五:狩人の系譜

 玉龍山、茨宮村じきゅうそんの東。

 狩人たちが専ら腕を振るう狩場、深閑とした深い原生林の中を、音もなく狩人は歩む。その手にはいしゆみかと見紛うばかりの強力な大弓、腰には種々の道具を秘めた鞄とえびら、そして背には――光と熱を通し、悪しきを通さぬ陽輪龍ヘリアンタスの革から作られた真新しい背嚢リュック。小さくまとまったその内には柔らかい真綿が詰められ、布に巻かれた龍の卵がきちんと収まっている。

 あれこれ考えた挙句、チハヤは龍の卵を狩りへ連れて行くことにした。直感でそれを望んでいるように思えたし、布が護ってくれるとは言え、悪戯好きの妖精やお節介な精霊のひしめく――存在を視認出来るわけではないものの、寝苦しい夜に窓が開いていたり、紛失した貯金箱が忽然と姿を現したり、倉庫の古くなった食料が勝手に朝食へ変わっていたりすれば、流石に存在を認識せざるを得ない――我が家に龍の卵など放置した日には、正直何が起こるか見当もつかない。ならば、一番安全なのはむしろ自分の傍だ。故に、希少な龍種の革デッドストックを持ち出してまで鞄を作った。龍の革で龍を背負うとは何とも不敬な話だが、龍の脱皮した殻を拝借しただけで襲って奪い取った訳ではないし、使えるものは使うのが狩人の流儀である。

 大胆に、しかし丁寧に。木の根や石の上を選択して歩く。地面を歩いた方が楽なのだが、生い茂る草を踏み抜いて立つ音を嫌い、敢えて音の立ちにくい場所を選んで進むのだ。玉龍山に住まう獣は人の気配に敏感で、少しでも足音を感じ取ればたちまち逃げてしまうから、嫌でもこの歩法で進まねばならなかった。

 やがて、狩人の足はある一点で止まる。生い茂る下草の一際深い、人ひとりをすっぽりと隠せそうな窪地。チハヤは迷うことなく身を屈め、鞄から出したナイフで下草を最小限刈り取って、ほんの半人分ほど作った空き地に片膝を立てた。

 鹿のガットで作られた弦を張り、牛蒡のように太い軸の矢を番え、しかし引き絞らずに静観の構え。探知網を巡らせ、周囲の獣の動向を探る。


「…………」


 正面に銀牙狐の小規模な群れ。それに追い立てられる跳兎の足音が二羽、三羽。木陰に隠れているのは青角鹿で、後方の遠くには、何か大きな存在が息を潜めている。大方この辺りの主か何かだろう。こちらから何もしなければ無害だ。

 獲物を決定。潜めていた気配を更に周囲へ溶かし、その隠密さのままに弦を絞り――太い矢の先、研ぎ上げられつつも黒く焼かれて艶を消された鏃は、木に潜む鹿の方に向けられた。

 指を離す。矢が完全に己の制動から離れる直前、ほんの僅かに手首を捻り、その行先にも捻りを与えなば。


「――――、っ」


 熟練の騎士に乗りこなされた馬の如く、矢は自在に空を曲がり、


「獲った――っ!」


 チハヤが放った激声に驚き固まった鹿の眼を、過たず射抜く。

 常人ならば巻上げ機ウィンチを使うか、二人がかりで何とか引き絞れるような強弓から放たれた一撃は、目から脳を射抜いて絶息せしめるだけに飽き足らない。よく肥えて重い身を減衰した勢いだけで引きずり倒し、地面に射留めるのだ。獲物は断末魔の痙攣を数度繰り返し、やがては諦めたように動かなくなった。

 再び探知網を巡らせ、索敵。狩人の声のに恐れを成し、逃げ出した獣らの気配を遠くに感じながら、チハヤはゆっくりと狩場を立つ。

 絶息した獲物の脚と首を縄で縛り、近場を探って拾い出した枝に括り付け、枝と脚と首とで出来た輪に腕を入れて、ゆっくりと持ち上げる。成体の雄鹿など普通は蹴り転がして運ぶものだが、こと器族にそれは必要ない。人に似ながら、その膂力は人の数倍。要領さえ掴めば簡単に持ち上げられるし、チハヤは心得ていた。

