四:神官

 普段は調薬道具の散らかるほお材の机、塵の一つもなく片づけられた上に広げるは、金羊皮紙きんようひしに焼き記した霊脈図れいみゃくず。集る蟻のようにびっしりと書き込まれた陣と聖句、その所々に設けられた空隙に、白魚のような少女の手が一つずつ磨かれた宝玉を置いていく。

 瑠璃ラピスラズリ黄透玉トパーズ火遊玉オパール青玉サファイア

 橄欖玉オリヴィン紅玉ルビー月長玉ムーンストーン

 翠玉エメラルド玻璃クォーツ水宝玉アクアマリン

 紫玻璃アメシスト柘榴玉ガーネット

 細く開けた遮光の紗幕カーテンの間、細く差し込む陽光を受けて耀くこれらは、全てがこの村近くの鉱山から産するものだ。これら全てを抱く豊穣の龍が、いかに偉大なるものか。ほう、と感嘆めいた溜息を零しながら、左手は霊脈図の上に黒染めの羊皮紙を広げ、右手は鎖に通したガラスの振り子を下げた。ほそほそと口の中で口訣くけつを切り、絡む龍の彫り物がされた振り子の先を、紙にぎりぎり触れぬ所まで下ろす。

 ゆるゆるとガラスの振り子が揺れ、そして単純な振り子運動から、意志を持った動きへと変わった。ペン先のような形のそれが、金色の条痕を残しながら黒い紙の上を走って、独りでに文字を書き出してゆく。誰の筆跡ともつかぬ、堅固さと流麗さを併せ持った男文字が、少女の前に示された。


【神灼きのえやみ疾く去りぬ】

【猟人のかいなに我が分身わけみ有り】

【今は眠りの内 豊穣の日に醒める】


 端正に連ねられた言葉は、豊穣龍フラクシナスからの預言。時に難解で、時に曖昧な示唆に留まるそれを、噛み砕き理解しやすいような形に翻訳するのが、この村での彼女――白雪シラユキの役目である。それを出来るだけのすべじゅつを、彼女の家系は生まれつき有していた。

 とは言え、今回はさほど難しいことが言い下されたわけではない。神殺しの疫病は何処かに過ぎ去り、そして狩人チハヤの腕の中に分御魂があり、それは豊穣祭の日に孵るであろう。内容としてはそれだけだ。

 だから、シラユキが頭を悩ませたのは、下された預言の解釈ではない。


「どうやって伝えよっかなぁ……」


 新たな神が誕生し、あまつさえそれが個人に拾われたということを、如何にして村民に納得させるか、である。


 ‡


「せっ先生!? えっやだっ、どうしたの!?」

「んー……ナナハシが流氷の翼リマキナに助力を願い出たら、いきなり叫んでぶっ倒れた」

「何よそれっもぉ! これだから器族ヒュージェクトはヤなのよー!」

「やめなさい。種族差別だよそれは」

「分かってますーっ!」


 前の厄介ごとが解決しない内から、また一つ悩みが増えた。村に常駐するもう一人の神官が倒れたのだ。

 器族ヒュージェクト――もとい、村おさイバラエ狩人チハヤの曰く、氷戦神の眷属の力を借りた結果こうなったらしいと言うが。一体全体何をどうすれば、卓越した治癒師が白目を剥いて気絶した挙句、泡まで吹いて戻ってくるというのだろうか。揺すっても叩いても起きそうにないナナハシをごろりと寝台の上に転がし、こともなげに語る二人を前に、少女はいささか神経質ヒステリックに叫んだ。

 とは言え、いくら男どもの無能を嘆いたところで、これ以上器族である彼等から状況を聞き出すことは出来ない。何しろ、彼等はナナハシに襲い掛かる流氷の翼リマキナのおぞましい姿などこれっぽっちも見ていないのだ。

