二十六:忘れ神
「――、――、――……――――、――……」
仮面のような無表情を貼り付け、開きっぱなしの瞳孔は此処ならぬ虚ろを覗いたまま帰ってこず、体温は下がり切って氷のよう。半開きの唇からは祈りとも呪詛とも取れぬものを垂れ流して止まらず、チハヤの拘束が外れ自由になった手は、彼が元から着けていた護身の腕輪の飾りをなぞり続けている。
――取り憑かれている、と言う表現は、まさしく今の彼に相応しきものであろう。
間違いなく、サレキはその
庭に面したテラスの一角、作業用の椅子に座らされた少年の周りを、彼らは
「ぇ〜ん絶対良くないよぉ離れようよぉ、わっちこんな瘴気もんやもんやのサレキやだぁあ〜」
「だめー、がーまーんー」
サレキの最も近く、もとい左右の膝の上を陣取るのは、それぞれ
肝心の彼女は、飼い主が何かおぞましいものに憑かれ、あまつさえその傍に留め置かれているこの状況が嫌なようだ。半泣きで尻尾を太腿に叩きつけては、隣で様子を見守るちまきに諌められていた。
「忘れ神とか言ったか。狂気に堕ちた神の祝福とは全く、
「治るよね? ねえー治るよねぇー!?」
「我輩は呪いを焼き切ることは出来ても穏便に解くことは出来ぬよ」
「ひどいー!
しみじみと友の不運を嘆くは老いた
その隣には黙して語らぬ
「シオン〜ミズタエ〜〜、どうにかしてよぉお」
「…………」
「やだぁー黙らないでぇ! 怖いー!」
「お黙り。ワタシ達だって集中してるの」
「だっでぇ〜ミズダエ゛ェ〜〜〜!」
びすびすと泣きじゃくり始めるテイカに対して、ミズタエは困ったように尻尾の先をぱたぱた。返す言葉を選んでいる内に、サレキの手がのそりと持ち上がり、優しくテイカの頭に載せられた。
そのまま喉元に降り、鱗を逆立てるように親指が首を逆撫でる。しかして、それに雷竜が安心感を覚えたのも束の間。ぞわ、と悪寒が背から翼に走り、隣に居た地龍と共に、幼竜達は揃って少年の膝の上から飛び降りた。
一斉に響く竜と獣の唸り声。庇うように、騎竜たちの中で一番歳上の竜種たるラウレアが前に出て、鋭い牙の隙間から焔を零しながら威嚇する。
〈天にまします我らが主よ。御名が聖とされるように。主の御国の
〈天にまします我らが主よ。御名が聖とされるように。主の御国の来臨ように。主の慈悲が天に行われる通り、地にも行われるように。我等への日ごとの愛を今日も授け賜え。我等の罪を恩赦せしめんことを。我等は人を裁かじ。我等は主の如く人を愛し、主の如く人に恩赦せしめん。我等を忘却に陥らせず、忍び寄る悪、ひたあゆむ疫癘から救い賜え〉
〈天にまします我らが主よ。御名が聖とされるように。主の御国の来臨ように。主の慈悲が天に行われる通り、地にも行われるように。我等への日ごとの愛を今日も授け賜え。我等の罪を恩赦せしめんことを。我等は人を裁かじ。我等は主の如く人を愛し〉
〈人を愛し、
〈人を愛し、
〈愛し、
〈愛し、
〈愛し、
〈愛し、
〈愛、
〈愛、
〈愛、
「あ」
それがある種の聖句であったなどと、気付けたものは誰もいなかった。
震撼するほどの
「ぁ、ゔ……っ」
生命に支障を来す量の霊気を抜かれ、サレキが糸を切られたが如く倒れた。
「サレキ!? やだ、サレキ、サレキッ!」
「
「だってサレキが! やだっ、放してよぉっ!」
「御主が近づいたところで要らぬ厄災が増えるだけだ! 騒ぐのは彼奴を討ち果たした後にせい!」
悲鳴を上げ、走り寄ろうとした雷竜を前脚で抑えつける火竜、その前へ更に踊り出るは長毛の猫に何某かの竜を足したような純白の幻獣と、狼と狐を掛け合わせたような漆黒の幻獣。どちらも
不味い。これに何かをさせてはならない。この場にいたもの全てにそう思わせる、特大にして絶対的な異様さに突き動かされ、敏捷に長ける幻獣達が、術を編む咆哮と共に飛びかかった。然れども、実体のない、それでいて強固に引き合う霊気の凝りは、いくら掻いて噛み付いても散ることなし。より強い力で吹き飛ばせばいいのかもしれないが、そんな権能を扱えるものなど此処には一柱しかいない。そして、そのものがこれを何とか出来るような術を編もうものなら、チハヤの家どころか村が更地になってしまう。
