第30話 画家からの手紙 1


「夏休みはいつからだい、フシギ君?」

 ビューローから顔を上げて唐突に訊く探偵だった。

 通学鞄をソファに投げ下ろして黒猫に餌をやっていた助手が答える。

「明日からだよ。何故さ?」

「それは良かった! ちょっと遠出しようかと思ってね」

「って……遠方から依頼があったんだね!」

 助手は喜びを爆発させた。

「凄いじゃないか! いよいよ僕たちの興梠こおろぎ探偵社も有名になってきたな!」

 探偵が手にしている白い封書に目を留めると、早速、日頃自慢の推理を展開してみせた。

それ・・が送られてきた今回の依頼書ってわけだね?」

「うーん……厳密には〝依頼書〟じゃない」

 探偵は冷静な顔つきで首を振った。

 傍にやってきた志儀を前に、改めて封筒から中身を取り出す。

 

 1枚の便箋。

 それから、名刺版の写真。


「凄い! 最新のライカⅢで撮ったんだな! 中々の技術だ!」 

 写真を取り上げて繁々と眺める志儀しぎ。興梠は率直に誉めた。

「撮影したカメラまで推理するとは中々やるじゃないか、フシギ君!」

「まあね。ライカには詳しいよ。だってシュミット商会の代表と父様が懇意だから」

 シュミット商会はライカカメラの輸入代理店、そして志儀の父は広く海外に人気の〈海府レース〉会社の社長なのだ。だがここは流そう。

「そんなことより――写っているもの、これは〝絵〟?」

 

 カンバスに描かれた、なにやら宗教画らしい。

 とはいえ、サイズも小さく詳細にはわからない。3人の人物が並んでいて、向かって左端がイエスを抱く聖母。中央に髪の長い乙女が祈るように身をかがめてる。右端は甲冑を着けた男である。

 一方、便箋には一行だけ。

 

〈 私の最新作です。実物をぜひ見に来てください 〉

  

「何だよ、これだけ?」

 

 差出人の住所と名前が記されている封筒を手にとって志儀は首を傾げた。

「この、雪宮晧ゆきみやあきらって人、画家なの?」

「うむ。年鑑の画家名簿で調べたところ――そのようだ。その名はあったよ。まだ無名に近い新人だな」

「つまり探偵業界で、数に入らない興梠さんみたいなものか」

 助手の毒舌には慣れている探偵だった。

 尤も、助手自身は〝毒舌〟などとは思っていない。いつも真実を口にしているだけで。

 その助手、再び便箋と写真を手に取ると呟いた。

「それにしても、妙な手紙だな? 何故こんな手紙を興梠さんに送りつけてきたんだろう? これってどう見ても新作の売り込みだろ? フツーなら画商に送るべきだ。ここは探偵社なんだぞ!」

 宛名は〈興梠響こおろぎひびき様〉とのみ記されている。

「間違えたのかな? もしそうでないとしたら――」

 助手の目が足元にやって来て体を擦り付けている黒猫の金色の瞳と同じくらい煌いた。

「事件の匂いがする!」

「ご明察!」

 探偵は封筒を助手の鼻先へ突き出した。

「嗅いでみたまえ。実際、ある種の・・・・匂いがするから」

「え?」

 指摘されて、言われるままに志儀は封筒を嗅いでみた。

「……キャラメル? うーーん、森永かグリコか明治かはわからないけど」

「そこまでは必要ないさ!」

 探偵は微苦笑した。

 森永ミルクキャラメルの販売開始は大正3年(1914)、グリコは大正11年(1922)、明治クリームキャラメルが一番新しく、昭和9年(1934)である。

 昭和9年はまた探偵にとって特別な年であった。だが、それは別の物語。

 眼前のビューローに興梠は視線を戻す。

 