 さもありなん、チハヤら種族には、常界に住まう上位存在かみがみを知覚するすべの持ち合わせがなかった。故に、物質を媒介して顕現するもの――例えば水を身とする茨の君ナヤスや、火山と鉱石の化身である地神龍フラクシナス――はともかく、流氷の翼リマキナのような不可視の上位存在は、顕現の際に吹く風で間接的に有無を知る他に手段はない。

 この実に不便な差別を大雑把に、より学術的に言い換えるとすれば。

 器族ヒュージェクトと言う存在は、霊視れいしの素養が全くない。

 より詳細に言えば、霊力オドを扱う素養そのものが存在しない。


「そうは言っても見えないものはしょうがないだろ。文句なら中途半端に祝福した俺達の神アンビュランテ様に言ってくれよな」

「もおぉ~~っ!」


 霊力オドとは、万物に遍く存在する霊気マナに意志を宿したもの。この霊力オドが様々な霊的事象、つまりは上位存在かみがみの関与する事物の引き金ととなり、推進力となり、また対価となる。上位存在を視るための霊視もまた、この霊力を視覚を得る器官に徹すことで初めて可能となるものだ。

 しかし。霊力オドを生み出せるのはのみであり、には、霊力を徹すことは出来ても創造することは出来ない。

 その点で言えば、器族ヒュージェクトと言うのは何処か中途半端な存在だった。二足歩行の身を持ち、卓越した知力を有していながら、彼等には霊力を生成するためのある種の内臓が欠けているのだ。それ故に自力で霊力オドを作り出すこと能わず、卓抜した視力を持っていても霊界を覗き見ることは叶わない。

 ――人間ヒューマンの如く器用に動き、理性と知性を以って営む器物オブジェクト。人より尚長く生き、卓越した知性理性により己を統御し、探求と研究を愛する学術種族。その一方で、人にあるべき霊的な器官を欠かし、それ故に術の素養を持てない。そんな性質は、まさしく人と器物を足して二で割ったようだった。

 けれども、彼等は今更それを嘆くほど惰弱な種族ではなく。なればこそ、シラユキは冗談めかした風に頬を膨らませた。


「ほんと不便ね、あなたたち。神様がこんなに近くにいるのに」

「まあ……その辺は高望みって奴だろうな。とにかく、地神龍フラクシナスを殺した疫病は何とかなったと思う。ナナハシで止まってればの話だけど」

「去ったって御告げがあったし、それは大丈夫なんだけど――」


 ようやく本題だ。

 シラユキが僅かに声のトーンを落とせば、図ったようにイバラエが部屋を辞した。神官と当事者、二人だけで話さねばならないことがあると、経験豊富な村おさは知っているのだ。老器族の思慮に内心で感謝を述べつつ、アザミの花の如き紫色の瞳で、少女はじっとチハヤを見上げる。その顔色が何を問うものか、当事者たる彼が察せられぬはずもなく。小さく頷いた狩人は、鹿革製の腰鞄のフラップを開け、その中に付与された収納空間に手を入れた。

 ある閉じた空間へ別の空間を入れ子にし、見た目以上の容量を付与する――多次元庫アーカイブと名付けられたかの術は、位の高い神性の加護を受けたものの内、特に寵愛の強い熾官クラス・セラフの神官に与えられる特殊な恩恵である。チハヤの腰鞄に多次元庫これを付与したのはシラユキで、その容量は村の共有財である穀物庫の五倍以上。つまり彼女とはそう言う者だ。

 ――さて。

 そんな神官特製の鞄から、チハヤは巨大な翠玉を慎重に抱え出し、同時に勧められた椅子へそっと腰掛けた。その差し向かい、書き物机の下から引き出した椅子に、シラユキもまた座る。

 僅かに漂う静寂を、まずはチハヤの声が払った。


「まだ生きてたから、持ってきたんだ。その……遺体を漁ったのは悪かったよ」

「あら、獣や魔物が他の獣の死骸を漁るのは当たり前よ。それが肉か角や骨かの違いだけ。狩人の方がその辺り躊躇ないんじゃないの?」

「あ、そこは俺達かりうどと一緒なのなお前。てっきり怒られるもんかと」

「怒んないよぉ。神様からの賜りものをお断りする方が失礼だわ」


 あくまでも神から下賜されたものだから大事にするといい、と言うことらしい。龍を養える気がしないし手放したい、などとは冗談でも言える空気ではなくなって、チハヤは乾いた笑い声を上げて誤魔化した。

