四:神官
普段は調薬道具の散らかる
細く開けた遮光の
ゆるゆるとガラスの振り子が揺れ、そして単純な振り子運動から、意志を持った動きへと変わった。ペン先のような形のそれが、金色の条痕を残しながら黒い紙の上を走って、独りでに文字を書き出してゆく。誰の筆跡ともつかぬ、堅固さと流麗さを併せ持った男文字が、少女の前に示された。
【神灼きの
【猟人の
【今は眠りの内 豊穣の日に醒める】
端正に連ねられた言葉は、
とは言え、今回はさほど難しいことが言い下されたわけではない。神殺しの疫病は何処かに過ぎ去り、そして
だから、シラユキが頭を悩ませたのは、下された預言の解釈ではない。
「どうやって伝えよっかなぁ……」
新たな神が誕生し、あまつさえそれが個人に拾われたということを、如何にして村民に納得させるか、である。
‡
「せっ先生!? えっやだっ、どうしたの!?」
「んー……ナナハシが
「何よそれっもぉ! これだから
「やめなさい。種族差別だよそれは」
「分かってますーっ!」
前の厄介ごとが解決しない内から、また一つ悩みが増えた。村に常駐するもう一人の神官が倒れたのだ。
とは言え、いくら男どもの無能を嘆いたところで、これ以上器族である彼等から状況を聞き出すことは出来ない。何しろ、彼等はナナハシに襲い掛かる
さもありなん、チハヤら種族には、常界に住まう
この実に不便な差別を大雑把に、より学術的に言い換えるとすれば。
より詳細に言えば、
「そうは言っても見えないものはしょうがないだろ。文句なら中途半端に祝福した
「もおぉ~~っ!」
しかし。
その点で言えば、
――
けれども、彼等は今更それを嘆くほど惰弱な種族ではなく。なればこそ、シラユキは冗談めかした風に頬を膨らませた。
「ほんと不便ね、あなたたち。神様がこんなに近くにいるのに」
「まあ……その辺は高望みって奴だろうな。とにかく、
「去ったって御告げがあったし、それは大丈夫なんだけど――」
ようやく本題だ。
シラユキが僅かに声のトーンを落とせば、図ったようにイバラエが部屋を辞した。神官と当事者、二人だけで話さねばならないことがあると、経験豊富な村おさは知っているのだ。老器族の思慮に内心で感謝を述べつつ、
ある閉じた空間へ別の空間を入れ子にし、見た目以上の容量を付与する――
――さて。
そんな神官特製の鞄から、チハヤは巨大な翠玉を慎重に抱え出し、同時に勧められた椅子へそっと腰掛けた。その差し向かい、書き物机の下から引き出した椅子に、シラユキもまた座る。
僅かに漂う静寂を、まずはチハヤの声が払った。
「まだ生きてたから、持ってきたんだ。その……遺体を漁ったのは悪かったよ」
「あら、獣や魔物が他の獣の死骸を漁るのは当たり前よ。それが肉か角や骨かの違いだけ。狩人の方がその辺り躊躇ないんじゃないの?」
「あ、そこは
「怒んないよぉ。神様からの賜りものをお断りする方が失礼だわ」
あくまでも神から下賜されたものだから大事にするといい、と言うことらしい。龍を養える気がしないし手放したい、などとは冗談でも言える空気ではなくなって、チハヤは乾いた笑い声を上げて誤魔化した。
とにかく。場に漂いかけた気まずい空気を柏手で打ち払い、地神龍の神官は、チハヤの腕に抱えられた卵に指先を触れた。
仄かに暖かい。感じ覚えのある、けれども初々しく弱々しい気配が、指から確かに伝わってくる。間違えようもなく、これは己を加護してくれている龍の卵なのだ。その確信を改めて得て、シラユキはそっと目を閉じた。
「豊穣祭の日まで、日当たりと月当たりのいい所に置いて、たまに声とか掛けてあげて。孵るまでは普通の竜と一緒よ」
「窓際でいいかな」
「チハヤの家だったら枕元の方が良さそうな気がする。そんな寝相の悪い方じゃないでしょ?」
器族はその頭の構造上、寝る時は概ね体勢が決まっているものだ。例外はあるが、少なくともチハヤはそう騒がしい寝方はしない。それを見越しての問いに、チハヤは肩を軽く竦めるだけで答える。分かっているなら今更言う必要もない。
それじゃあ枕元に置いとこう、と、軽々な調子で結論付けたチハヤに点頭。神官は眼鏡も外さないまま
「これは?」
