第32話 :3
「ご覧の通り――」
階上を指して兄、
「弟は幼い時の病気が元で両足と言語に障害が残りました」
「でも、素晴らしい絵をお描きになる!」
美しいコントラバス。澱みのない声を響かせて
「ぜひ、ご紹介願います!」
「――」
暫く躊躇していたものの、兄は渋々頷いた。
「仕方がない。お上がりください。そして絵をみるといい。但し、それまでだ。絵を見た後は、即刻、お引取り願います」
「説明するまでもないと思いますが」
二人の先頭に立って長い階段を上りながら雪宮暉は言う。
「当方は何不自由なく暮らしています。障害があるとはいえ弟一人くらい一生安楽に過ごさせることができますよ」
雪宮家はK沢最大の地主であり先祖は植林事業で財を成したとか。
現在は長男である暉が財産・事業の全てを引き継ぎ、運営管理している。
「両親亡き後、私は当主として心に決めています。アレを働かせるつもりはない。つまり――画家として絵を描き、それを売って金儲けをさせるつもりは毛頭ないのです」
ここでため息を一つ。
「そのことは予ねてからアレにも言ってきた。趣味でなら大いに結構! ソレをこんな風にこっそり画商なんぞと連絡を取り合っていたなんて、全く、不愉快以外の何物でもない!」
雪宮家の現当主は鼈甲の眼鏡を持ち上げて皮肉な視線を投げ掛けた。
「尤も、直接訪ねて来られた奇特な画商は貴方がたが初めてですがね。ご商売の方、よほどお暇なんですね?」
「うん! 暇ってのは当たっています!」
「フシギ君、君は黙っていたまえ」
階段の上で画家・
幼少の時に病に罹った、と兄は言ったが――
病はまた別の魔法もかけたようだ。
子供の時そのままの夢見るような清らかな眼差し。柔らかくて優しい顔の線。無造作に肩まで伸ばした髪。
20歳は越しているはずだが、車椅子に座るその人は少年のような容貌だった。
兄とは違い和服姿。白地のかすれ十字を涼しげに纏っている。
袖を揺らして興梠に握手の腕を伸ばしてきた。
言葉のない代わりに、その仕草の何と優雅でたおやかなこと!
しっかりと握り返しながら探偵は挨拶した。
「既にお聞きになったとは思いますが。僕がお手紙をいただいた興梠響です。こちらは見習いの
「こんにちは!」
「今日は貴方の描かれた絵の〈実物〉をぜひこの目で拝見したくて伺いました」
画家は会釈して微笑む。
心から嬉しそうだった。澄んだ瞳に
おや?
「?」
瞬く双眸に何かが宿っている。喜びだけではない、懸命に伝えたがっている何かが――
「こちらですよ。ここが弟の自室――アトリエというんですかね?――それです」
また先に立って歩き出した兄に興梠は言った。
「よろしければ、
兄は足を止めた。
「私が邪魔だと言われるのですか?」
「ここは画家ご本人と画商だけで腹蔵なく意見を交換したいと思います」
雪宮暉の顔面が硬直した。
「い、意見を交換するだって? 意思の疎通をどうするつもりだ? 言ったと思うが弟は口が利けないんだぞ!」
「お見受けしたところ筆談はおできになるんでしょう?」
現に手紙をもらっている。
「それで充分です」
「いや、だめだ!」
引き攣った声で叫ぶ兄。
「私も立ち会う! 見ず知らずの者に――実際、画商かどうか素性だって怪しい人間に、体の不自由な弟だけで会わせるわけには行かないからな! 兄としての責任がある!」
「ひどいなあ!」
少年が唇を尖らせた。
「僕たちを怪しい人間だと思っているんですか?」
「当然だろう? 大体、初対面の家へ猫を抱いてやって来るなんて……その時点で非常識極まりない!」
「あ、またしても、ソレは言い得てるな!」
「……君は黙っていたまえ、フシギ君」
画家の居室は2階の角部屋だった。
ドアを開けると12畳ほどの細長い洋室。
通りに面した正面に2つの高窓。鍵の手になった右壁にも2つ、窓がある。
採光は充分である。
右の窓のすぐ前には大きく茂ったアカシアが涼しげに枝を揺らしていた。
最新作のその絵は正面窓際のカンバスに置かれていた。
宛ら興梠たちの到着を待つかのように。
「――……」
軽く握った片手を顎に当てて見入る興梠響。
最初は距離を置いて、やがて、近づき、顔を寄せてじっくりと眺めた。
それから、振り返って志儀を呼んだ。
「ノアローをしっかり抱いて、さあ、君も見たまえ」
「はい!」
13号のカンバス。今度ははっきりと絵の隅々まで見ることができた。
左端に幼子イエスを抱いた聖母マリアが描かれている。中央には美しい娘が両手を合わせて祈り捧げている。その左側に立つ男は甲冑を身にまとい、敬意を表すように今しも兜を脱いだところだ。頭上に持ち上げられた兜が鈍い光を放っている――
どのくらい時が流れただろう?
「さて。もう充分でしょう?」
兄の
背の後ろで組んでいた手を解くとサッとドアを指差す。
「ご希望通り絵もご覧になったことだし、お引取り願います」
探るように付け足した。
「それとも、まだ他に何か?」
首を振る興梠。
「いえ」
思いのほかあっさりと身を引いた探偵に助手は少々面食らった様子だ。
「興梠さん?」
興梠は車椅子の画家に笑顔を向けた。
「良くわかりました、晧さん。貴方の絵は素晴らしい! 並々ならぬ才能をお持ちです。僕は今日、この絵をじかに見ることが出来て大変満足しました」
「――」
唇を噛んでもどかしげに見上げる雪宮晧。
「それにしても、噂通りここは快適な避暑地ですね? 折角なので僕らは2、3日この地に留まって夏休暇を満喫するつもりです」
「!」
今度は興梠の方から握手の手を伸ばした。
画家は小さく微笑んでその手を強く握り返した。
「それにしても、同じ兄弟なのにああも違うものかな!」
雪宮邸の玄関を出たとたん志儀は吐き捨てた。
「兄のあの横柄さ! 地元の名士の家系か何か知らないけどさ! ッたく、僕らのこと調度品をクスねに来た泥棒みたいな目で見てたじゃないか!」
少年の怒りは収まりそうにない。
「あんなに屋敷内に入れるのを嫌がるなんて、失礼にもほどがある!」
「猫嫌いだったのかもなあ」
これは興梠流のジョークである。
「ハン! こと猫に関しては人間が好き嫌いを言う権利はないんだよ。知らないの、興梠さん? 猫の場合は猫の方の意見が絶対なんだから。『この人間を好きか? 嫌いか?』 なあ、ノアロー」
「ニヤ~~~ン」
「そりゃ失礼しました。ところで――」
黒猫から目を逸らして探偵は言った。
「その猫をしっかりと抱いているかい、フシギ君?」
「そりゃもう!」
「結構。絶対放してはいけないよ? これから――走るからっ!」
「え?」
脱兎のごとく、突如探偵は走り出した。
白と黒のコンビシューズが避暑地の土を弾く。
「ついてきたまえ!」
まさに爆走。暴走。
「な、何? 何? ……何なの?」
「僕らはつけられている!」
「えーーーーっ?」
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