 とは言え重いものは重い。少々よろめきながら、狩人はゆっくりと草深い狩場を辞してゆく。



「よっ。初陣お疲れィ」

「へ?」


 山を下り、道を渡り、村外れの沢へ。生活用水を確保するための二本の支流、それよりもやや上流から分かれた支流が、狩人達の作業場である。今日も今日とて獲物を抱えて帰ってきたチハヤを、二人の男が出迎えた。

 獲物は銀牙狐が二頭と、大雀が五羽、大猪の親子。狐と雀は既に虚ろな腹腔を晒しており、二人の内隆々とした方が、熱心に猪と格闘している。もう一人の細い方は、傍の切り株で呑気に洋煙管パイプなどふかし、何ともいい御身分。チハヤに声を掛けてきたのは細い方だ。

 猪の巨体が占拠する沢、その片隅の水溜まりに獲物を沈めて、チハヤはきょとんと首を捻った。


「初陣?」

「そこな龍の仔のな」


 パイプを持つ手で背を指せば、嗚呼、と返事は上の空。背負っていた龍革の鞄を下ろし、腰の鞄から腸抜き鉤ガットフックの付いたナイフを出して刃を点検しながら、チハヤは何でもないかのように呟いた。


「いつも通りだよ、六紗ロクシャの爺ちゃん。龍の仔が傍に居るからって、何が変わるわけでもない」


 そりゃそうだけど、ともごもご反駁しかける細い方、もといロクシャの声に、若き狩人は最早振り向かず。沢に沈めた獲物を引き出し、腸抜きに取り掛かったその背を、隆々とした方の男が見咎めた。

 内臓を抜き終わった親猪を沢に蹴り沈め、手にしていたナイフの血と脂を腰に下げた手拭いで乱暴に拭き取りつつ、はぁと呆れた風な溜息を吐く彼は、チハヤと同じ器族。その頭はやや古めかしさのある、けれども形はまるで青年と瓜二つの、象牙で出来た地球儀である。つまるところ男はチハヤの祖父みうちで、狩りの先輩であった。

 嗜む酒と煙草のせいか、或いは森の中で大声を繰り出す狩人の習慣ゆえか。ともあれ、嗄れた迫力ある声が、低く低く呆れを零す。


「殺生の場に地神龍かみさま連れてくってな、ありゃ村の守り神を何だと思ってんでェ」

「まあそう言わんと、敬意は払ってんだよ多分。ただ、チハっちゃんの家ァ妖精が一杯で何されるか分かんないからネ」


 パイプの煙を輪にして吐き出し、ロクシャは遠い目。その隣に座り、紙巻の煙草に火打ち石で火を点けながら、器族の老爺もまた遠くを見る。

 そんな二人の様子もつゆ知らず、チハヤはさっさと獲物の内臓わたを抜いて選り分け、根元から角を切り取って岸に放り出したかと思うと、一仕事終わったと言った風に河原へ胡座を掻いた。

 ごそごそと鞄を漁って取り出したるは細い煙管と、煙草の代わりに焚香を調合したもの。あらかじめ丸くしておいたものを雁首の中に落として火を点ければ、藤色の煙と共に、梔子くちなしと似た香りが辺りへ広がる。

 惹霊香。それも――


「昼寝するからちょっと見張っといてな、夜灯の。悪戯すんなよ」


――まー、妖精づかいの荒いひとだこと。

――いくら好かれてるからって、あなたねぇ。まあ良いけれど。


「そう言うとこだぞ夜灯。使えるものは何でも使う、狩人ってそう言うもんだぜ」


――そういうところよ千の矢。その不敬な態度、お気に入り。

――ねぇそれよりも、わたしたちにも見せてよ。


 夜灯妖精セントエルモを呼び出す為の処方。

 虚空が一瞬陽炎かげろうのように揺らぎ、捻れて、刹那の後に三人の童女がチハヤと龍の卵を取り囲む。銀糸のようなふわふわの髪を揺らし、額よりやや上から伸びた大水青の触角をゆらゆらと上下させながら、燐火の精は入れ替わり立ち替わりチハヤの腕の中を覗き込んだ。どうやら抱えられた龍の卵が気になるらしい。

  煙管一本分の微弱な精霊の井戸端スピリットリンクにも寄って来てくれた妖精ともだちである。見せるくらいならいいかと、布に巻かれた卵をそっと地面に置けば、黄色い声が三つ……

 否、八つ。


――龍! 龍の卵!

