二:解呪
骸は変わらずそこにあり、周りにはこれを喰らう獣の一匹さえいなかった。
見開かれた双眸は磨かれた宝玉の
無論、神龍はその魂そのものが常命なるものと一線を画しているから、それを畏れて近寄らないのかもしれぬ。平生ならばそう考えただろう。しかし、今やかの頭を占めるのは、
心のざわつきを隠しおおせぬまま、チハヤは再び、残る二名は初めて、崩御したる龍の御前に立つ。その途端。
「――!!」
解呪師は激しく打ち据えられたように全身を震わせ、かと思えば膝を屈しうずくまった。ぎょっとしたチハヤが思わず触れた肩は、あたかも棄てられた子犬のように震え、何よりぞっとするほど冷たかった。
死体のような体温。チハヤの頭に一瞬嫌な想像が過ぎる。しかし、ひとまずその予感は心の中に収めた。此処で新たな仮説を立て、無闇に不安を煽ることに意味はない。今の所は予感の範疇を出るものではないし、仮説が本当であったとしても、治癒師であれば恐らくは対処が可能だからである。
故に、ナナハシへ掛けたチハヤの声に動揺は無かった。
「どうした」
「い、や。ちょっと――何だろう。分からない、急に腰が抜けた。呪いのせいだと思うんだけど。大丈夫、呪いなら」
「なら……いいんだけど」
無理に浮かべた笑みは引きつり、顔色は蒼白。体温は先ほどにも増して下がった気がする。己の物騒な新仮説がますます真実味を帯びた気がして、チハヤは呻いた。
立ち上がれず座り込む解呪師をその場に置き、狩人の足が龍の傍へとにじり寄る。武骨な手が骸に触れる。調べる為に軽く叩く。こうまでしても、チハヤには何の異常もない。村おさが触れたとしても、解呪師のように突然体調を崩すことはないであろう。仮令この龍を極限まで辱めたとしても、彼等が、ソレに命を奪われることはあるまい。彼等にとってみれば、ソレは日常的なものでもあるから。
半歩、一歩。二歩。龍の骸を睨んだまま後ろに引き下がり、チハヤは解呪師を振り返った。
「解呪出来そう――と言うか、本当に大丈夫か?」
「嗚呼。大丈夫。平気……ちょっと、面食らっただけ。もう大丈夫だ」
そう言いながらナナハシは膝に手をつき、ゆっくりと、然れども
ナナハシが遺骸に近づいていく。おずおずと触れ、横顔に滲ませた剣呑さを隠そうともせず、鼻梁に引っ掛けた
宝物に触れるように、或いは乙女を愛撫するように、触れるか触れないかほどの距離を滑らす。たっぷり数十分の時間を掛けて全身を調べ、ナナハシは葉擦れの音すら聞こえぬほどの集中に入った。
癒しの御使いより加護を受け、月神の庇護を得たこの身なれど、神なる身の遺した呪いをほどくことは至難の業だ。身一つではとても出来ない。援けが必要だった。
〈火よ 太陽の落とし子 星廻る血潮〉
〈小さく灯れ 香焚きの火種〉
皿のように窪ませた手の内に、ぽっと蝋燭ほどの小さな火が光った。火口によらず、仄かな温かみを以て、白い火がゆらゆらと
藤色の煙を吐くこれの名は、
――神官。御使いの神官。
――おお、おお。何ということ。龍だ。恵みの龍が御隠れなすった。
――今に災いが降る。呪われるぞ。怖い怖い。
人ならず神ならざる、小さき者達が集い囁くのだ。
小さく、されど大いなる者ども。事象に住まい、事象を操る者。妖精。精霊。時には神霊。それらの集いしは、
名付けたのはいかなる洒落者か? 想うことも馳せることもせず、ナナハシは口から言葉を滑らせた。
「
――笑止千万! 誰に物言う人の子よ。
