二十五:異変の先触れ

「ただいま」

「嗚呼、お帰り。他の人達は?」

「先に家で休ませたよ、慣れない雪山で疲れてるだろうから。それより父さん、話が――」


 十五歳の時に一人暮らしを始め、早五年。久々に入った両親の家じっかは、チハヤが知るそれと何の変わりもない暖かさを以って、その疲れた身体を迎え入れた。

 居間のテーブルにヤライと差し向かいで座り、紅茶と焼菓子を伴って入ってきた母がヤライの隣へ。両親が話を聞く体勢を整える間に、チハヤは暖かい紅茶で喉を湿し、空気が落ち着いたところでやおら話を切り出した。

 まずは、昨夜から今朝にかけての事の一部始終。その最中に退治した魔物の話について。立ち入りの禁じられた区域へ、実習と称し入り込んでしまうほどには迂闊な学院カレッジの者達への対応に関する相談。そして、自身もまた獣騎士学院セントラルカレッジへの入学を勧められたこと。それに対する返事と理由について。

 一通りの話を、ヤライとその妻は、静かな相槌を打ちながら最後まで聞き通し。息子が話し終えたことを確かめてから、入れ替わるように声を上げた。


「友人の盾になるのは構わないが、お前自身は向こうで何をしに行きたい?」

「そうだなぁ……龍騎士はまあ、すべからく龍に乗るんだから、その為の勉強?」

「それは学院内ですべきことであって、したいことではないだろうに」

「そうは言ってもなぁ……」


 煮え切らぬ返事と共に、頭の後ろで両手を組む。そして、行儀が悪いと母からたしなめられるのにも構わず、チハヤはぎこぎこと椅子を揺らした。

 器族は諸学問の開祖とも呼ばれる種族だ。同年代と比較した際の知能の高さは他種族の遥か上をゆき、彼等が学院カレッジの高等部や学士の課程で学ぶようなことは、器族であれば齢十五の時までに全て学んでしまう。

 その上、チハヤの周囲には上位存在せんせいが多い。少し頼めばいくらでも手取り足取り教えてくれるものが溢れている中で、一体人間から何を教わると言うのだろうか。

 一通り興味のある学問やら技術やらを考えてみても、仲の良い上位存在ともだちの姿が脳裏にちらついてしまう。結局答えを出しかね、椅子を揺する動きにも飽きたチハヤは、天井を仰いだまま黙り込んでしまった。そんな息子の様子に、ヤライは困ったような苦笑を一つ。


「お前は神様が教師代わりだったからね」

「それなんだよー……」

「だが、いつでも何処でも傍に居て下さる訳ではないのだろう? 例えば、渡し守様は山を降りられないと言うじゃないか」

「……あー、そっかぁ」


 今まであまりにも身近に在りすぎて忘れていたことだが、そもそも民草の前に顔を出す上位存在の方が特殊なのだ。太陽神や月の女神が人前に姿を現さぬように、高位の神官が教会で神の言葉や意志を代行するように、上位存在は普段その本性を秘匿しているのが普通なのであって、金月の渡し守アウレアピーカのような神性は稀もまた稀な話なのである。地神龍フラクシナスとてその本御魂もとみたまは山の下で眠り、ちまきのように地上でうろちょろ出来る例など僅かもない。

 そして、そのような存在は大抵、厳しい制約の元でその奇特さを認められている状況にある。ヤライが話した通り、渡し守は玉龍山以外の地を踏むことは許されておらず、当然ながら学院で彼女の姿を求めたとしても叶わない。

