第16話 :8

「もうちょい左……おっと、今度は右、そう、もう少し上げて、そこだ、そのまま……」

 事務所へ戻るなり早速助手に命じてビーューロの横の壁に藤木雅倫ふじきまさみちの絵を掛けさせる探偵だった。

「うん! それでいい――」

 顎に手をやってつくづくと絵に見入る興梠こうろぎ

「あーあ! それにしても、久しぶりに入った探偵料なのに、それを遥かに超える高い買い物をするなんて! 興梠さん、あなた、金を儲けるつもりなんてないでしょう?」

「いいじゃないか、どうせ僕一代では使い切れないくらい信託貯金はあるんだ」

 思わず本音を漏らした探偵に珍しく神妙な口調で志義しぎは訊いた。

「興梠さんは知ってたんだね? 依頼人――藤木雅寿ふじきまさひささんが出歩いているのは〝職探し〟のためだって」

「まあね。あのとおり、品が良くて育ちのいいのは一目瞭然だ。なのに――」

 身につけている衣服が上等な品ではあるがサイズが合っていない、と興梠は指摘した。最初に会った瞬間に気づいていたのだ。

「倹約して、父親のモノを着まわしているとすぐわかったさ」

 お洒落な探偵は付け足した。

「今の時代、日本この国で〈西洋人に見える〉容貌は決して職を得るのに有利ではないからね。嫌な話だけれど、それもまた現実だ」

 周囲では急速に戦争の影が増していた。

 この春、ナチス・ドイツはオーストリアを併合した。9月には日本軍も中国の広東省、武漢三鎮を占領している。近衛首相が《東亜新秩序》なる声明を発表したのは今月に入ってすぐのこと。一方。ドイツではユダヤ人迫害が開始された。俗に言う〈水晶の夜〉である。

「あーあ!」

 暗鬱たる気分で少年はソファに腰を落とした。未来のことを考えると一変で気が重くなる。

 慰めるように黒猫が膝に飛び乗って来た。

「ノアロー! おまえは優しい子だね?」

 艶やかな黒い背中を撫でながら気を取り直して志義は顔を上げる。

「それで――宝石箱は何処にあるのさ? その場所も興梠さんは大体察しがついているんでしょ?」

「そうだな。今となっては確かめようがないが――」

「へえ? 何処? やっぱり、庭のどこか? 深い地面の奥底?」

 実際今にもシャベルを抱えて飛び出しそうな少年に、探偵は静かに首を振ってみせた。

「底は底でも、海の底さ」


                


         .。.:*・゜*・゜。:.*


   

「ここにいたのか? 探したぞ。 風が出て来た。もう船室へ戻ったほうがいいよ、アリッサ?」

 海原を見つめながら佇んでいる金の髪の恋人に藤木雅倫は駆け寄った。

 足元のトランクに気づいて眉を寄せる。

「どうしたの、それ? 荷物は乗船の際、僕が船室に運んだろう? なんだってまた持ち出したんだ?」

 鈍色に畝ねる海を見つめたままアリッサ・レールモントフは言った。

「ねえ? 私と出会ったこと、後悔してる?」

「まさか! どうして、そんな馬鹿なこと言うんだい?」

「だって、私と出会わなければあなたは自分の夢を諦めずにすんだんですもの。もっとパリで勉強して――きっと、あなたは有名な画家になれたはずよ? それを考えていたら私……私……」

 吐息が潮風に飛ばされた。

「悲しくなっちゃった! こんな風に逃げるように慌ただしくパリを離れることになるなんて。全て、私のせい。私なんかと出会ったせいだわ!」

 波の飛沫ではない。乙女はわざと乱暴に自分の頬の涙を拭った。

「やっぱり、私、間違ってた! ごめんなさい、マサミチ、わがままを言って」

 乙女は必死に微笑もうとしている。

「だから、私、考え直したの。次の停泊港で下船して――すぐにパリへ引き返しましょう。、それまでこうして私は甲板に居るわ。決心は変わらないわよ」

 黒いレースの手袋を胸に押し当ててアリッサは言う。

 その手のなんと華奢なこと! 