 とにかく。場に漂いかけた気まずい空気を柏手で打ち払い、地神龍の神官は、チハヤの腕に抱えられた卵に指先を触れた。

 仄かに暖かい。感じ覚えのある、けれども初々しく弱々しい気配が、指から確かに伝わってくる。間違えようもなく、これは己を加護してくれている龍の卵なのだ。その確信を改めて得て、シラユキはそっと目を閉じた。


「豊穣祭の日まで、日当たりと月当たりのいい所に置いて、たまに声とか掛けてあげて。孵るまでは普通の竜と一緒よ」

「窓際でいいかな」

「チハヤの家だったら枕元の方が良さそうな気がする。そんな寝相の悪い方じゃないでしょ?」


 器族はその頭の構造上、寝る時は概ね体勢が決まっているものだ。例外はあるが、少なくともチハヤはそう騒がしい寝方はしない。それを見越しての問いに、チハヤは肩を軽く竦めるだけで答える。分かっているなら今更言う必要もない。

 それじゃあ枕元に置いとこう、と、軽々な調子で結論付けたチハヤに点頭。神官は眼鏡も外さないままうなされているもう一人の神官をすがめてすぐに戻し、彼の横たわる寝台の下から純白の布を引き出した。

 金眼羊きんめひつじから刈り取った純白の毛と、雲曳竜オウィス――この村を抱く玉龍山ぎょくりゅうさんの頂に住まう、神ならぬ竜――の長いたてがみから得た細く軽い糸。これらを混ぜ紡いで織り、布端に青い雫型の石を結び下げた美品である。それだけならただの良い品と言うだけだが、光沢を帯びたそれは違う。淡雪のように軽く薄く、それでいて山羊革のように強靭かつしなやかで、触れると陽に当てたが如く暖かいのに、暑いと思えばひやりと冷たくなる。何とも不思議な布だった。


「これは?」

「風と太陽の神様から祝福された布。これで卵を包んでるといいわ。チハヤが目を離さなきゃいけない時でも、傍の妖精が見張って守ってくれるから」

「わぁーお……」


 神の祝福が掛かったものを産着に着せろとは、中々に大胆である。しかし、包まれる対象も神ならやむなしかと、チハヤは有り難く頂戴することとした。

 受け取った布を広げ、膝に置いた卵へ巻きつけてみる。赤子に産着を着せたことなど一度もないが、どうやら祝福を贈った神性が力を貸してくれるらしい。もたもたする青年の前で、布は独りでに動いて翠玉の珠を包み、布端を入れ込んでは、出来たお包みをチハヤの胸に押し付けてくる。抱いてみろ、と見えもしない誰かに言われた気がして、チハヤは大人しく、用心しいしい龍の卵を腕に抱いた。

 こうして見ると、慣れぬ育児に弱った夫のようだ。かくいうシラユキもチハヤも未成年だが、肝っ玉の強い妻に眠る赤子を託され、おどおどしながら丸太めいた腕に幼子を収める姿はそこかしこで見られる。その片鱗をチハヤにも見た気がして、少女はくすりと笑った。


「良い家族になれそうじゃない」

「そうかもな」


 己は受け入れた。だが、龍の仔が同じように自分を受け入れてくれるかどうかは、まだ分からない。故に、チハヤは曖昧な首肯のみに留めた。

 龍の卵を腕に抱えたまま、ゆっくりと椅子から立つ。神官からの教導は終わり、後はのんびりと家に帰るだけだ。シラユキもそれを引き留めることはせず、ひらひらと手を振る。

 狩人として鍛えられた、未成年ながらに頼もしさのある広い背。清潔感のある服に身を包んだその背がドアの向こうに消え、足音が遠ざかり、そして消え去ったのをはかって、シラユキは寝台に転がされた神官ナナハシを見た。彼の蒼白だった顔色はもう戻っていて、銀貨のような淡い銀灰色ぎんかいしょくの瞳は、複雑な色を含んで天井を見上げている。