故に、騎獣達は二撃打ち込んだところで不利を悟って身を引き、騎竜達はそれぞれの
そうして、降臨は遂に成る。
「天にまします我等が主よ、我等を救い賜え」
七枚の白い翼、痩せて骨ばった男の手と素足、ひょろりと縦に長い男の体躯。身に巻きつけたるはぞろりとした古めかしい白布、頭に被って顔を隠すは同じく白い
そこまでは、人間達が垣間見て竜達と共有した忘れ神の情報と同じ。そこから更に異なる点があるとすれば、消えかかりながらも確かに浮かぶ頭上の光輪と、ベールの奥で憂えたような表情を浮かべる男の顔を見ても、誰もそれに魅入られぬこと。
信仰を得て目覚めた忘れられしもの。
或いは、狂気に陥った旧き時代の神。
この場の誰もがその
誰もが忘れ神の威容に立ち竦む中、更に
今や全長八
〈灰に、――還れェッ!〉
構える暇も与えず放たれる竜の息吹。彼が
恐るべき霊威の込められた業火が、一帯の空気を燃やし尽くす低い音声と共に激しく渦を巻く。過日チハヤとカザハネが仕留めた花の魔竜、あの程度であれば一息で
それは、今この場にいる者どもが出しうる、最も精妙にして最強の攻撃術。此処に竜種と龍は数おれど、家にもたらす被害を最小に留めながら、尚且つ火力を出せるとすれば、それは栄える火を操るこも老竜の一撃に他ならない。
裏を返せば、彼の一撃で滅び去らぬ者が前に立つならば、それは最早この乗騎達にとって如何ともし難い敵であることと同値だが――
どうにも、手応えがない。
確かに衣へ延焼し、背に伸びる翼にまで火の手が及んだように見えるのに、激しくはためく覆い布の奥の表情には、痛痒はおろかそれらしい感情表現の一つもない。不審げに目を細めながら、更に呼気を吹き込んで火勢を上げても、鉄が融けるほどの熱量に巻かれた忘れ神は無表情のまま。
それどころか、それは細く口を開いて呟く。
〈還り賜え〉
何処の誰に向けた嘆願かも分からない、しかし確かに聖句と分かる響きを帯びた一言。
それだけで。
焔が、初めから無かったように掻き消えた。
木床の広がるテラスこそ焼け焦げども、薪の如く痩せ細った身体も、幾重にも重ねられた衣にも、火傷や熱傷の跡などまるでなし。床から上がる火の手と、それによって起こる上昇気流に乗せて、柔らかな翼と服の裾を揺らすばかりだ。
「……!」
「天にまします我等が主よ、我等を救い賜え……」
山の火が、通用しない。
字面では単純な現象に思えるそれが、何の神のどのような権能によるものか、目の前で見たラウレアにすらさっぱり分からなかった。
この場で出せる何よりも強力な竜の息吹が通用しないと言うことは、即ち尋常な手段でこれを斃すことは出来ない。ただ一撃でそう悟り、傍に控えていた騎獣と共に、騎竜達を庇うように前線へ出ていた火竜は、一気に庭まで飛び退る。
同時に、今までラウレアが四肢を突き立ちはだかっていたテラスの床を突き破り、透き通った水晶の槍が虚空を切り裂いて陽光を照り返した。
槍の威力自体は、人にとっては脅威であろうか。しかし初速は遅く数も少なく、人間より遥かに五感六感と防御に優れた竜にとってみれば大したものではない。しかし、目の前のものが無詠唱で術を操ってみせたことに、火竜は強い戦慄を抱く。
聖句とは、ある存在からより上位の存在に対して行われる交信、ないし呼びかけのための言葉だ。それが上位存在に聞こえなければ、力を貸そうにも貸すことは出来ず、術は発動しない。故に、聖句は短くすることは出来ても取り去ることは出来ない。
しかしながら、事実としてかの忘れ神は、何の呼びかけも宣言もなしに槍を生やしてみせた。
これ即ち――
「地の仔よ、彼奴は本当に忘れ神か?」
「ん~? んー」
「何だその曖昧な返事は。はっきり言わぬか」
彼はまだ神で、自分自身の権能を操っている。
しかし、忘れ神は人から完全に忘れ去られ、格をすり減らした成れ果て。仮に彼の仕えたと言う旧い神の加護を得ていたとしても、その神が隠れてしまったのだから使えないはずだ。最早神でも何でもないものが、何故その如く権能を操っているのか。
