三:不穏

 護るように金や銀、銅、他様々な鉱石を貼り付かせた、翠玉の珠。


「これは、まあ……間違いないね」


 チハヤが龍の遺骸から掘り出したのは、そんなものだった。

 覗き込めば向こうが透け、陽に透かせば玄妙な虹の輝きがちらつき、翳を落とせば翠葉の色はより濃く。恐ろしいほど上質な宝石である。いっそ翠玉に似た色や質感に固まったガラスだとでも思いたかったが、砂に埋もれて擦り傷の一つも付かぬ硬さといい、何よりこの絶妙に青みの掛かったみどりといい、チハヤの目利きの上では紛れもなく翠玉だ。心配になって村おさにも意見を仰いだものの、結論は変わらなかった。

 身体が震える。まずは龍の遺骸が生む奇蹟の凄まじさに。そして、という、にわかに湧いた疑問のおぞましさに。

 そう。はらわたであった砂山から出てきた以上、翠玉の珠は龍の身体が変じたものに相違ない。ではこれは何だ。

 僅かに歪な球形といい、滑らかな艶といい、これは――


「卵……茨枝イバラエ、これ卵だ。龍の卵だよ」

「嗚呼。私にもそう見える」


 勢い込んで張り上げたチハヤの声に、村おさ――イバラエは、努めて穏やかに同意した。皺の多い、けれども衰えを感じさせない力強き手が、若き狩人の背をそっと叩く。触れた背は固く張り詰め、凶暴な獣と日々格闘する者のそれとは思えぬほどに、か細く震えて止まらない。とんでもないものを掘り出してしまった。触れてしまった。そんな不安と当惑と、じわじわとした恐怖が、細かい震顫を通じて伝わってくる。いっそ泣きそうな様子だった。

 これが、ただ卵が卵のまま儚くなってしまった成れの果てと言うなら、チハヤが此処まで動揺することはなかっただろう。いくら上等でも死んでしまえば石である。そこの区別を見誤るほど、狩人の感覚を鈍らせた覚えはない。

 ならば、狩人をこうまで著しく畏れさす原因は、最早一つ。


「良き友、良き家族と思えばいい。世の中には遊草龍サリクス月華龍オクシペタルを乗りこなす者もいるそうじゃないかね、きっとこの仔も力になる」

「……俺は、ただの狩人だよ」

「嗚呼、お前は狩人だ。龍を拾ったからと言って英雄に祀り上げられる訳でも、平原の戦場に放り出される訳でもないさ。ただの友で、ただの家族だ」


 卵は生きている。

 チハヤとイバラエが認識した事実は、たったそれだけ。それだけの事実が、チハヤをこうまでも弱気にさせる。

 彼がもっと能天気で学のない男なら、恐れはしなかったかもしれない。だが、彼は深い山に単身分け入って生還できるだけの聡明さと、その頭脳を支える豊かな知識を併せ持っている。龍の仔を拾い、それを育て上げた者が何と呼ばれ、どう扱われるか、彼は知っているのだ。その扱いや呼称が、己の歩みたい道と大きく違うことも。

 無責任でいたい。自分以外の命や願いなど背負い込みたくはないし、糧を得る以外の命のやり取りなど御免だと思う。しかも、見も知らぬ誰かからの期待や羨望や、嫉妬や憎悪を受けてまで。そこまで身を削れるほどの聖者ではない。生き方が他人本位で自己犠牲的だと言われたことはあるが、チハヤ自身は己をこの上もなく自分勝手な生き物だと思っている。

 だが一方で、それ以前に、チハヤは一度拾った命を打ち捨てられるほど薄情者でもない。服が濡れるからと言って、池で溺れる仔犬を見殺しに出来るような、そんな冷淡さの持ち合わせはなかった。今回ばかりは濡れる範囲と温度が違いすぎるわけだが、それでも本質とはそういうもの。少なくともこの狩人はそう考えている、