――ほんとだったのね。凄いわ。凄いわ。

――水神様もお慶びになるでしょう。

――見せてくれないものなぁ、千の矢め。

――見せてくれても良いだろうに。


「あのな、平日の。何やってんだ」


――見に来たのよ。

――呼ばれたのよ。

――貴方に。

――お前の香に。

――龍を見に。


 夜灯妖精セントエルモの可愛らしい声とは違う。大人びた女声が三つと、尊大さを帯びた男声が二つ。姿はなく、その代わりに周囲でちらちらと火の粉が舞い、水の珠が弾け、河原を割る草がざわめく。

 平日の精霊フェリアレス。チハヤの家に住み着き、その機能を保つ五柱の精霊。普段家から出ることのない彼女ら彼ら、その声が口々に語る好き勝手に、家主たるチハヤの声は冷然としていた。


「庭の花と竃のおき、ちゃんと維持ってこっちに来てるんだろうなぁ?」


――……うっ。


「こんにゃろ、家のことをちゃんとやるって約束で住んでんだろうがお前ら。龍が気になるのは分かるけど、ちゃんと働け。でないと追い出しちまうぞ」


――もう、薄情!


「龍の仔なら後で見せてやるから。皆いい奴だよ、ほら。散った散った」


 こんなことは慣れっこ、と言いたげに手をひらひら。地面に置いた卵を腕の中に抱え直し、岩を背もたれ代わりに寄りかかって休息の意を示せば、ぶーぶー言いながら精霊達は離れてゆく。チハヤが器族でなければ、村娘のような格好に身を包む二人の乙女と、ぞろりと長い薄衣姿の女性と、何処ぞの文官めいた服装の男性二人の後ろ姿が見えただろうか。

 しかし、姿は見えずとも離れていく気配は分かる。見えぬ精霊達のいる方へ正確に見送りの視線を投げ、チハヤは煙を吐くキセルを傍らの石に立てかけてから、そっと意識を手放した。

 余程に疲弊していたものか、すぐに眠りの世界へ入り込んだ青年の周囲には、相も変わらず龍の卵にはしゃぐ妖精三人。その肉持つ指で恐る恐る翠玉の珠に触れ、それが微かな熱を帯びていると確認する度に、夜灯妖精セントエルモの可愛らしい声がひそひそと場を騒がす。


「手なづけてんなぁ」


 翅をパタパタと羽ばたかせる童女の背を眺めつつ、ぽろりと感心した声を零すのはロクシャ。葉の尽きたパイプをしまい、切り株の上で足を組み直し、彫りの深い顔立ちの奥に光る銀瞳を細めた。


「神官じゃないんだろ、あれで?」

「器族が神様の加護受けられると思うてかいロクシャよ。それに、神官じゃねぇからあんな態度なんだろがい。友達かなんかと勘違いしてやしねェか?」


 呆れた風な返答は器族の老爺から。対するロクシャはと言えば、そう認識するように躾けたのは自分だ、とからから笑ってみせた。


「ちこっと扱いが変わるだけで上位存在カミサマァ怒ったりしねぇさ。オレだって癒し天使様と秩序の神様以外の神様は崇拝してねェ。尊敬はするがな」

「知ってるか? 秩序の神は二人いるってなァ。お前ァ夜に死んだら間違いなく地獄行きだぜ」

「尊敬はしてるっつってんだろが。いちいちお伺い立てたりしねェってことだよ脳筋ジジイめ」

「ァあ゛ッ!? こっちゃ孫心配して言ってんだぞ、テメェ孫の躾の仕方間違ってんじゃねぇのかこのモヤシジジイ!」

「ンだとォ!?」


 瞬く間にヒートアップ、そして掴み合い。一方は器族の狩人で一方は人間の神官、力も上背も前者に劣るロクシャは、しかし神の加護を無駄遣いして狩人の腕力と拮抗する。ぎゃんぎゃんと良く通る声同士で繰り広げられる烈しい――しかも所々論点を違えている――言い合いは、チハヤの言いつけを忠実に守って傍をうろちょろしていた夜灯妖精セントエルモの耳を騒がせて、


――うるっさぁぁーいッ!!


「ぶべらッ!?」


 集う三人の童女による後頭部への蹴りが、老爺ども二人を川に突き落とした。

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