 通常の上位存在は人の前に現れず、現れるものは平原に降り立てぬ可能性が高い。となれば、学院で学ぶには人間を頼る必要があるだろう。

 その前提の元で話を進めるならば、チハヤにもやれることの一つはある。


「護身術かなぁ」

「護身? 今の技術で対応出来ないかい」

「出来なくはないけど、手加減するの難しいからさ。それなら最初から手加減ありきの技術があった方が、うっかりして人間殴り飛ばしたりしないかなって」

「嗚呼……」


 深い感慨を込めて呟くヤライに、チハヤは苦笑を一つ。テーブルに並ぶ焼き菓子を一つ摘み、齧りとる。

 器族の膂力は人間の数倍。屈強な巨漢が二人掛かりで引く大弓を成人もしていない少年が軽々と引き絞り、女性ですらやろうと思えば暴れ牛を一人で投げ飛ばす。そのような力の持ち主が、何の加減も知らず人間社会に放り出されれば、たちまちのうちに友人を全身骨折させる犯罪者の出来上がりだ。そして、なまじ狩人は獣や魔物を相手にする技術はあっても、人間を相手に出来る武術はない。いくら手加減をしたとしても、ふとした瞬間魔物へ向ける力と技が向けば、人間の命など容易く狩り取ってしまえる。それは器族の気質としても、狩人の矜持としても、チハヤの性格としても許せないことだ。

 もしゃもしゃと菓子を消費していく息子を前に、ヤライは紅茶を控えめに啜り、やがてゆっくりと頷いた。


「そうだね。人の中で暮らすならとても大事なことだ。……良いよ、行って学んでおいで。必要経費は私達で出そう」

「良いよそんな、自力で稼ぐから」


 慌てたように首を振るチハヤに、けれども父もまた譲らない。テーブルの上に手を組み、諭すように語りかける。


「周りのことまで自分一人で何とかする必要はない。その稼ぎはもしもの時と、自分自身を豊かにする為に使いなさい。いつか私達の手を離れるのだとしても、それは今じゃない」

「――――」

「無事に、帰っておいで」

「……うん」


 控えめに頷く息子に、父はそれ以上何も言わず。辺りに穏やかな沈黙が漂いかけたところで、ヤライの隣で成り行きを見守っていた妻、もとい六連ムツラが、思い出したようにぽんと手を打った。

 そう言えば、思い出した。そうはきはきと口にする様は、とてもではないがこの繊細で優雅な美貌――彼女の頭は、ガラスと種々の貴石で星の廻りを描いた常界儀じょうかいぎであった――には似合わない。ひどく下世話に表現するならば、深窓の令嬢が肝っ玉の太いかかあの声と口調でがなっているようなものだ。

 とは言え、チハヤの一家ではそれが日常。特に誰も反応はせず、ムツラの言葉の続きを待つ。


「チハヤ。あんた出立はいつ?」

「へ? 一月後の予定だけど……」

「……あんた、自分が二月後にゃ成人だってこと忘れてないだろうね」

「あ」


 かくして、チハヤの学院行きはめでたく三月後と相成ったのであった。



「のどごしい〜」

「それはいいけど、詰まらせるなよ」

「ぅぎゅー」


 所変わって、チハヤとちまきの自宅。

 南向きに取られたテラスでは、家主達が消耗品の補充に勤しむ傍ら、仔龍の姿に弱体化した乗騎達が日向ぼっこを満喫していた。

 時折チハヤ達が立てる物音で首をもたげることはあるが、基本的に芝生の上で四肢も翼も投げ出し寝息を立てている。テイカなどは先程からごろごろと心地よい場所を探して転げ回り、植え替えの為に土の掘り返された上に着陸して、腐葉土のふかふかな感触に満足したところだ。見ているだけで眠たくなりそうな光景である。

 しかし、狩人は手を止めない。作業台の上に広げた種々の薬草や鉱石を拡大鏡ルーペで検分して選り分け、クズ石と判定されたものは片っ端からちまきの口に投げ入れて、良質なものは更に色味や種類別に箱へ入れたりすり鉢の中へと仕分けていく。

 それが粗方終わったかと思えば、次は各種薬草類と香木の仕分け。紙縒を結びつけて種別に分けられた中から、からからに乾いた葉と花の部分をちぎり取り、残った茎と根は元の箱へ戻す。その茎の先端を齧った仔龍が、珍妙な悲鳴を上げてひっくり返る様を横目に、チハヤは香木を一欠片乳鉢の中に投げ入れ、やおら擂粉木すりこぎを手に取った。