 深謀遠慮の垣間見える治癒師の顔を覗き込めば、何処か遠くに飛んでいたらしい意識が、視線を送りつけてくる方へと向き直った。


「……何て言うかさ、凄いよね。彼」

「先生?」

「あんなに好かれてるのに、全然気付かないもんなぁ」


 それは、シラユキが敢えて指摘しなかった、チハヤの特異性について。

 人族であろうと器族であろうと、或いは言葉の通じ難い禽獣家畜の類であろうと、常界の上位存在かみがみは関係なく慈しみ愛する。しかしながら、チハヤほど上位存在に愛され護られ、そしてそれを欠片も認知しないものなど、ナナハシはこれまで見たことがない。

 無論、愛していることが伝わらないからと言って、上位存在が嫉妬に狂ったり八つ当たりをしたりはしないが――問題は、彼に寵愛を贈ろうとしている神性や妖精の数の、多さと質だろう。


地神龍フラクシナス茨の君ナヤス流氷の翼リマキナ。今日出会った分だけでもこの三柱が応えた。それに加えて、螺子巻葉スピロガイラに、砥師アキュータ夢喰いタピラス夜灯妖精セントエルモ……あぁ、平日の精霊フェリアレス道行く人アンビュランテも忘れちゃダメか。とにかく、僕が知ってるだけでも九柱から目付けられてるし、精霊はいつもそばにくっ付いてる」

「そんなに居たの? 私夢喰いタピラスしか知らなかったわ」

「いるねぇ。見えてない資格がないだけでもっといるかも。……ただ、そんな沢山の上位存在かみさまから寵愛されてたとして、生身の人間がそれに耐えられると思うかい?」

「それは……」


 首を横に振る。無理だ、とナナハシも上体を起こしながら自答を重ねた。

 人族や、それの身を持つ器族。その身と識を作る魂はひどく脆弱だ。ほとんどの者は最下級の上位存在である妖精から、それも一柱から受けるだけで許容量の限界に達し、ナナハシやシラユキとて、己が信奉し崇敬する神性と、それに関連する眷属から加護を受けるだけで精一杯。受け入れすぎれば魂はそれだけ疲弊し。悪くすればそのまま潰れてしまう。心身を形作るものが潰えてしまえば、待っているのは急速な衰弱、そして死だ。

 否。加護を与えられていることは十分条件ではない。上位存在が傍にあるだけで、人族の魂は信じられないほど疲弊する。それは、解呪の術を行使する為に霊を集め束ねたナナハシが、今体感しているところである。

 そんな膨大さを、チハヤは一見平然と受けている。その平気さは、真に頑健な魂と身体を持つ故なのか、それとも単純に気付けないせいなのか。


「大丈夫かな、あの子は。僕ぁ心配だよ」

「……先生」


 分かるわけがない。

 器族は治癒師を限界まで頼らないし、頼るべき不調を隠したがる。その理由が何かなど治癒師本人ナナハシにも分からないのに、預言を与るだけに過ぎぬシラユキが知っているわけがない。

 それに、彼等は概ねどんな責任も己が背負う。チハヤら狩人の一族は特にその傾向が強い。自分の行動で生じた結果には、およそどんなことでも自身だけで対処するのが彼等の流儀で、それに分け入ることは神に仕える身でも許されなかった。

 ならば。


「先生、質問責めに遭う心の準備は出来た?」

「えっ」


 ――まず、自分らの目先を心配した方が、いい。

 シラユキ一家が住む家、その扉を叩く回数がにわかに増えたのを耳で聞き取りながら、少女は男に目一杯可憐な笑みを向けた。

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