた。
言うまでもなく、警察は家宅捜索の際、書物の類は真っ先に押収した。
だが、そんなことは
その可能性は十分にある。
現に、警察より先に湯浅邸に侵入して物色した
「……美術書か?」
これら様々な巨匠の〈猫の絵〉の模写は、典拠となった
興梠は逸る心を抑えて考えた。
そう言った
自分なら、何処にする? 何処を選ぶ?
「どうぞ、一息お入れになって。あまりコンを詰めるとお体に毒よ?」
今度、紅茶の盆を掲げて入って来たのは湯浅夫人、香苗だった。
「これは――すみません。どうぞお気遣いなく」
慣れた仕草で机にカップを置く。
こんな風に? いつも夫に接していたのだろうか?
伏せた睫毛が白い頬に優しい翳を零している。
慌てて目を逸らす孤独な探偵。
「ちょうど良かった! お聞きしたいことがあります。湯浅さん、ご主人がよく行かれた古本屋などをご存知ないでしょうか?」
「
「うぁ?」
香苗の背後から叫んで飛び出したのは志義だった。
「お、脅かさないでくれよ、、フシギ君。それに――家の中で
しっかり手に竹刀を握っている。どころか――
今しも
「そうかな?
「グ」
「そんなことより――馴染みの古本屋なら
「え? ええ、そうよ、菁修堂」
竹刀を払いのけながら探偵は訊いた。
「何故、君が知っているんだ?」
「だって、聞いてたから。その古本屋で輝彦さんは香苗さんを見初めたんだ! そうだよね?」
「いやだ、シギちゃんたら! そんな話――恥ずかしいわ!」
頬を染める若妻。
「おいおい」
呆れ返って探偵は目を剥いた。
「君はもっと早く、その種の情報を僕に伝えるべきだったな!」
「どうしてさ? 興梠さんこそ、そんなことが謎解きに必要だなんて言わなかったじゃないか! それに――」
「それに?」
志義はきゅっと唇を噛んだ。
盆で顔を隠した香苗が書斎から逃げ去ってしまうまで志義は口を閉ざしたままだった。
「できるだけ秘密にしたかったんだよ」
探偵と二人きりになってから志義は告白した。
「香苗さんが僕に教えてくれた……僕だけが香苗さんから聞いた……素敵な話だったから」
「ああ、なるほど」
探偵はそれ以上助手を責めなかった。机に広げた猫の絵に視線を戻して何やら熟考している。
逆に志義の方が確かめずにはいられなかった。
「僕のこと助手失格だと思ってる? 香苗さんから聞きだした秘密を自分だけのものにしてあなたに教えなかったから……」
「まさか!」
ニッコリと興梠響は笑った。
「憶えておきたまえ、フシギ君。探偵が探るのは常に《謎》であって《秘密》ではないんだよ」
真実の探偵は
パッと少年の顔が輝いた。
こういう瞬間の志義はとてつもなく可愛らしい。その顔でとんでもないことを聞いてきた。
「ねえ、興梠さんは恋をしたことがある?」
「それは――それなりに」
「どんな人だった?」
「……素晴らしい人だったさ」
「初恋?」
「そうだな」
「初恋は実らないって、言うよね?」
「らしいな」
「香苗さんと輝彦さんは初恋同士だったんだってさ。それなのに、いいなあ! 見事に結ばれた! 結婚したんだもの! それだけでも幸せだよね?」
竹刀を握り直して志義は呟く。
「今は離れ離れだけど。でも、心は決して離れていない。そして、永遠に離れることはないんだ。この先たとえどんなことがあっても! 僕はそんな気がする」
「どんなことがあっても……」
口の中で思わず興梠は繰り返してしまった。
―― 死が二人を分かつまで?
いや、死が二人に訪れても、なお?
愛し合っていながら離れ離れになるのと
愛されなくとも地上の何処かにその人が存在し続けるのとでは
どちらがどれだけ幸福なのだろう?
或いはどれだけ不幸なのだろう?
「何を考えているの、興梠さん?」
「くだらないこと」
探偵は笑い飛ばした。
「サイテーのことさ!」
逃がした愛を、もう一度、取り戻すことができるなら、悪魔に魂を売り渡してもいい。
そんな風に思う夜もある――
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