「風と太陽の神様から祝福された布。これで卵を包んでるといいわ。チハヤが目を離さなきゃいけない時でも、傍の妖精が見張って守ってくれるから」
「わぁーお……」
神の祝福が掛かったものを産着に着せろとは、中々に大胆である。しかし、包まれる対象も神ならやむなしかと、チハヤは有り難く頂戴することとした。
受け取った布を広げ、膝に置いた卵へ巻きつけてみる。赤子に産着を着せたことなど一度もないが、どうやら祝福を贈った神性が力を貸してくれるらしい。もたもたする青年の前で、布は独りでに動いて翠玉の珠を包み、布端を入れ込んでは、出来たお包みをチハヤの胸に押し付けてくる。抱いてみろ、と見えもしない誰かに言われた気がして、チハヤは大人しく、用心しいしい龍の卵を腕に抱いた。
こうして見ると、慣れぬ育児に弱った夫のようだ。かくいうシラユキもチハヤも未成年だが、肝っ玉の強い妻に眠る赤子を託され、おどおどしながら丸太めいた腕に幼子を収める姿はそこかしこで見られる。その片鱗をチハヤにも見た気がして、少女はくすりと笑った。
「良い家族になれそうじゃない」
「そうかもな」
己は受け入れた。だが、龍の仔が同じように自分を受け入れてくれるかどうかは、まだ分からない。故に、チハヤは曖昧な首肯のみに留めた。
龍の卵を腕に抱えたまま、ゆっくりと椅子から立つ。神官からの教導は終わり、後はのんびりと家に帰るだけだ。シラユキもそれを引き留めることはせず、ひらひらと手を振る。
狩人として鍛えられた、未成年ながらに頼もしさのある広い背。清潔感のある服に身を包んだその背がドアの向こうに消え、足音が遠ざかり、そして消え去ったのをはかって、シラユキは寝台に転がされた
深謀遠慮の垣間見える治癒師の顔を覗き込めば、何処か遠くに飛んでいたらしい意識が、視線を送りつけてくる方へと向き直った。
「……何て言うかさ、凄いよね。彼」
「先生?」
「あんなに好かれてるのに、全然気付かないもんなぁ」
それは、シラユキが敢えて指摘しなかった、チハヤの特異性について。
人族であろうと器族であろうと、或いは言葉の通じ難い禽獣家畜の類であろうと、常界の
無論、愛していることが伝わらないからと言って、上位存在が嫉妬に狂ったり八つ当たりをしたりはしないが――問題は、彼に寵愛を贈ろうとしている神性や妖精の数の、多さと質だろう。
「
「そんなに居たの? 私
「いるねぇ。
「それは……」
首を横に振る。無理だ、とナナハシも上体を起こしながら自答を重ねた。
人族や、それの身を持つ器族。その身と識を作る魂はひどく脆弱だ。ほとんどの者は最下級の上位存在である妖精から、それも一柱から受けるだけで許容量の限界に達し、ナナハシやシラユキとて、己が信奉し崇敬する神性と、それに関連する眷属から加護を受けるだけで精一杯。受け入れすぎれば魂はそれだけ疲弊し。悪くすればそのまま潰れてしまう。心身を形作るものが潰えてしまえば、待っているのは急速な衰弱、そして死だ。
否。加護を与えられていることは十分条件ではない。上位存在が傍にあるだけで、人族の魂は信じられないほど疲弊する。それは、解呪の術を行使する為に霊を集め束ねたナナハシが、今体感しているところである。
そんな膨大さを、チハヤは一見平然と受けている。その平気さは、真に頑健な魂と身体を持つ故なのか、それとも単純に気付けないせいなのか。
「大丈夫かな、あの子は。僕ぁ心配だよ」
「……先生」
分かるわけがない。
器族は治癒師を限界まで頼らないし、頼るべき不調を隠したがる。その理由が何かなど
それに、彼等は概ねどんな責任も己が背負う。チハヤら狩人の一族は特にその傾向が強い。自分の行動で生じた結果には、およそどんなことでも自身だけで対処するのが彼等の流儀で、それに分け入ることは神に仕える身でも許されなかった。
ならば。
「先生、質問責めに遭う心の準備は出来た?」
「えっ」
――まず、自分らの目先を心配した方が、いい。
シラユキ一家が住む家、その扉を叩く回数がにわかに増えたのを尖った耳で聞き取りながら、少女は男に目一杯可憐な笑みを向けた。
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