第31話 :2

 汽車は夕刻、目的地K沢駅に着いた。

 到着後、探偵と助手(とその飼い猫)は予約したホテルへ直行した。

 K沢駅からおよそ2Kの距離。

 夕方と言っても夏の陽はまだ高い。

 清涼な高原の空気を味わいながら川沿いの道をゆっくり歩く二人。

 やがて、このK沢で洋式ホテルのさきがけとなったM平ホテルの瀟洒な玄関が緑の木々の間に見えてきた。

 母国に気候と風景が似ている……!

 そう言ってこの地を愛した二人のイギリス人、宣教師のA・C・ショーと英語教師のJ・ディクソンに触発されて佐藤万平氏が明治27年開業したのがこのホテル。

 2年前の昭和11年に新しく本館アルプス舘が建築されたばかりだ。

 探偵も助手も大いに気に入った。

 その日は旅の疲れを癒すためにゆっくり眠って、翌日。

 マフィンにママレード、ミルクティ。腸詰にスクランブルエッグ……

 イングリッシュスタイルの朝食を満喫した後、手紙にあった住所を訪ねる。

 こちらはホテルから徒歩で20分の距離。

 昨日降り立ったK沢駅へ引き返す途上、緑滴るアカシアの木立の中にその屋敷はあった。



「こりゃ凄いや……!」

「住所に記された場所柄が場所柄だけにおおよそ予想はしていたのだが……」

 堂々たる外観。

 国の内外の名士、富貴者の別荘が立ち並ぶその中にあって一際ひときわ眼を惹く豪邸だった。

「見たまえ、下見板張りの壁、浅間石を積んだ大煙突、アプローチにも浅間石が敷き詰めてある……賭けてもいい、これぞ明治の大建築家W・M・ヴォーリスの手になる一軒だよ!」

 どうやら手紙の送り主、画家・雪宮晧ゆきみやあきらは地元の名士の子息らしい。

「これなら絵なんか売れなくっても暮らしには困らないだろうね? 絵は趣味でいいってご身分なんだ!」

 助手の少年は笑った。

「良かったね、興梠こおろぎさん! きっと馬が合うよ。だってそっくりな環境じゃないか!」

「どういう意味だい、フシギ君?」

「だって、興梠さんも趣味で探偵やってるんだもんね?」

「少し黙っててくれないか、フシギ君? どうも、呼び鈴の調子がおかしいみたいだ」

「何だよ、ソレ? ひょっとして僕の声が煩いって言ってるの?」

 少年は目を吊り上げた。するとますます蠱惑的に見えるから始末に終えない。

 カラバッジョ描く聖者ヨハネの眼差し。

 (まさか、わかっててやってるんじゃないだろうな? この子……)

「そうなの? 僕の声が煩いんだね? いいよ。それなら、小声で、耳元で囁くから」

 実際、爪先立って探偵のお洒落なハイカラーの首筋に吐息を吐きかけながら、

『僕の推理を聞きたい? あのね、呼び鈴は壊れてるんじゃない。邸が広いから、執事なり、女中メイドなりが出てくるまで時間が掛かってるんだよ』

 探偵は即座に了解した。

 (OK. わかってやってるんだな? この……サライめ!)

 サライは、かのレオナルド・ダヴィンチの弟子兼モデルである。物凄く性悪で……美少年だった! 大画家は少年の所業を呪いながら手放すことができなかった――

「ああ、そうか! なるほど。君ならわかるはずだ。君の家はこれ以上の広さだものねえ?」

 探偵としては精一杯の皮肉を返したつもりである。

 助手海府志儀かいふしぎは海外にも輸出される人気のレース会社の御曹司なのだ。

 だが、この程度では少年には通用しなかった。

 憤慨して即座に志儀は言い返した。

「失敬だな、興梠さん! 僕のとこは躾が行き届いてるから、訪問客をこんなに待たせたりはしないよ!」

 ここで扉が開いた。

 現れたのは、執事でも女中でもなく――

 長身の青年だった。

「どなたです?」



 糊の利いたローンの白シャツ。ウーステットのベスト。リネンのズボン。

 髪はオールバックに撫でつけ、鼈甲の眼鏡をかけている。

 年齢は二十代後半から三十代始めと言ったところ。

 隙のない出で立ちの端麗な青年は威圧的な口調で繰り返した。

どなた・・・です?」

「はじめまして」

 探偵が挨拶した。

「突然の訪問をお許しください。僕は興梠響こおろぎひびきと言って――画商です」

「!」

 画商? 探偵じゃなく?

 興梠が口にした職業名に刹那、志儀はハッとしたが顔には表さなかった。少年の驚きがわかったのは抱かれていた黒猫くらいのものだろう。 

 説明が前後するが――

 そう、助手の腕の中には黒猫がいた。

 快適な新築のホテルのラウンジでゆっくりと朝食を味わった後、今日こそは猫もこの居心地の良い洋室に残そうとしたとたん――

 備え付けの白いチェストの、まさしくその猫足に爪を立てて引っ掻き始めた。慌てて志儀が抱き上げたと、かような顛末である。

「こちらが画家の雪宮晧さんのお住まいと伺ってやってきました。貴方あなたあきらさんですか?」

「画商だって?」

 青年は眉間に皺を寄せた。

「弟のやつ……呆れた真似を……」

 舌打ちをしてから、

「私は晧ではありません。ひかると言って晧の兄です。弟にはこういう真似はするなと常々言っているのに!」

 改めて興梠に向き直ると、言った。

「お引取り願います」

「でも、貴方は晧さん本人じゃないんだろ? 貴方にそんなこという権利はないよ!」

 恐いもの知らずの助手が叫んだ。

「僕たちは貴方・・じゃなくて、画家の雪宮晧さんに会いにきたんだから!」

「し、失敬だぞ! コ、コイツは誰なんだ?」

「失礼しました。紹介が遅れました。これは僕のところの……奉公人です。画商見習いの海府君」

「店主なら奉公人に口の利き方を教えたまえ!」

「教え込もうと努力している最中です」

 落ち着き払って興梠は続けた。

「ところで、貴方の弟さん――画家の雪宮晧氏はご在宅でしょうか? 僕たちは晧氏ご本人にお会いしたくてやってきました。貴方・・ではなく」

「クッ」

「△□~#**……」

 ここで奇妙な音が響いた。

 探偵と助手は同時にハッとして音のした方へ視線を向ける。

 開かれた重厚な玄関扉の向こう……立ち塞がる長身の青年の更に奥……

 広い階段があって、その階段の上、そこから、その音は響いて来るのだ。 


「?」


 車椅子の車輪が強く床を擦る音。

 そして、そこに座った人が発するくぐもった叫び声。


 見上げたまま呆然と佇む興梠と志儀に青年は言った。

「弟の晧です。アレがあなた方が会いたがった画家、本人ですよ」



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