「この言の葉は神意の代行。この声は神なる声。神なる者が小さき者に言う」
――良きぞ。良きぞ。その声に神を聴こう。その言の葉に神を覚えよう。
――歌え歌え。謳え謳え。
「知れたこと。痴れたことよ。歌おう。謡おう。謳おう」
――神の声で。神の言の葉で。悔悟を解く詩を謡え。
――
治癒師と、霊と。流れるように綴る詩句が辿るのは、予定調和の落ち所。ナナハシら治癒と解呪の一族に代々継がれてきた、集めた霊の意を揃え、従え、そして無数のかれ等と通じ合う秘儀。呪文にして呪文にあらず、術にして術にあらぬ。
一切合切を束ね、解呪が、始まる。
〈
〈
〈
妖精が、精霊が。場に集うあらゆるお喋りなもの達が。口々に紡ぐは月神に捧ぐ聖句。時と共に姿を変え性質をも変え、転じて無数の面性を併せ持つ彼女を語るに、多くの口がこれほど適任なことはない。
だが足りぬ。月の女神は移ろいを司り、呪われた場を正常な場へ移ろわすが、それでは時が掛かりすぎる。月女神の庇護はその時を著しく早めはするものの、即時性はない。月の一巡を待たねばならぬし、それでは遅すぎた。村の民に
その御手の主を綴るために、治癒師は此処にいる。
〈其は御使いの長たりて〉
〈六翼の
〈其は一頭蛇の杖掲げ 打つは死疫
朗々たる呪句に読まれるは
ナナハシに与えられた治癒の権能は、最早医師としての範疇をさえ超越する。欠損を補い、抜けぬはずの毒を抜き、死の近似値にあるものすら呼び戻す。そして、人ならざるもの――そう例えば、何処か定まった場や家屋であるとか――の病すらも、この強壮な治癒師は慈しみ、癒すのだ。それが許されるのは、
さりとて、彼も所詮は人の身である。神性の権能を扱うに、人の魂は脆く儚い。ナナハシはその点規格外の頑健さを持ち合わせはしたが、それとて人の範疇を出るものではなかった。
〈我等が宮に照り映え輝け〉
〈陽に
〈我等が宮より隠れて眠れ〉
〈影に
〈その耳に聴き届け 怨嗟に捩れた今際の苦鳴〉
〈その
〈是語らぬ口に語る
〈是
幾十幾百の、年頃も高低もばらばらの声が、月神を讃える度に。己が口で神を讃え窮状を綴る度に。意識の奥深く、魂に築いた祭壇が軋む。その感覚は如何とも表現し難いものがあったが、無理に形容するならば、熱湯で満杯になった皮袋を頭に押し込まれ、蓋を閉めた間から煮え湯を注がれているようとでも言うべきか。
烈しい頭痛と熱に浮かされ、意識が一瞬薄らぐ。ぐらりと身体が傾ぎ、そのまま倒れかけた身体を、場に集う妖精の数人がそっと留めた。
――手伝うわ、
――女神さまのお達しよ。貴方に力を貸しなさいって。
――貴方の目にも見せてあげる。見えない呪い。触れられない災いを。
月明かりを映した白銀の髪、仄かに薔薇色の肌、上等の
その
月神のわざを使うとき、彼女らは傍に添い、燐火と幻視の性質を以って記述する。
〈いざ
〈我等の目明きは惑うものの導〉
〈いざ見遣らん昏々たる黒き内に〉
〈我等の眠りは
〈我等の夜を汝に与おう
〈昼を夜に 夜を深き夜に さあ目を閉じて、――“
一足先に、すだま達が術を編み上げた。
途端に日が陰る。かと思えば茄子紺に染まり、銀粉をまいたように星が散る。月神の権能が広げた夜の衣、その暗き下で、集う
その光に解呪師は見る。骸全体に這い、背の骨や首を締め付け、心の臓を搦めとる、
なればこそ、ナナハシは呪句を紡ぐ。
〈
〈此の地此の身に
〈癒しの秘儀を与えよう
〈我が箋は唯一つ 「汝よ、自在たれ」――“