 卵を撫ぜる。表面の滑らかさと内に籠る仄かな熱が、革の手袋越しでも伝わる。

 生きているのだ、やはり――再確認を済ませて、チハヤは村おさを見上げた。


「もし求められたら、村を出る。それまでは……」

「ふむ……山は広大で寛大だ。お前とその仔が一生暮らして、その骨を埋められる程度にはね。それでもお前が外へ出てゆくと言うのなら、止めはしないよ」


 しっかり育め、と。

 背を叩くイバラエの手の大きさが、頼もしくもあり、重たくもあった。



 銀の香炉から、細く藤色の煙が棚引いている。

 ナナハシが持ってきた香炉に再び火を入れたのはチハヤ。自身の腰に巻いた革帯ベルトに四辺から下がる鎖を引っ掛け、線香ほどの薄い煙に巻かれながら、狩人は龍の骸がある場から少し離れた水場へ来ていた。山の上流、雲に巻かれ見えぬほどの高みから流れ落ちて染み込み、地下の留まりから湧きだす水は冷たく清らかで、長丁場の狩りをするときにはいつも使う。しかしながら、チハヤが此処に来た理由は、何も小さな泉から水を頂戴するだけではない。

 自然石を積み上げて区切りを付け、ついでに少しばかり高さを上げた泉に近づく。声を掛ける代わりに素手の先を触れさせば、滾々こんこんと溢れる水が不自然に揺らいだ。かと思えば、生き物のように指先へ水が絡み付いてくる。水が自立して動く異様さに、しかしチハヤが動ずることはない。


茨藻いばらもの、遊びに来たんじゃない」


 一言で伸びあがろうとする水の動きが止まる。かと思うとただの水に戻り、次の瞬間ぬるりと水面が大きく持ち上がった。陽光を受けて煌めく冷水が形作るのは、細かなレース編みの薄布を巻き付けた女の上半身。薔薇の葉の縁にも似てぎざついた薄布からは、水晶のように透き通った水滴が落ちて、泉にいくつも波紋を広げている。

 彼女は茨の君ナヤス。山に湧く清泉の精であり、末端ではあるが御使いの眷属でもあった。此度の件に関して、意見を仰ぐには丁度いい相手である。そんなチハヤの心底を知ってか知らずか、茨の君ナヤスは僅かに青く色付いた瞳を細めて、薄布が幾重にも覆う手で口をそっと押さえた。

 少しばかり考え込むように俯き、泉の精が顔を上げる。吐息のような声がした。


――貴方、変なものが絡みついていたわ。少しつついたら解けたけれど。


「多分地神龍フラクシナスの呪いだ。


――そうね、貴方達は何が絡んでもわからないものね。でも気を付けなさいな。幾重も絡めば重くなる。どんなに鈍感でも、動けないほど雁字搦めにされてはもう無視出来ないでしょう。

――絡まりに気付けない子は怖いわ。本当に、本当にその時まで何ともないのに、瞬きする間に動かなくなるんだもの。私、千の矢にそうなって貰いたくないわ。千の矢ったら、私達にも分からない間に無理するんだもの……


 ふるふると泉の精がかぶりを振る度に、布端から細かな水滴が散った。ベールの向こうに沈む心配げな女人の表情に、チハヤはくすぐったそうに肩を竦めて答える。


「そうなる前にお前が解いてくれるんだろ、茨藻? それよりも龍のことだよ。何があったんだ」


――どうして私に聞くのかしら?


「癒しの眷属。俺は急いでる」


――……そう。山主様には不幸だったわ。

――あれは魔の世の疾病やまいよ。誰かが開いたの、向こう側から。それを主様が閉じようとした。“門”は閉じられて、けれども山主様は魔の世の気を吸った。


 茨の君ナヤスの答えに言葉を失う。

 龍が呪いすら遺して死に至る理由が分かった。異界の病を伝染うつされたのだ。

 この世界は、二つのよく似た世界が隣り合って一つと認識される。俗に常界じょうかい異界いかいの名で呼び表されるその二界は、互いが互いにとって猛毒となった。食料は勿論、水や大気すらもがその対象であり、異界の者が常界の空気を一度でも吸えば、肺がただれて死ぬのだ。逆も然り。例外は幾つかあるが、少なくともこの山に暮らす民のほとんどにとって、異界のあらゆるものが死毒に等しい。

 恐らく、罹ったのはただの風邪だ。異界では。

 しかし、常界に於いて、その性質は反転する。


「……の君ヤス


 即ち。命に別状のない病から、神殺しの疫癘へ。

 即ち。すぐ癒える軽症から、国滅ぼしの重病へ。

 途轍もなく嫌な予感がして、字を呼ぶ声が掠れた。


――どうしたの、千の矢。


「さっき、呪いを解こうとした時に、あいつが……ナナハシにも、伝染ったかもしれない。このままじゃ死んじまう」


――御使い様の神官が?

