九:命名

 仰向けに寝ると緯度尺いどしゃくが邪魔。うつ伏せに寝ると息が出来ない。仰向けになって頭だけ横にすると首が――本来の首は人間の身体の方に別途あるのだが、頭の可動部分も一緒くたに首と呼んでいる――凝る。

 幼少の頃から悩み転げて、結局チハヤが落ち着いた寝方は、何かに抱きついて横向きに寝る、と言ったもので。


「んぁ……何だこれ……何だこれ?」

「ぅぎゅ」

「……あー」


 影の竜を斃した後、精根尽き果てて眠り込んだチハヤは、仔龍をひしと抱きしめた状態で目覚めた。

 身体を起こして状況確認。組み立て式の木枠に、分厚い革と布のほろを被せて作った簡易式の屋台。薄暗いのは幌が陽光を遮っているからと言うだけらしく、隙間からはまだ明るい光が漏れている。左手からは感心を交えた人の声が多数聞こえるものの、その姿は張り渡された紐に掛かる皮革が紗幕カーテンとなって見えず、表へ出ようにも壁のように並んだ箪笥で通行止め。周囲には見覚えのある獣の骨やら角やらが束ねて置かれ、己の下は分厚い藁と毛皮で作った即席の寝台と化していた。

 竜を斃してからさほど経っていないにも関わらず、豊穣祭の大市は逞しくも営業を再開したらしい。表の店番はどうやら祖父がやっているようで、軽妙洒脱に武勇伝を語りながら、あれもこれもと聞き出そうとする商人詩人を笑ってあしらっている。そのげに鮮やかな口上は、とても青二才の真似できるものではない。

 しばらくは祖父に対応を任せよう。心に決めて、チハヤは仔龍を腕に抱いたまま、音を立てないよう慎重に立ち上がった。父親譲りの隠形を発揮し、気配を消したままそっと店を辞せば、すぐ傍を流れる水路に腰掛けた父を見つける。


「父さん」

「嗚呼、チハヤ」


 饒舌じょうぜつで口の上手いトウヤと対照的に、ヤライは物静かな男だった。息子に対してもあまり口数は多くない。しかし、チハヤはそんな父の穏やかな静けさが好きだった。

 ぽんぽん、とヤライの手が隣に空いた石畳を叩く。その手振りに倣ってチハヤは腰を下ろし、膝の上に仔龍を乗せた。龍の仔はと言えば、ヤライの服装に興味津々の様子。丸出し事案を免れた脚を小さな前脚で撫でたり叩いたり、きちんと穿いてベルトも締めたズボンを爪で引っ張ってみたりして、しきりに首を傾げている。

 何をやってるんだ、と飼い主チハヤが怪訝に思う横で、ヤライはあくまでも静かに笑ってみせた。


「衣服、と言ってね。脱皮をした後の殻を着ているようなものだ」

「ふくー?」

「そう、服。これがないと人間の身体はすぐに傷付いてしまう。大事なものだから、あまり乱暴にしないでおくれ」

「ぅぎゅっ!」


 元気いっぱいにうなずく仔龍の横で、チハヤは浮かない雰囲気。自分の分からなかった幼龍の疑問を、全く赤の他人である父が正しく察した上、龍の仔が納得するように諭してしまうとは。経験的にも年齢的にも一日の長があるとは言え、龍の拾い主として悔しいことには変わりない。

 嫉妬を隠しがてら龍を膝に乗せ、喉や額をわしわしと強めに撫でる。するとそれが気持ちいいのか、きゃっきゃっといつになく楽しげな声を上げて尻尾をふりふり。ころんと仰向けに寝転がったところで腹をまた撫で回すと、ぽってりした四肢をバタつかせてはしゃぎ回った。

 きゃいきゃい言いながら一頻り膝の上でくねくねし、興奮のあまり頭に飛びついて舐め始めた仔龍を、チハヤは真正面から無防備に受け入れる。蛇のような二又の舌は猫のそれのようにざらざらで、遠火で炙られたように熱い。これが龍の体温かと小さな感動を覚えながらも、頭からざりぞりと変な音がする悪寒に耐えられなくなった青年は、龍の脇下から手を入れて距離を取らせた。