 仄かにキャラメルの匂いのする封筒。

 便箋に綴られた素っ気なくも不可思議な文面。

 だが、実は名刺サイズの小さな写真にこそ、興梠響を刺激する1番の謎が秘められていたのである。

 勿論、我等が探偵はしっかりと嗅ぎ取っている。


「ということで、この手紙の送り主のもとへ、明日、出発するぞ、フシギ君!」

「やったあ! そうこなくっちゃ!」



 


 封書に記されていた住所N県K沢はわが国屈指の避暑地である。

 早朝、大阪経由信越本線の列車に乗った興梠探偵社の面々。

 真紅のビロードの椅子、純白のカバー、苔色のカーテンが鏡面仕上げの壁に揺れて……

 なんと1等車両である。

 何故か?

 この特別出費は全て黒猫のせいだった。

 数日の予定とはいえ流石に猫だけを丘の上の洋館においてくるわけにも行かず、かといって夏のこの時期、混雑する普通車両で他の乗客と一緒に無事に過ごす自信など探偵にはなかった。

 何より、〝飼い主〟と言いながら未だに触れたことすらないのだから!

 その意味でも今回の〝旅〟――正式にはまだ依頼とは言えないので――には助手は必要不可欠だった。

 興梠探偵社では猫の世話も助手の重要な仕事の一つなのだ。


「ワクワクするな! 素晴らしい夏休みの予感がする!」

 

 車窓を飛び去って行く煌めく夏の風景を眺めながら志儀は叫んだ。

「このくらいのイイことがなくっちゃやってられないよ! せっかく楽しみにしてた東京オリンピックがフイになっちゃったんだから!」

 ほんの10日前の7月15日、1940年に実施されるはずだったオリンピックを日本は返上した。そのことを志儀は言っているのだ。返上の原因は前年(1938)7月に始まった日中戦争のせいである。軍部は〈平和の祭典〉に国民が浮かれるのをよく思っていなかった。そういう世相はともかく――

 バスケットから黒猫を抱き上げて志儀は上機嫌に笑う。

「やはり探偵は汽車に乗らないとね! ねえ? 聞いてるの、興梠さん?」

「ん? あ、勿論だよ、フシギ君」

 ドイツ製の文庫本レクラムの「ファウスト」から目を上げずに探偵は頷いた。

「車輪の音と一緒に、途切れることのない君の貴重なお喋りを、一言一句聞き漏らさずにいるよ」

「ふうん? 僕ね、ずっと憧れていたんだよ。一度でいいから、貴方から言われてみたい。『愛しているよ』って」

「ブッーー」

「あ? やっぱり? ちゃんと聞いてたんだ! 安心した」

 悪魔のように笑って助手は言ってのけた。

「さっきのは冗談だよ。ほんと・・・に僕の言うこと聞いてるか試したのさ!」

「き、きみ――」

「僕が一度言われてみたかったのは、これさ!『チャリングクロス駅に3時に、ワトスン!』……

 知ってる? ホームズはしょっちゅうこう言ってワトスンを誘い出すんだ、田舎への調査旅行に!」

「……ああ、そう?」

 折角の下ろしたてのリネンのスーツだったのに! 

 盛大に吹き零した紅茶を拭き取りながら探偵は頷いた。心の中では力一杯悪罵している。

(くそっ! もう取れないだろうな、この染み?)

 だから、猫と少年は嫌いなんだ!

 その最も嫌いな存在と1番近くで暮らす……

 人生とは得てしてそんなものである。


「聞いてる、興梠さん?」

「聞いてるともっ!」

「じゃ、早く答えてよ。さっきから僕が何度も尋ねてるのに」

「え?」

「だからさ、送られた手紙に同封されていた写真の〝絵〟。興梠さんが一目見て、気にかかったことって何なのさ?」

「それは――」

 改めてその写真を隠しポケットから取り出して見つめながら興梠は言った。

「実際に本物を見たら教えるよ。これでは――今の段階では不鮮明で、僕自身確信が持てないからね」

(だが、絶対、これはあのことを告げているんだ……)




     

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