声を掠れさせながら、呪句は完成した。
もしもこの山に意識があったなら、何か巨大なものが、強固に根付く何かを引っ張り上げたと感知しただろう。さりとて当事者ならぬ者にその感覚はなく、目に映るのは香炉から吐き出される煙と、妖精がまいた月光に朧な呪縛と――その端を掴んで引く、仄白く輝く何かの手のみ。
音すら無い。
呪いはするすると、絡まる紐を引くように龍の骸から離れ、それは途中で蝙蝠のそれに似た数対の翼を開く。引かれる側とは反対の側、のろのろと持ち上がった頭に宝冠のように艶めく角を伸ばし、蛇を厳めしくしたような貌にはぎらぎらとした牙を生やし、長い胴をくねらせながら空に伸びあがったそれは、何を顧みることもなく偽りの夜に身を翻した。
何対もの翼を羽ばたかせ、宝冠めいた角を見せつけながら夜を翔ける後ろ姿が、ナナハシの目に捉えられなくなると同時、
「な、な、何だッ!?」
動揺と恐怖に揺れる悲鳴が、解呪師の意識を遠くの空から手元の地へと引き戻す。悲鳴の主はチハヤ。その視線は、骸の横たわる方に向けられたまま動かない。
遅れて骸に意識をやったナナハシの呻きは、いくらかだけ冷静だった。
「ぁ、あ……呪いが、解けたから」
骸の腐敗であった。
だが常命なる者の腐敗ではない。鼻腔から脳裏までにこびりつくのは強い土と草の匂い、脆くなり割れた鱗の狭間から溢れ出すのは冷え固まり始めた
――神性とは、事象の裁定者にして事象そのもの。肉持つ神性の肉とは、すなわち現象の化身。であるならば、地の豊穣を司る龍の肉とは即ち岩であり、血潮は溶岩であり、臓物は砂であり、双眸や骨は鉱石である。神性の権能によって生命を形作るそれらは、その死により生きるものとしての形を失うのだ。それは権能の消失後速やかに起こり、その様は遺骸が土に還る様を早回ししたようで、故の腐敗である。
岩と金銀宝石の塊となって崩れゆく龍、その有様を呆然と見つめる三者。
その目が覚めたのは、香炉に焚かれた煙が尽き、
「ふは……」
深く、声を零すほどに深く息を吐き、立ち尽くしていた解呪師が座り込む。入れ替わりに、解呪の様子を座って眺めていた村おさと狩人は立ち上がった。
辺りは森閑としているものの、居心地の悪い静謐ではない。耳を澄ませば、何処かおずおずとした小鳥の声が聞こえた。狩人が気配を探れば、子兎や狐の類が様子を見るようにうろうろしているのが分かる。何処かぎこちなくも、平素の山が戻りつつあるのは明らかであろう。
「解呪か。何度見ても凄まじい」
ほぅ、と感嘆混じりの言葉は村おさ。それにただ笑みだけを返したナナハシの横顔には、神官としての誇りと達成感と、それだけでは隠しがたい疲労が複雑に滲んでいる。大神術を行使した負担は重く、頭に重く伸し掛かる頭痛と発熱と、魂の酷使による苛烈な倦怠感は、最早治癒師から言葉を発する気力も奪い去っていた。
動けそうにない解呪師と、歩み寄るその友人。二人の年長者はさておいて、若き狩人は逝き崩れた龍の亡骸に向かう。呪いは解け、龍は死んだ。ならばその後に残ったものを猟師が検めたとて、鉱石を掘り出し鹿から角を切り出すことと変わりあるまいと。実に合理的で現金な考えである。
そんな狩人に、何か一つ罰が当たったとすれば。
「何だ、こりゃ……」
最初に探った砂と硝子の山――腐れ
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