尽きぬ疑問に出ない答え。切羽詰まったラウレアは、バッと思いついたように首を巡らせて背後を振り返り、
「ぜーんぶわすれてなーい、ほしがみさまはも〜っとながいき! おぼえて〜る」
「星神……異界の大精霊? あれのことを覚えているのか? ならば何故あのようなことに」
「どっかいったー」
「何が?」
「まえのぬしさまー。まえのぬしさまあたまくるくるぱー、おそらにどーん」
ひどく緊張感のない声で語るちまきは、どーん、の一声と同時に、逞しくなりはじめた前脚を上げて棹立ちになる。
そう言えば渡し守も同じことを言っていた、とラウレアは素早く記憶を掘り返した。曰く、玉龍山が
だが、それを知ったところで、火竜には如何ともし難い。己が持つ最大威力の攻撃、呪いを焼き切る焔はまるで通用せず、そして自分が思い切り燃やしたせいで、恐らくは明確に敵対視されてしまった。かのものの攻撃がいかほどの威力を持つかはまだ測りきれていないものの、無詠唱で術を行使できる時点で、あちら側が圧倒的優位に立っている。状況は限りなく絶望的だ。
隠せない焦燥に喉の奥で唸るラウレア。その足元に、ちまきはゆっくりと歩み寄る。その歩調はいっそ呑気にも思えるほどゆったりとして、テラスに居座るものの危険度などまるで意に介さぬようだ。危ないから下がれ、と半ば怒声に近い声を張り上げながら下を見た火竜は、
「……っ」
地龍が放つ威圧の大きさに思わず硬直した。
あどけない姿と物言いにふと忘れそうになるが、ちまきは
それでも声が絞り出せたのは、百戦錬磨の老竜の類い稀な精神力故だろう。
「地の仔、御主――何を引き留めておる」
「いーろいろー」
「はぐらかすな」
「うるちゃい」
突っぱねられてしまった。口調こそ冗談めかしているが、先程からちまきの視線は忘れ神に固定されて一瞥もなく、空を飛ぶための筋力を備え出した翼は目一杯横に広げられて、小さな体に秘めた神格をこれでもかと言わんばかりに忘れ神へ叩きつけている。一方の忘れ神も、睨まれていることに気がついたらしい。正気の失せた碧眼を仔龍へ向け、やにわに悲しげな顔をしたかと思うと、ふらふらと覚束ない足取りでその元まで歩み寄ろうとしてきた。
半開きの、色のない唇が、微かに哀願を呻く。
「主よ、主よ、還して、還してください」
「まだだめ。がーまーんー」
「どうして……主よ、御救い下さい……」
「かえして、じゃなきゃだめ。ひとりでかえるの。つれてっちゃだめ」
「それは、寂しい、寂しゅうございます……」
「うぎゃーぅっ! だーめーなーのー!」
これは、対話、なのか。
眉尻を下げた忘れ神の顔をしかと見据え、ちまきは駄々を捏ねる子供のような口調で否定を投げつけるばかり。不思議なことに、出来ないとけんもほろろに言われながらも、かの者は怒り狂いもしなければ立ち去ろうともしない。ただただ、主の元に還してくれと願いながら、その場でおいおいと泣くばかりである。
遂には膝をつき、両手で顔を覆い始める忘れ神。その傍に臆することなく歩み寄り、仔龍は子供のように泣きじゃくる男の額へ、そっと己の鼻面を当てて囁いた。
「おともだちなろ。いっしょにいよ」
「主よ……御救いを、御救いを……」
「いちどおそらにかえしてあげるから。またきて。そしたらおともだちなってあげる」
ね、と。にっこり笑って尻尾をぱたぱた上下させる仔龍に、しかし忘れ神はちらりとも視線を向けず、ただ愚図愚図と泣き崩れては、ぶつぶつとか細い声で何事か呻いている。
色の良くない態度に、今まで呑気に構えていたちまきも流石に思案顔。
「嫌だ、嫌だ……独りは嫌だ……寂しい、寂しい――寂しいのは嫌です。連れて逝く……連れて還りたいんです。還りたい……御救い下さい……」
自身が祝福を送った青年への、執着であり。
ぞっと、幼いながらに寒気を覚えた龍が半歩分ほど後退るのを待たずに、伏せがちだった男の青い双眸が、ぎょろりと見開かれ己の背後を向いた。
「だれだ」
姿は見えぬ。しかし誰かがそこにはいる。