――私に何が出来る? 力になりたいわ。力になれるはずよ。


 目尻を下げてすり寄ってくる手を受け容れる。長い服の袖が濡れ、はらはらと止め処なく落ちる水滴が頭に触れて、滑らかに伝い落ちた。冷気を知覚する。

 チハヤは人間ではない。人のような感情と知能を持ち、人に紛れて暮らすことは出来るが、少なくともその首から上は、人間のものとは大きくかけ離れていた。


「考えてみる。俺だって、賢者の末裔だもんな」


 その形を示す言葉は、人族にはない。

 だから、地球儀ちきゅうぎと言うその言葉は、チハヤら種族の言葉を借りたものだった。



「チハヤッ!」

「……!!」


 茨の君ナヤスのいる水場から戻ってきたチハヤに掛かったのは、イバラエの悲鳴じみた叫び声だった。

 見れば、村おさの腕にはナナハシの細い身体が収まっている。ぐったりと投げ出された手は蝋か紙のように生気なく、同じく血の気の失せた顔に落ちかかる黒髪の間、ずれかかった眼鏡の奥に見える目は力無く閉じていた。浅い息は途切れ途切れ、時折思い出したように深く一つ吸っては、また止まる。取るものもとりあえず駆け寄り、半ば掴むように触れた肌は、山深くの秋水のように冷たい。

 最悪だ。チハヤは心の内で絶叫した。いや実際に言い放ったのかもしれないが。それを気にしていられるほど心中は穏やかではない。

 言葉もなく香炉の蓋を開ける。水場に行く前掌大ほど残っていた香は、もう小指の先ほどしか残っていない。これら全てを煙にしても、この状況をどうにか出来るほどの精霊の井戸端スピリットリンクが作れるかどうかは賭けであった。しかも、分の悪い賭けだ。応えてくれない可能性の方が遥かに高い。出来るのは願うことだけ。何しろチハヤは神官でもなければ、治癒師のようなわざを使えるわけでもないのだから。

 予備はもうない。これが予備である。だが、それでも、やるしかない。一抹どころではない不安と恐怖を柏手一つで叩き殺し、チハヤは腰鞄ポーチから薬包紙に包まれた散剤ともぐさを取り出すと、まとめて香炉に詰め込んだ。火打石の一打で火を入れる。薬包紙を燃やす橙色の炎が収まった後、薄く上がり始めた藤色の煙は、甘い百花と蜜の香りの他に、目の覚めるような強い薄荷はっかと苔の香りを漂わせた。

 状況の掴めぬイバラエにも、香の変化の意味は分かる。集めたい精霊を限定するとき、惹霊香の調合と香りは変わる。

 だがこれは――


「チハヤ、凍え死にさせる気か!?」

茨のナヤ――いや、流氷の翼リマキナ! 頼む、出てきてくれ……!」


 イバラエの非難を無視して、チハヤは出来上がりつつある精霊の井戸端スピリットリンクに願いを叩き付けた。香の濃さに頼れない以上、望みの精霊を引き寄せるのは迷いなき意思だ。この狩人にはそれが出来るだけの確信があった。

 呼び集めるのは茨の君ナヤスでもいい。己と人に好意的なかの精霊ならば、少ないリスクで多くを呼び集められる。だが、ことこの場合に至っては、なるべく多くの熱を短時間で奪い去る必要があった。この一瞬でそこまで打算したわけではないが、チハヤの結論に理屈を付けるならば、つまりはそう言うことだ。

 必死な声音に引き付けられたか、ごぉと低く風が唸り、鳥肌が立つほどの冷気がチハヤとナナハシの周囲に渦を巻く。もしチハヤに適切な才能があるならば、その風の中に、透き通った天使めく小人の姿を見ただろうか。

 春始めの暖かさが一気に真冬の寒さに取って代わる。思わず身震いしたイバラエの腕の内で、不規則な呼吸を繰り返していた身体が、にわかに大きな息を吸った。閉じていた眼が薄く開かれ、奥の淡い銀瞳がぼんやりと周囲を見回す。好転の兆候に浮かびかけた安堵は、けれどもすぐに胸の奥へしまい込んだ。

 救援の叫びによって呼び集めた精霊を繋ぎ止めるのは、危難が続いているという現状だ。ただでさえ初春の昼という薄氷の精には居づらい場にありて、苦境が去っていると判断されれば、これ以上維持は出来なくなる。そうなればチハヤにはもう打つ手がない。故にこそ好機を隠した。かの者は未だ危機の内にあると、霊にも己にも信じ込ますために。