 拗ねられる前に抱き寄せ、顎を肩の上に乗せてもたせかける。そのまま犬を抱くように尻の下から手を入れてやると、据わりが良かったらしく寝息を立て始めた。


「いい子だよ」

「俺もそう思う」

「お前のことだ」


 短く告げて、息子の背を軽く摩る。一方のチハヤは、突然父親が大雑把に褒めたことに驚いたらしい。ぴんっと引っ張られたように姿勢を正して固まり、ぽんぽんと軽く背を叩かれたことで元に戻った。そのまますぐ、いきなりどうしたんだ、と気遣わしげな声音で尋ねてくる息子の頭を、ヤライはまっすぐに見つめ返せない。

 ぎこちない父の様子に、チハヤもまた俯いた。堀のような深い水路、そこに湛えられた水の上を、ゆっくりと船が行き交う。乗船しているのはよく見知った村の器族で、二人の何とも言えぬ沈んだ空気に何かを言いかけては、諦めたように再びかいを漕いでいった。後に残るのは乱れた水面と、そこに照り返す陽光のきらめきばかり。

 長い沈黙を跨いで、チハヤはようやく一言だけ絞り出した。


「父さんなら、きっと治せるよ」

「……そうかな」

「今までもそうだっただろ」


 信じて疑わない声音が今は重たい。ヤライはますます息子をまともに見られず俯く。けれども、それ以上チハヤは何も言わずに、すぴすぴと平和に鼻提灯を膨らませている仔龍の背を撫でた。その手付きがまた心地よいのか、仔龍は喉の奥をぐるぐると慣らしながら、コウモリのそれのような翼をぱたぱたと羽ばたかせる。

 その長い尻尾がぴしゃりと腿を叩くと同時、ヤライははたと頭を上げた。視線をチハヤに向ければ、彼が父へ投げつけるのもまた、同じ色の視線。


「こいつ、名前は?」


 寸分の狂いもなく同じ言葉を口にする辺り、親子らしい以心伝心である。



「名前――地神龍フラクシナスじゃないよなぁ」

地神龍フラクシナス地神龍フラクシナスと名前を付けるのは物笑いの種だろう」

「そうなんだけどさ……そうなんだけどさ、分かるだろ父さん」

「分かるよ、分かるんだが」


 呻くチハヤの苦悩がヤライには痛いほど良く分かった。

 この親子、二人して名付けと言うのが極端に苦手なのだ。別にふざけている訳ではなく、良い名前を付けてやりたいと本気で考えてはいるのだが、それが見事に空回りしてしまう。妙なところで安直な、妙なところで捻ったその名は、忌憚なく言えばダサいの一言しか贈る言葉がない。それを自覚しているが故に、チハヤとヤライは揃ってその場に倒れ込んだ。

 うんうんあーあーと意味もなく喃語なんごをまき散らす器族の親子。先程まで今にも入水じゅすいしそうだった二人が、今度は全体何事かと、水路を行き交う村人達は怪訝な表情も露わだ。しかし、今それを気にしていられるほどの余裕はない。倒れた拍子に目が覚めたのか、ぱっと四肢を突き立ち上がった仔龍が小虫を追ってうろちょろするのを、チハヤもヤライもそぞろに見守るばかり。

 ――砂岩を切り出して磨いたような砂色の鱗、三つ指の先に光る白銀の爪、きらきらと宝石のように耀く緑瞳りょくどうに、頭と頸に伸びる琥珀の角。顔貌は狼にも蜥蜴にも似て、体躯はぽってりとした仔犬に近く、前脚の真上から伸びた翼は蝙蝠によく似ていて……


……」

「さ?」

「いーや! 何でもない! 全ッ然何でもなーい!」

「さー?」

「何でもないってばァ――!」


 みたいな色のだから砂鱗サリンかしら、と。そんな考えは、仔龍のあまりにも無邪気な声により須臾で木っ端みじんに砕け散った。神なる龍に授ける名がそんな安直すぎては絶対にいけない。龍の仔は何も知らぬから受け入れてくれるだろうが、自分が心底許せない。

 さってなに、と純真無垢に聞いてくるのを必死で誤魔化し、拗ねた龍の仔に顔中をべろべろと舐められて悲鳴を上げるチハヤと、慌てて気を逸らし止めに掛かるヤライ。ぎゃーぎゃーと五月蝿く騒ぐ二人の姿は村人の不審な目を引きつけ、渡る噂は村おさの元にまで届き、