忘れ神はそれを逃さず、そして見られている彼等もまた、かの者を此処で取り逃がす気は毛頭ない。
〈其は御使いの長
〈六翼を挙げ 民草に憐憫の杖垂れるべし〉
「ぁ……」
口々に。さざめくように。無数の声が遠く近く、白日の元に佇む彼等を取り囲む。
ぎろと剥いた蒼穹の眼に映るは、昼には姿を隠すはずの
そんな、夜と月の眷属達が、見えるだけでも数十数百。見えぬように、気取られぬようにと姿を見せぬすだまを含めたならば、その数は数千に届くやもしれぬ。
集い来たる無数の上位存在達が口を揃えて吟じるのは、
当然ながら、力量の及ぶ範囲ならば、それが忘れられた神の祝福であろうと関係ない。
〈刮目せよ 濁り
「止めろ、持って行くな」
そして。
これほどの上位存在が一堂に会し、意志と言葉を束ねて同じ聖句を使っている今、この術は神の加護をも解く威力を秘めている。
〈其に打つは死疫
「嫌だ、取り上げないで、連れて行かないでくれ」
〈目にも見よ
〈耳に聞ゆか
「違う、違うッ! そんなことはしていないッ!」
〈是饒舌の口に騙る 虚偽の嘆き 還らずと喚く他力の願い〉
〈是狂瀾の身が語る 還り咲く主への怨嗟 淋しきと哀れむ諦観の殻〉
「やめ……だって、だって、此処には誰も――」
苛烈さを帯びた聖句が忘れ神の身を抉り、それは覆い布を被って聞かないようにしながら、よろよろと術者を探して踵を返す。しかし、ちまきが咄嗟に衣の裾を咥えて引っ張ったことで、力無い歩みは呆気なく崩れて木床に倒れ込んだ。
それでも、進む。仔龍が離さぬならばそれごと引き摺るまでと、手の爪が欠けて割れるのも構わず、床の上を這いずってその方へと向かう。ちまきの方も全力で四肢を突っ張り、地を操る権能を行使し自重を増やしてまで抵抗するものの、最早捨てるものもない忘れ神を留めるに至らない。ずるずると床に跡を残しながら、少しずつ引っ張られてしまう。
〈蛇の牙に掛けては解け かれは
「ゔうぅう〜っ……は〜や〜くぅ〜……っ」
尻尾を巻き付けて耐えていたテラスの柵がへし折れ、自力で支えざるを得なくなったちまきが、珍しく焦燥を交えて呻いた。
いくら偉大なる玉龍山の守護神から分かたれた身とは言え、生後三月の幼い身では操れる権能も限りがある。ある一点に於いてはその限りでないが、それはそれで繊細な制御が効かず全力を放つしか出来ない。
ならば、龍の身一つで堪えるしかない。人と同程度ほどまで弱体化したラウレアも加え、男の衣やら足首やらに噛み付いて、遠くテラスの入り口に立つ術者から遠ざける。
〈
「地の仔、このまま燃やしてはいかんのか……っ」
「ゔぐるるるぅ……おにわこげこげ……」
「この際庭の犠牲は目を瞑らぬか?」
「サレキこげこげ……!」
「……耐えるか……」
〈我等癒しの秘儀を幼子に賜わん 今はただ眠れ 永久如長く穏やかにあれかしと〉
〈打つ
後少し。
もう少し。
期待と共に龍の噛む力が強まる。
絶望と共に神の絶叫が響き渡る。
「嫌だァァァァァああああああああああ――ッ!!」
裂帛と喩えるも生温い喚声一つ。
最早辛抱ならぬとばかり、忘れ神は衣を乱暴に引き千切り、火竜を蹴り飛ばして立ち上がった。おぞましいと称すべきほどの
忘れ神は、元はと言えば火山が冷え固まった後を託される死と石の神霊。死して横たわる死火山を巡り、灰に埋もれ死んだ獣を看取り、岩に打たれ砕けた草木を拾い上げ、その魂を導く者だった。そんな彼が操るは、
だがそれも、己が無理に祝福を贈り、その
〈――“
テラスの入口、無数のすだまが集う
その声が朗々と聖句を結び、遂にその嘆願は聞き届けられた。
「は……っ!」
まずは、ばきりと。
朽ちた鎖が割れ落ちるような音が忘れ神の動きを止め。
「
縁が切れた。
そのことに気付き、きろりと目を剥き睨んだ神の視線の先で、白き幻獣がサレキを攫い隠れ。
「この、
恨みに毒を帯びた忘れ神の声を、その喉笛ごと、過たず矢が貫いた。
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