第15話 :7

「マサミチ……!」

 

 その仕草のまま得意げに目を輝かせて乙女は振り返った。


―― 見て! マサミチ!」

―― アリッサ?

   ああ、そのまま、動かないで! 僕に……僕によく見せておくれ!


「見て、マサミチ!」

「アリッサ! お願いだそのまま、もう暫く動かないで!」


 それから、探偵は飛び出して、夫人を抱きしめた。

「見た、マサミチ? 綺麗ね?」

「ああ、アリッサ! こんな美しい光景を僕は見たことがない……!とても……とても綺麗だったよ……!」

「……え? え? どういうこと、興梠さん? 今、何について話してたの?」



      



「今まで何処へ行っていたんですか?」

 玄関を飛び出して来た依頼人はこらえきれず叫んだ。

「母を外へ連れ出すなんて……! 驚きましたよ! 戻ったら、家中もぬけのカラなんて。一体――」

「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。お母様は、大丈夫、ちょっと疲れてお眠りになっているだけです。すぐにベッドへお連れします。志義君、君は車椅子を下ろしてくれ」

「了解」

 そのまま探偵は花嫁のように夫人を抱いて寝室まで運んだ。

 優しくベッドに寝かしつける。

 そうしてから、改めて、心配そうについて来ていた背後の息子を振り返った。

「藤木さん、お父様の残された絵はありませんか? もし、あるのなら、ぜひ全て僕に見せていただきたい」

「はあ?」

 唐突な探偵の言葉に一瞬、赤い髪の息子は怪訝な顔をした。

「父の描いた絵ですか? それなら一応母が大切に保管しています。塔の二階がその場所です。でも、それが何か?」

「ひょっとしたら、アリッサ……お母様の仕草の謎が解けるかもしれません」

「え?」

 既に探偵は駆け出している。

「さあ、フシギ君、君も手伝ってくれ!」

「え? あ、はい!」


      



 藤木邸をおとぎ話の家風に見せている空に突き出した塔の部分。

 広さ自体は6畳に満たないそこに藤木雅倫の全作品は置かれていた。

 画家を志して欧州に渡り、芸術の都パリで学んだ画学生。

 塔の中に残されていたのはほとんどが彼の地、パリで描いたものである。

 数にして五十点ばかり。

 保存状態は良かった。

 アリッサ夫人が病に倒れるまで、庭同様、心を尽くして管理していたことが窺える。

 美学を修めた探偵はその一つ一つを丹念に眺めていった。

 

 探偵がそれを見つけるまでさほどの時間はいらなかった。

 ほどなく――


「これだ!」

 探偵・興梠響は声を上げた。

「見てごらん、フシギ君」

「あっ!」

 探偵が差し出したその絵を見て、藤木・エミ―ル・雅寿も絶句した。

 そのまま、依頼人は氷ついたように立ち尽くしていた。

「――」

「そうです。これ・・がお母様、アリッサ夫人のあの仕草の謎――本当の意味です」 


  

:*.;".*・;・;・:



 パリを囲む要塞の土手。

 その後ろに広がる小高いの丘は目の届く限り深紅の花に埋まっている――

 満開の芥子の花……!

 真っ青な空から降り注ぐ春の陽射し。

 境目のないほどに燦く金の髪の乙女が右腕を伸ばし人差し指を差し出して佇んでいる。

 乙女は指差しているのではない。

 その可愛らしい指先に、1羽の蝶が留まっていた……!

「マサミチ、見て! 蝶ちょが私の指に!」

 乙女は声を潜めた。

「綺麗ねえ?」

「しっ、動かないで、アリッサ!」

 黒髪の青年は急いでスケッチブックを取り出した。

「綺麗だとも、今、世界中で、一番綺麗な光景だ! ああ、どうか、もう暫く、そのままでいて、アリッサ! 僕が写し取るまで……」


 それは恋人たちの一瞬の時間。

 一瞬で、そして永遠の。

 過去も未来も超越するとびきりの現在いまだけの世界――



:*.;".*・;・;・:




「そうか?」

 どのくらい時間が経ったのだろう。

 赤い髪の依頼人が漸く口を開いた。

「ママンは特定の場所――宝石箱を埋めた場所を指差していたわけじゃないんだな?」

 父の描いた母の絵を眺めながら、独り言のように呟く。


ママンはこの日へ・・・・・・・・還っていたのか・・・・・・・?」


 最も、幸せだった、光溢れた、その午後の日に。


「パパ――いや、恋人との時間へ……?」

 

 そのまま、藤木・エミール・雅寿はズルズルと床に腰を落とした。

「残念でしたね? 宝石箱が見つからなくて」

 少年にしては心からの慰めの言葉だったのだが。

 慌てて探偵は遮った。

「フシギ君!」

「いいんですよ。アレは諦めます」

「でも、必要なんでしょ?」

「これ、フシギ君」

「まあね」

 青年は決まり悪げに赤い髪を掻き揚げた。

「もし、ママンの宝石箱が見つかれば――それを資金にしてママンをフランスへ連れ帰ってやろうと思っていたからね」

 混血の青年は言った。

「せめて、最期はこんな異郷じゃなしに、娘時代を過ごした懐かしい国で息を引き取らせてやりたいと思ったんです。でもまあ、大きなお世話なのかもかもしれないな?」

 素晴らしい微笑みを藤木・エミ―ル・雅寿は浮かべた。

 探偵と助手が初めて見る美青年の完璧な微笑。

「ママンはいつも……とっくに……還っていたんだ。一番望むその場所に」


       



「どうぞ、お収めください。今日までの依頼料です」

「確かに、頂戴しました」

 青年が差し出した封筒を背広の内ポケットに収めると探偵は言った。

「ところで、ここからは別の商談です。よろしかったら、あの絵を僕に譲ってはいただけないでしょうか? 金額はこちら」

 探偵は小切手に金額を記すと差し出した。

「え? こんなに?」

 藤木は息を飲んだ。

「よろしいんですか? 確かにあの絵は悪くないと――身内である僕は思います。でも、現実的には名もない、アマチュア画家の描いた作品ですよ? それをこんな高額で?」

「いや、むしろ、安い買い物だと僕は思いますよ。あれは紛うことなき傑作です」

 ジレの裾を引っ張って整えながら興梠響は言い添えた。

「美学に関わった者としては……所有欲が抑えられない。是非とも自分の傍に置いておきたい一作です」



    


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