「何をやっているんだね君たちは」

「龍の名付けを少し……」


 “矢”の者が龍に襲われている。そんな尾鰭の成長しきった報告を受けて駆けつけたイバラエが目撃したのは、魚河岸の売れ残りよろしくうつ伏せに横たわるヤライと、その隣で諦めたように両腕を投げ出し仰臥するチハヤ。そして、そんな二人の間で、チハヤそっくりの格好で不貞腐れている仔龍の姿であった。


「全く、名前を付けるだけで私を呼ばせないでくれ……まあ、重大な怪我や損傷がないようで何よりだったよ」


 まず、本当に襲われて齧られたりしていないことに、イバラエは安堵した。ほんの一石刻しゃっこく前に竜が出てきたばかりと言うのに、またぞろ出てきて狩人に怪我を負わすなどと、そんな悪夢を見ずに済んだのは有難い。見る限り散々舐められたりじゃれつかれたりはしたようだが、それは可愛いものだ。

 次に、村おさは龍の機嫌を取ることにした。ぐてぇ、と四肢も尻尾も翼も投げ出した龍の仔、その頭のところに腰を下ろし、ガラスの三角錐に見える頭を陽光に透かしつつ、目の前でがさごそと買い物袋を漁る。そのいかにも何かが出てきそうな音と、後から漂い始めた不思議な香りに、我慢ならずと言った風情で尻尾を左右に振り、かと思えば、弾かれたようにその場でぐるりと身体を回転。しゅたっと四つ足を石畳に押し付けて立つと、仔龍は目をきらきらさせながら袋に飛びついた。

 まあまあ、と宥めて龍を座らせ、ようやく取り出したるは笹の葉包みの細い円錐。この段になってようやく器族二人も身を起こし、村おさはすかさず笹の葉の包みを親子に一つずつ投げ渡す。

 受け取った二人の反応は同じ。


「おぉ、ちまきだ」

「ぅぎゅー?」

「ちまき。珍しいお菓子だよ」


 ほれ、と仔龍の前で笹の包みを解き、チハヤは龍の鼻先に中身を差し出した。

 目の前で揺れるのは、真っ白な、得体の知れない、芋虫のようにぷるぷるした何ものか。孵ったばかりの仔龍にとって、蒸し餅など当然初めて見る物体である。当然不審な目付きで警戒するも、鼻先をくすぐるのは本能に訴えかける甘く爽やかな香りで――よく分からないものに対する恐怖心が、好奇心と食欲に負けるのは早かった。

 ちょろりと蛇舌の先でひと舐め。すぐに引き戻し、硬直して……


「んぎゅっ」

「えっ何、欲しいのか」

「ぅーっ!」

「分かった分かった、ほら。葉っぱ食うんじゃないぞ」


 ねだって笹の葉ごと粽を受け取り、大口を開けてかぶり付く。一気に半分ほど齧り取ってもちもちと咀嚼し、また硬直した。不味かったのか、とチハヤは心配になって覗き込んだものの、目を真ん丸に見開いてきらきらさせている辺り、お気に召さなかったわけではないようだ。


「気に入った?」

「みゃ……」


 反応がおかしい。良い言葉が見つからないのだろうか、と頭を捻りつつ、質問を変えてみる。


「美味い?」

「んま……んみゃーぃっ!」


 ハッ、と気付いたような顔をすると同時に雄叫び。どうやら本当に言葉が見つからなかっただけらしい。

 尻尾をばしばしと石畳に叩きつけ、翼を一生懸命にバタバタさせながら感激を表明する仔龍。その様を生暖かく見守りつつ、チハヤは頭を撫でくり回す。

 そこに、無慈悲な言葉が一つ。


「そう言えば、この子の名前は決まったのかね?」

「…………」

「だろうね」


 しれっと視線を明後日の方へすっ飛ばしたチハヤとヤライに、イバラエは逆向きに刺さった三角錐の頭、その稜線を撫でつけながら苦笑した。

 親子の名付けセンスのなさは村おさも知るところである。チハヤが産まれた時など、ヤライはその壊滅的なダサさの為に産褥さんじょくの妻から呼吸困難に陥るほど笑い転げられ、父であるトウヤにまで床を叩いて大笑され、弱り果てた末に父と妻へ命名を丸投げしたほどだ。残念ながら、息子はその辺りの感覚も丸ごと父親に似ている。恐らく一昼夜考えても、所謂世間受けするような名前が彼の中から捻り出されることは無いだろう。