 始めは大雑把に叩いて砕き、鉢に収まる程度までかさを減らしてから、温めていた蜜蝋みつろうをひと回し。がりがりと挽きながら蝋と混ぜていく。そこに甘い香りを漂わす貴香実バニラの精油を数滴垂らし、残りの蜜蝋も全て投入。諸々を灯したランプの火で温めながら混ぜ、揮発した蜜蝋が藤色の煙を発するようになったところで型に押し込めば、ひとまず惹霊香じゃくれいこうの完成である。

 とは言え、冷えてもいない練香はすぐには使えない。練香入りの型は薬草入りの箱と共に氷室へ置き、チハヤは期限の近い果物と氷を代わりに引っ張り出してきた。


「ちまき、おやつ作るよ。おいで」

「ゔぅ〜〜っ」

「ほら、蜂蜜飴」

「ぺぷっ!……あま〜!」


 齧った薬草の苦さに唸るのを甘さで誤魔化し、機嫌を直してついてきた仔龍を片腕で抱き上げ、果物の入った籠片手に炊事場へ。水瓶からヤカンへ水を汲む間に、ちまきへ頼んで竃に火を入れる。あっという間に明々と燃え上がった所で火にかけ、沸騰を待つ間に果物の準備。

 半氷シャーベット状のそれは全て皮を剥いて薄い塩水に浸し、剥き終わったものは櫛形に切ってそれぞれ小皿へ投入。かち割りにした氷で皿ごと冷やす合間に柑橘かんきつの果汁を素手で絞り、蜂蜜をひと匙加えて掻き混ぜる。


「ほい、味見係」

「んみゃー!」

「よし」


 出来たソースを舐めた仔龍の反応は、概ねいつも通りだった。ならば不味くは無かろうと判断し、冷やしておいた果物の上にたっぷりと掛け、仕上げに――隣の庭で増殖しすぎて困っている――薄荷ハッカを散らせば、昼下がりのおやつは完成だ。同時に湯も沸き、盛んに笛を吹くやかんを取り出して、白磁のポットに紅茶も入れる。

 完成したものを諸々盆に乗せ、寄ってきた平日の精霊フェリアレスに持たせて、チハヤが向かう先は客間。

 そう、修士生達はと言えば、


「宿題はいいけど、ちょっとくらい休憩しろよお前ら。目の下真っ黒だぞ」

「いやだめです……此処で休憩してたらほんとに課題が……」

「いや駄目じゃなくて、休んで? 倒れたら医者呼ぶの俺だからな?」


 実習中に成すべき課題に向かって、齧りつくが如く挑んでいる最中であった。

 課されている内容自体は、茨宮村周辺の地形図の作成と、霊気マナ分布の調査報告の二つだ。

 どちらも、チハヤにとってはそう難しくもない。測量や地図の書き起こしは森の中を行く為に必須の技術であるし、霊気マナの分布は周囲の上位存在ともだちに頼めば要らぬほど詳細に教えてくれる。報告書形式でまとめるのが少々骨の折れる作業だが、それでも三日間あればのんびり完成させられる程度だろう。

 だが、どうにも学院カレッジの学生達には難しい仕事のようだ。普段使わない数式やら機材やら、森の中で度々出会う獣やら悪戯好きの妖精やらに翻弄され、調査結果データも報告書もまともに揃っていない。これで納得できるものにするのは相当厳しいだろう。

 教官ルッツも何とかして形にすべく苦心惨憺しているようだが、効果は薄い。


「ルッツ教官せんせい、地形図だけで良いなら俺のがあるけど、使う?」

「……頼めるか? 流石にこれでは見せられん」

「分かった、今から平日達に持ってこさせる。後、教官もこれ。追い込み時期は大変だろうけど、あんまり無理すんなよ」

「嗚呼、すまない。ありがとう……」


 教え子達の努力と矛盾と虚無の垣間見える地形図の縮尺計算をしながら、チハヤの出した助け船に礼を述べるルッツの声は、半分泣きそうだった。

 平日の精霊フェリアレス達が皆へ果物を振る舞っているのを横目に、チハヤは広げ散らかされた紙束をちらり。筆致も精確さも違うデータの山に視線を巡らせ、一枚の紙を選出して摘み上げる。