 そして――

 小刻みに震えていることを画家志望の青年は見逃さなかった。

「パリに帰ったら、私たち、それぞれの正しい場所に戻るの。あなたは未来のある画学生に。私は寂しい亡命者に。そうだ、これは――」

 乙女はトランクを開けて宝石箱を取り出した。

「貴方に迷惑をかけたお詫びに差し上げます。どうか、受け取ってちょうだい。勉強の足しにでもして」

「馬鹿だな、アリッサ!」

 青年は細い乙女の肩を抱いて自分の方を向かせた。

「いいかい? 人は一回しか生きられない。その際、わがままは言えないんだ。あれもこれも欲しいなんて神様が許さないよ。選び取れる宝物は一つだけ! だから――」

「宝物は……一つだけ……」

「僕は喜んで、自信を持って選んだんだ。君を! 絵筆ではなく!」

「私を? 絵筆ではなく?」

「そうさ! 僕の方こそ、今更、決心は変わらないよ!」

 水色の瞳からドッと涙が溢れる。

「嬉しい! じゃあ……じゃあ、私も!」

 流れ落ちる涙を拭おうともせず乙女は叫んだ。

「私も 選ぶわ! 貴族の娘ではなく、あなたの――あなただけの花嫁になる。あなたが大切な絵筆を捨てたように……私だって……」

「おい、君、? アリッサ……? 何をする気だ? あっ!」

 絶叫する青年の前で、

 金の髪を揺らして船縁に身を乗り出すと乙女は力いっぱい宝石箱を海へと投げ捨てた。

「危ない――」

「キャッ……」

 揺れる船上で雅倫はアリッサの細い体を抱きとめた。

 もんどり打って、甲板を転がる二人。

 だがその腕はしっかりとお互いの体を抱きしめていた。

「今、何をしたんだ? アリッサ? わかってるのか? 君は、今、大変なことを――」

「宝物が一つだけなら――私はあんなものいらない! あれは魔法使いへの貢物よ! どう? これで私たちは永遠に一緒にいられるわ!」

 元貴族の娘は日本人の青年の腕の中で花のように微笑んだ。

「私たち、二度と再び離れることはない。そうでしょ、マサミチ?」

「全く、君って人は……!」

 青年の笑い声が甲板に響き渡る。

「何度僕を驚かせば気が済むんだ? 出会った日もそうだったよな? 道に芥子の花をぶちまいてた! そして、今度は……海に宝石をばらまくとは……!」

 一層強く恋人を抱きしめる青年。

「本当に困ったお姫様だな!」

 勿論、その顔は全く困ってなどいなかった。

 幸福に輝いている。

「改めて、僕も誓うよ、全てを捨ててついて来てくれた君を、絶対、幸せにする! 異国の地で、君が泣くことがないように全身全霊で守り抜いてみせる!」



       

                        

          .。.:*・゜*・゜。:.*




「ああ、そういうことか?」

 

 探偵の説明を聞いて助手は大いに納得したようだ。

「宝物のありかなんて所詮そんなものさ! 絶対、手には入らないんだ! おとぎ話でも、探偵小説でもね。いいよ、じゃ、最後にもう一つ――もっと肝心の種明かしをしてよ?」

 ゴロゴロと喉を鳴らしている愛猫。撫でる手は止めず探偵の助手は訊いた。

「どうしてわかったの? アリッサ婦人のあの仕草が宝石箱の場所を差してるんじゃないって? 僕は今日一日ずっと興梠さんの傍にいたけど、論理的に言って全く解明できない。あの場面、あの展開にはどうしても〝推理の飛躍〟があるよ?」

「うん」

 そう言ったきり興梠は黙り込んでしまった。

 視線を藤木雅倫の絵に戻して暫く見つめていた。

 やがて、一語一語噛み締めるようにして話し始める。

「……丘の上で」

「?」

 志義は一瞬混同した。

 その丘とはどちらの丘のことだろう? 

 かのフランスの芥子の花咲く春の丘? それとも、この地、日本の紅葉した秋の丘?

「アリッサの突き出した指の上に留まる蝶を見た、と言ったら、君は信じるかい?」




 ―― 見て、マサミチ……!

 ―― 見てるとも! そのまま、動かないで、アリッサ! 僕に……僕によく見せておくれ!

 ―― フフ、綺麗ねえ?

 ―― 綺麗だよ。ああ、とても……

   

 その日のあなたが・・・・・・・・1番・・……



「もちろん、信じるよ!」

 猫を膝に抱いて意外にも助手はけろっと答えた。

「そういう不可思議なことがたまに起こるって考えた方が世界は面白いもの」

 暗い話や不穏な未来の予測なんて糞くらえだ。

 一面の赤い芥子の花の中で、指先に蝶を止まらせた乙女はどんなに美しかったことだろう……?

 それが今日でも、四半世紀前でもちっとも構わない。

(僕に見えなかったのはちょっと癪だけど。)

 少年は心底思った。

 世界がこういう光景だけを見せ続けてくれたらいいのに……!

 悲鳴や罵倒……飛び交う銃弾や炸裂する砲声……

 切り裂かれた肉、吹き出す血……

 それら諸々のおぞましい憎しみや争いの図ではなく、ただ愛の風景だけを見せてくれたら……

「あなたが見たという幻を、僕だって、想像できるよ! そう言えば、ほら、欧州の地にその季節咲き誇る芥子の花について与謝野晶子も素晴らしい歌を詠んでいるものなあ! 授業で習ったよ」

 現役中学生の海府志義かいふしぎは普段の現実家に戻って朗々と暗誦してみせた。


 《ああ皐月 仏蘭西フランスの野は火の色す 君も雛罌粟コクリコ 我も雛罌粟コクリコ


「あれ? どうしたのさ? もじもじして? ひょっとして、興梠さん、この場でまた、下手な自作の俳句を披露しようとしてたんじゃないよね?」

「ははは、まさか! そんなこと、思っても見なかったよ、フシギ君!」

 探偵が慌ててズボンのポケットにねじ込んだ紙片を少年は奪い取った。

「どれどれ? 明治の与謝野女史に対抗する我らが昭和時代の探偵の名句は――

  《遠き日の 蝶留まらせる 枯野かな》」

 今や背後の絵の芥子の花畑と同じくらい真っ赤になった探偵。

 無慈悲にも助手は黒猫に感想を聞いた。 

「どう思う、ノアロー?」


 イヤーン……




    


           


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