 ならば、名付け親となれるのは最早一しかいないわけで。


「龍の仔、お前はなんて呼ばれたい?」


 チハヤは、迷うことなく名付けるべき仔龍に投げた。

 そして仔龍は、一瞬も迷わなかった。


「ちまきー!」


 一瞬、訳が分からず皆が硬直し。

 イバラエが思いっきり噴き出しながら背中から崩れたのと、チハヤが笑い声を堪えた拍子に横へ倒れたのと、神龍にまで伝染うつってしまった絶望的な命名センスにヤライが悲鳴を上げたのは、ほぼ同時のことである。



 ――地神龍フラクシナスの、ちまき。


「……ぶファッ、ブッ、ふ、ひ、ぶははははははっ!! なんっ、何じゃそりゃ! ひぃ、ィひひひひひひっ!」

「俺のせいじゃねぇもん!」

「わかっ、分かって……ぶッフゥ! ぅひぃ、ぃひははは、ひーっひっひっひ……」


 イバラエ以下、命名に立ち会った者からの報告を受けたトウヤは、まず同じように呵々大笑して腹を捩った。当の仔龍ちまきはと言えば、自分の名前がおかしくて笑われていることには気付いていないらしい。何か面白いことがあったのだろう、と言いたげに首を傾げながら、大人しく老爺が笑い終わるのを待っている。

 鍛え上げられた狩人の肺活量は中々のもの。たっぷり三十秒も頭を抱えながら笑声を上げ続け、遂に限界を迎えた腹筋を押さえながら更に笑い、どちらも力尽きたところでようやく息継ぎ一回。何度か息を整えて、トウヤはやや真面目な空気を作って話し出す。


「あー……まあ、本龍ほんにんが決めたもんだ。あざなはそれで良いんじゃねェのかね。ただいみなは別で決めとけ、公的な手続きのときにちまきはマズいぞ。面白すぎる」

「分かってる、分かってるんだけど、爺ちゃん。察して」

「おめェら、その辺途轍もねェもんな」


 また一笑。かつて妻を笑い死にさせかけた時のことを思い出しているのだろうか。確証はないが何となくそんな気がして、ヤライはやってしまったとばかりに頭を抱え、龍の仔が蒸し餅ちまきになる遠因を作ってしまったイバラエも苦笑いを隠せない。

 くつくつと笑声を噛み殺しながら、尻尾をふりふりするちまきを前脚の下から抱き上げる。じっと龍の顔を見つめれば、龍もトウヤの古びた地球儀頭をじっと見た。

 右だけが星を映したようにきらきらと煌めく、翡翠色の瞳。


「チガヤ」

「ぎゅ?」

「千のひるの矢で、千畫矢チガヤ。千のあかりを飛ぶ矢のように、どこまでも遠く見通す者。俺からはこの名前をやる。……チハヤと大分被るが、変えた方がええかこりゃァ?」

「ぅうーっ! うー!」


 ブンブンブン、と激しく首を横に振ってちまきはトウヤの不安を否定する。それじゃあこの名前でいいか、と念押しすれば、ブンブンブンと今度は縦に。二人して念を押すように頷きあって、トウヤは改めてちまきのいみなを口にした。


「千の晝の矢、おめェはチガヤだ」

「ちがや……チガヤ!」

「おう。この名前はお前の真名まな、偉い人だの凄い人に名乗るための大事な名前だ。失くしたり変なのに握られたりすんじゃァねェぞ」

「んぎゅーぅ!」


 右の前脚をしゅたっと挙げてちまきは了承の意を示し、トウヤは鷹揚に点頭。

 果たしてトウヤによる命名の儀はつつがなく終了し、チハヤは自分の膝に戻ってきたちまきを抱き留める。そのまま抱っこして背を撫でる孫に、祖父は何の気なしに致命の一撃をぶち当てた。


「チハヤ、おめェ俺が付けんかったらなんて付ける気だったんでェ」

「…………」


 ぴしゃぁん、と雷が落ちる幻聴を、チハヤとヤライは同時に聞いた気がした。

 汚点である。黒歴史である。出来れば一生触れられたくなかった。神龍に、まさかこの村の守護龍に、ああも安直で願いの欠片もない名前を付けたなどと!


砂鱗サリン……」

「ん? 別に悪い名前――、っぶフゥ!」


 砂っぽい色と質感の鱗だから、サリン。

 その意に気付いたトウヤは、当然の如く腹が捩れるまで笑ったのだった。

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