 実際の所、ナナハシの容態は予断を許さぬ状況にあった。呼吸こそ徐々に安定しつつあるが、開かれた銀の双眸に正気の色は薄く、体中を冷やされたせいで肌からはいよいよ生気が失われつつある。そんな自身の不調が不安なのか、ずいと膝を寄せたチハヤを見上げる表情は、今にも泣きだしそうに揺れていた。


「ぁ……な、に……? チハヤ、僕はどうなったんだ?」

「龍殺しの疫病に罹ってる。残ってたんだ」

「そっか……病気の、種類は?」


 一度ぎゅっと固く閉じ、再び開かれた双眸には、数瞬前より幾分強い正気の光。ともすれば忘れそうになる呼吸を意識して継ぎ問えば、落ち着いて聞いてくれ、と念押しの後に答えは返ってきた。


「風邪だ。異界でなら一日で治るような、大したことのない」


 眉根がきつく寄せられた。

 治癒師として、また或いは医薬の神性の神官として、およそ呪毒疾病の類については学を修めてきたつもりだ。その積み重ねられた豊かな知識が、今し方チハヤより告げられたことの重大さを教えた。同時に、冷え切った身体を更に冷やす意味も。

 異界の風邪が常界の者に伝染うつったとき、まず呈する症状は体温の低下だ。その下がり方は尋常でなく、真夏に暖炉を焚いても氷の如く冷え、ほんの半石刻しゃっこくでも放置すれば低体温で意識を失う。この間に食い止められなければ、最早手の施しようはない。激しい空咳と呼吸困難、不整脈や意識の混濁を繰り返し、最後には少しずつ体中の機能が停止して死に至る。

 これに有効な対処法は一つ――とにかく体温をこと。死ぬほど冷え切っていたとしても、上げることは病魔を活性させる絶対の禁忌だ。熱と異界の感冒かんぼうはこの上もなく相性が悪い。かの強壮なる守護龍が呆気なく崩御したのも、かのものが溶岩という膨大な熱量を血潮として巡らせたが故だ。

 ひょう、と冷風が頬を撫ぜ、既にして凍死寸前の身体を更に冷やしていく。普通ならば、この状態になった時点で――否、これよりも前に意識が飛んでいてもおかしくはない。しかし、ナナハシの頭はむしろ、驚くほど冴え渡っていた。その異常こそが、己の内に病魔が巣食うと再認させる。

 低くなり過ぎた体温故か、風邪特有の倦怠か。ともかくも、鉛を詰めたように重い手を動かす。チハヤの補助は首を振って拒否し、ずるずると胸の上まで引き摺り上げた右手で、ゆっくりと剣指の形を作った。

 チハヤの知識と機転による応急処置は成功した。

 ならば後は、治癒師の仕事だ。


〈汝は六剣ろっけんの刃 薄氷うすらいの翼〉

〈病魔を裂け 退魔の六手ろくしゅ――‟瘴気断ちの剣サービングミアズマ”〉


 流氷の翼リマキナへ捧ぐ聖句。危機によって集められたそれは、危難への助力を願う声に応えて身を翻す。飆々ひょうひょうと甲高く寒々しい風の音は、可憐な見た目と相反する勇猛さを秘めた、彼女ら天使のいななきだ。

 常命なる者には分からぬ雄叫びが、近寄らなかった薄氷の精を呼ぶ。春の燦々たる日差しはそのままに、精霊の井戸端スピリットリンクの中だけが見る見る内に冷えてゆく。健常者二人には堪える寒さだが、イバラエはまだ上体も起こせぬ治癒師の身体を支え、チハヤは香を以てこの場自体を支えねばならない。どちらもこの場を離れることは出来ず、故に耐えるしかなかった。

 びょうびょうと、轟々と。次第に重さ鈍さを増す薄氷の精の声を聞きながら、ずり落ちかかった眼鏡をのろのろと鼻梁に引っ掛けなおしたナナハシは、次の瞬間自身の行動を大いに後悔した。

 レンズによって補正され、矯正を受けた視界に、まず飛び込んだのは。


「ぁ、えっ、ひ……っ」


 ぐぱぁ、と。

 人のものに似た頭部を六つに裂き、牙と棘の生えた食腕バッカルコーンで顔に喰らいつこうとする、世にも獰猛なる氷神の眷属。


「ひぃィやぁあああぁ――――!?」


 貫かれた生娘よりも尚悲痛な絶叫を上げ、治癒師の意識はそこで途絶えた。

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