第19話 :3

「――」

 探偵社のソファで若妻が言った通りだった。

 室内に一歩入ると、そこは伽藍洞。

 重厚なマホガニーの書き物机、壁に沿って置かれた書棚――ガラスの扉付きが1つと棚だけの物が二つ――その何れも空っぽである。

 前日、家宅捜索に入った特高が証拠物件として手当たり次第押収したことがひと目でわかる寒々しい空間と化していた。

 興梠こうろぎは身震いした。

 豪奢な段通が敷かれているにもかかわらずひしひしと冷気が伝わってくる――

「?」

 いや、違う。

 この冷たい空気は……

 探偵は部屋を横切って窓へ寄った。ゴブラン織りの厚いカーテンがぴっちりと引かれている。

「この窓はいつもこういう状態なんですか?」

「カーテンのこと?」

 湯浅ゆあさ夫人は形の良い眉を上げた。

「いつもは――夫のいた時は朝になると開けていました。でも、あの人が帰って来なかったこの3日間はそのままだわ」

 視線を足元へ逸らす。

「この部屋、凄く陽当りがいいの。お日様が昇って隅々まで照らすと却って輝彦さんの不在が見えるようで……それが辛くて、私……」

「お察しします」 と助手。

「家宅捜索の際はどうだったんですか?」 と探偵。

「その時もカーテンは閉めたままだったと思います。求められて入口横の電気のスイッチを入れた覚えがあるから」

 興梠は無言でカーテンを開けた。

「フシギ君、見たまえ」

「あ」

 助手が声を上げた。

 湯浅香苗ゆあさかなえも駆け寄った。

 探偵が指差す窓の一部分、ちょうど真ん中辺りのガラスが欠けている。

「だから、寒かったんだ。春とは言え、冷たい空気がここから侵入していたんだよ」

「まあ! 気づかなかったわ!」

 ガラスの欠けた部分を見つめながら探偵は質した。

「いつからこの状態なんですか?」

「全然気づかなかった!」

 香苗は頬に両手を当てた。その仕草がまたとてつもなく可愛らしい。

「でも、変ねえ! 窓を開けた時、こんな状態なら私、すぐ気づいてよ? その日の内に修理屋さんを呼ぶわ。放っておくものですか」

「ということは――」

 探偵より先に助手が叫ぶ。

「このガラスが壊れたのは奥さんがカーテンを開けずにいたこの三日間・・・・・のいずれかということになるな!」

 眉間に皺を寄せて少年は唸った。

「家宅捜索中に誤って警官が壊した可能性もあるよね?」

「それも有り得るが――だとしたら家人に報告するだろう? いくら特高とはいえそこまで横暴でないことを願うよ。それに、不注意にせよなんにせよ、割れたガラスの破片がどこにも落ちていないのも変じゃないか」

 興梠は若妻を振り返った。

「家宅捜索中の様子はご覧になりましたか?」

 普通は立ち会うものだが。

 美しい若妻、香苗は首を振った。

「いいえ。私、あまりのことにぼうっとして……ずっと部屋のドアの前に座り込んでいたんです。だから、ほとんど中の様子は見ていません。だめね? お恥ずかしいわ」

「お気になさらずに。そんな状態に置かれたら誰でもそうですよ」

 これは助手。

 かたや探偵は恬淡てんたんな口調で決定的な質問をした。

「ところで――ご主人は絵をお描きになるんですね?」


        

      

「ご主人、湯浅輝彦ゆあさてるひこさんは絵をお描きになるんですね?」

 探偵の問いかけに湯浅香苗はパッと顔を上げた。

 蝶が飛び立つような微笑み。或いは、

 その年、最初に吹く春風のようにみずみずしい微笑み。

「そうです。夫の趣味は絵を描くことですの!」

 瞳がキラキラ燦いている。

「でも、どうしてそれがおわかりになったの?」

 探偵は笑って――実際、探偵もこれがこの家に入って初めて見せる笑顔だった――部屋の隅に置かれたイーゼルを指差した。

 流石に特高もそれは没収しなかったらしい。

 イーゼルの上にはカンバスが据えられている。

 描きかけの肖像。

あなた・・・ですね?」

「ええ。でも、未完成なの」

 中学、高校と湯浅輝彦は美術部に所属していたという。

「勿論、帝大でもそうでした。でも、就職してからは忙しくて中々絵筆をもつ時間がなくて――その絵も結婚以来もう半年以上も手をつけていません」

 たもとを握りしめて残念そうに若妻はため息を吐いた。

「輝彦さん、最近は絵の具箱を開ける機会は全然なかったわ」

「では、こちらに飾られている絵は全て、学生時代の作というわけですね?」

 書斎の壁には数点、絵が掛けてあった。

 風景画が4点、静物画が2点。

「これは大学時代の作品?」

「そうですわ」

 作品中唯一の、そして、最も大きな――フランスサイズの15号――のそれは人物画だ。

 海辺に並んだ3人の青年たちの絵。

 3人とも水着姿で砂浜に座っている。高い水平線、晴れた夏の日差し。皆まぶしそうに目を細めて笑っている。向かって右端の人物は白い水泳キャップを被り、真ん中の人物は肩にタオルを掛けている。右端は赤い海水パンツでその足元に大きな灰色の猫がいた。左下にT.YUASA 1935の文字。

 興梠が尋ねた。

「この中にご主人は?」

「いません。夫が撮ったお友達の写真をもとに描き上げたんですって。だから夫自身は入っていないの。タイトルは《海辺の休日》」

「――」

 探偵は暫くその絵の前から動かなかった。

 それから、おもむろに助手を振り返った。

「帰ろう、フシギ君!」

 これには、志義も、依頼人も吃驚した。

「え? もういいの?」

「何か、お持ち帰りになりますか?」

「今の時点では結構です。それより――」

 明るい声で探偵は言った。

「現時点で、これだけは言えます。ご安心ください、湯浅さん。ご主人は潔白だと思います。彼は信じるに値する人物ですよ!」




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