 六枚の中質紙を糊紙テープで縦横に連結し、大きな一枚紙にしたものに記されているのは、チハヤの家から雲曳竜オウィスの仮住まいまでの道程地図ルートマップ。いつの間にそんな調査をしていたのか、地質や植生が大まかに書き出され、また山歩きの目印となる特徴的な構造物――狩人達が野営の際に残した杭や樹齢を重ねた巨木など――の位置と情報が目立つ点を使って示されている。

 報告書で使うと言うよりは山で迷子にならない為の簡易地図と言った風情であるが、精度の面で言えば、テーブルの上に散らかるどれよりも高い。

 勿論、此処でひいひい言いながら計算している人間にそれが出来るわけもなし。

 ならばこれは――


「カザハネのかこれ。地図も書けるんだ」

「は、カザハネが? いやまさか……」

「ふざっけんな地図くらい書けるわ」


 テーブルに齧り付く修士生達から離れ、窓際であぐらを掻いて果物おやつを食している、この戸棚頭の青年の仕業に相違あるまい。教官の前で口を滑らせた手前、最低限やるべきことはやったと言うことなのであろう。

 やれと言った教官に自身の結果を疑われ、ぶーぶーと不満を零しながら、カザハネはのそのそとテーブルまで歩み寄ってくる。そして、口に咥えた匙をぶらぶら上下に揺らしつつ視線を紙に走らせ、やがて転がされていた万年筆を手に取った。そして、近くにいたジャノメの手元を横から覗き込み、びっしりと紙を埋める数字の横に記号を書き始める。

 数十行にも及ぶデータの羅列に対し、カザハネが入れたチェックの数はおよそ十。そのそれぞれを今度は書きかけの地図上にも打ったところで、紙から万年筆の先を離した。


「カザハネ先輩、これは?」

「けっ! ここまでやって分かんねーなら俺はもう知らん。俺様の後輩なら自分で察しろや」


 投げやりに言い捨て、再び窓際へ。魔竜の霊石をポケットから引き出し、日にかざして観察を始める先輩の姿に、ジャノメはぽかんとして目を瞬くばかり。そんな後輩の戸惑いに対して、解説を入れたのはチハヤである。

 座卓に転がる内から墨入れ用の筆を選んで手に取り、その筆先を逆さまにして、地図上に打たれた点を辿る。それを目で追う青年は、筆の柄尻が同心円状に線を引く様を見て、ふと意に気付いたようだ。


「あぁー」

「何だったら地図作成の基礎教本持ってくるよ」

「――いや、大体何がやりたいかは掴めました。自力でやってみます」


 頼もしい返事と共に、ジャノメは数値と睨めっこを始め。ならば良いかとその場を離れたチハヤの背を追ってか、憑かれたような顔をしたサレキが、ふらりとその場を立ち上がった。

 ただならぬ気配にぎょっとして振り向けば、覚束ない足取りの彼が、よろめきながら歩み寄ってきている。


「サレキ?」

「はい……」

「大丈夫か? 気分悪いのか?」

「はい……」


 その双眸に力はなく、恐る恐る声を掛けても返答は上の空。いくら寝不足や疲労心労が続いているとは言え、流石に尋常ではない。――そも、彼はつい刹那前まで、元気に紙の前で唸っていたのだ。急に疲労が噴出したにしても、それでは到底説明のつかぬ、ひどく異様な様であった。

 そのまま通り過ぎようとした細腕を掴み、半ば抱き寄せるように引き留める。大人しく腕の中に収まった少年、その身の冷たさに知らぬふりを貫きながら、狩人は努めて冷静に監督役へ告げた。


「ルッツ教官せんせい、サレキの様子がおかしい。ちょっと休ませるからそっちは何とかしてくれよな」

「嗚呼、カザハネを酷使するから気にするな。私こそ、本来すべきことを任せて申し訳ない」

「気にすんなよ、お互い様だろ」


 ルッツのひどく消沈した声を軽やかに受け流し、一笑と共に部屋を退出。同時に、チハヤは庭で遊ぶ相棒ちまきに感応で異常を伝え、自失状態のサレキを引っ張って、龍達のいる庭へと足を向けた。

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