第27話 :11
翌日。夕方というには少々間のある午後。
繁華街の大通りを一筋入った処にある、堂々たる店構えの一軒。薄緑に塗った横羽目板張りは明治、青雲の志の香りがする。
各種学校に近い立地とあって学生や女学生、隠居した本好きの老人、サボリの勤め人……なかなかの盛況である。
尤も、目立たないよう探偵は意識的にこの時間帯を狙ったのだ。
入り口脇の勘定台の奥ではどてらを着た蓬髪の店主が火鉢に寄りかかって本を読んでいた。
「行くぞ」
書画や美術書はずっと奥の一角。人影はなかった。
念のため、志義を盾にして、棚を上段から中段、更に下段へと綿密に探って行く。一番下、屈み込んだ探偵の目にそれは飛び込んで来た。
《 美術百科全書・佐藤義亮編・新潮社 》
自分が有しているのと同種の一冊。出版年は昭和九年。興梠にとっては思い出深い、心に刻まれた特別の年である。
「――」
引き抜いて中を改める。
「見つけたの?」
小声で振り返った助手に書物の後ろ表紙を開いて示した。
「これだ――」
黒々と墨書してある五つの文字。
湯浅輝彦蔵
探偵は小脇に抱えると何食わぬ顔で勘定台へ向かった。
ここは一刻も早くこれを確保して、夫人の待つ湯浅邸へ戻りたい。この中にどんなメッセージが記されているのだろう?
年季の入った樫材の台の上へ湯浅輝彦の美術書を置いた。
「これを」
顔を上げる店主。
「ほう?」
「おいくらでしょう? 値札がつけてないんだが」
「いいものに目をつけられた。最近持ち込まれたんだが――掘り出し物ですよ?」
背広の
「急いでいるんです」
(ふっかけられても、言い値で買うぞ!)
「ご安心なさい。特別にお安くしておきますよ」
度の強い丸メガネを額へ押し上げて店主は笑った。
「ようこそ、興梠響探偵社さん?」
「あ」
「フシギ君!」
店内は探偵小説の並んでいる棚の前にいた助手に探偵は声をかけた。
「君はタクシーを拾って先に帰っていてくれ」
一円札を渡して、
「僕は――ちょっと野暮用ができた」
「OK」
屈託なく少年は了解した。むしろ喜んでいる様子。
「じゃ、そうする。いくら白昼とは言え、そうそう
「いいとも、好きにしたまえ」
飛び出して行く助手の背に興梠は叫んだ。
「僕は遅くなるかもしれない! 戸締りを厳重に頼んだよ!」
◇◇◇
探偵・興梠響が湯浅邸へ戻ったのは翌日の夜明け前だった。
香苗から渡されていた合鍵で玄関を開けると、そこに竹刀を抱えたまま志義が眠っていた。
一旦書斎へ戻って毛布を取って来る。掛けようとした時、少年は目を覚ました。
「こんな時間まで……昨夜は一体何処へ行ってたのさ?」
「ん、ちょっとね……」
探偵からは冷たい冷気が漂って来た。
雪の匂い。もう春はそこまで来ているというのに?
「夫人は?」
「え? まだ寝てるよ」
「起きています」
振り返ると廊下の先の暗がりにその美しい依頼人が立っていた。
「私、昨晩はずっと起きていました。何か――進展があったんですね? 輝彦さんは何処? 何処へ行けば会えるの?」
「香苗さん、この家にフラスコ画はありますか?」
「?」
吃驚して探偵を振り仰ぐ助手。
唐突な言葉に夫人も目を見開いた。
「え?」
「僕が今まで見た限りでは、この家の中に
「嫌だわ、探偵さんったら! フラスコ画? そんなこと?」
若妻の明るい笑い声が弾けた。
「フラスコ画なら――お待ちになって、今持ってまいります」
ほどなく、緋縮緬の風呂敷包みを胸に抱いて香苗は戻って来た。
「飾ってなかったんだね?」 と少年。
「ええ。この絵は特別だから。平生は鏡台の引き出しにしまってあるの」
「見せていただけますか?」
「もちろんですとも。どうぞ」
興梠は丁寧に風呂敷を解くとそれを取り出した。
「――」
フラスコ画で描かれた若い乙女の肖像。
中世の装束を纏った香苗の絵。
「輝彦さん――夫が最初に私にプレゼントしてくれたものです」
「あ! それか! 古本屋でいきなり手渡された四角い包み……?」
「そうよ」
ポッと頬を染め、その薔薇色の頬を雪のような白い指で覆って依頼人は言う。
「菁修堂で、私のこと見初めたと言って……それで、その日から一生懸命描いたのだそうです」
「どうして飾ってなかったの? とても、素敵な絵だよ!?」
不思議そうに志義が訊く。
「いやだわ。恥ずかしい。それに――」
どんなに待ってもその先を香苗は口にすることはなかった。
だが居合わせた探偵も、助手の少年も理解した。
美しい秘密を人は誰でも持っている。
そして、それはこっそり、大切に、胸の深奥に隠すべきなのだ。
「でも、一体、この絵がどうかして?」
探偵は無言で絵を夫人に返した。
「あ?」
裏返すと、封書が挟んである。
「
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