二十七:対価

 “矢”の一族は往々にして武芸に秀でた者が多い。それは並外れた剛射の使い手たるトウヤと、常識外れの遠弓を得意とするヤライからして察せられることだろう。

 しかしながら、大抵の者は特化した技能の持ち主であって、トウヤは的の中央に連続で弓を当てられないし、ヤライがおおゆみを一人で引いて飛蛇竜ワイバーンを撃ち落とすこともない。やってやれないことはないが、精度も威力も大幅に落ちてしまうことは請け合いである。

 それはチハヤも然り。弓の名手二人トウヤとヤライに教えを戴き、術の名手ロクシャ上位存在ともだちとの付き合い方を教わり、神々に物質的・霊的な素養の多くを叩き込まれたとは言え、膂力は――器族の水準からすれば――平均的であるし、隠形おんぎょうはまだまだ修行中の身で、矢を放てばどうしても気配が乗る。

 故に、チハヤは敢えてナナハシや龍達に苦労を背負いこんでもらう他になかった。


「も、二度とっ、っな、こと……っ、やらな、っ、恨む、絶対恨むよ、ほんと……っ!」

「ごめんってナナハシ! 後で何でもする!」


 霊力切れで脚はがくがく、顔は真っ青で息は切れ切れ。川にでも飛び込んだのかと錯覚するほど全身を汗まみれにしながら、恨み節を吐き出して何とか意識を保つのは、神の加護を解く偉業を成し遂げたナナハシ。そしてそんな彼に声を掛けながら、庭の隅に設えられた氷室ひむろの屋根から飛び降りるのは、いつもの細身で取り回しのよい形態の朧満天星おぼろどうだんを携えたチハヤ。

 およそ三ようの高さから危なげなく着地し、銀弓に白羽の矢をつがえながら、狩人は未だ斃れずに喘ぐ忘れ神を睨む。突き立つような視線の先、七翼をだらりと垂らして膝をつく忘れ神は、ひゅうひゅうと隙間風のような音を漏らしながら喉を掻きむしっていた。

 人間のものと同じ、どろどろと赤い血が傷口から溢れ、木の床に滴り落ちる。その血が触れた所は見る間に固まり、温度としなやかさを失っては、血のように赤黒い柘榴石ざくろいしへと変じた。


「あか……あ、あが……っぎ……!」

「嗚呼馬鹿、引っこ抜きやがった。そんなのあんたが辛いだけだろ」


 渾身の力を振り絞り、忘れ神のやせ細った手が矢を引き抜く。当然、抑えを失った血が見る間に指の隙間から流れ、男の身に巻きつけられた白い装束にぼたぼたと垂れては石に変じて、喉から肺腑にまで落ち込み内側なかから神の身を苛んだ。

 最後っ屁とばかり権能を操ろうにも、最早余力はない。忘れ神の強大なる所以は、縁――もっと言えば、ある種の信仰を持つ者より供給、ないしは搾取される霊気マナ――に大きく依存しているためであり、それが切れてしまった今、忘れ神は本当に神格をすり減らしたその残骸。それ以上の何ものでもなかった。

 故に残された選択肢は、命尽きるまで苦しむことだけ。最早武器を取るほどの脅威ではなくなったことを察し、弓矢を腰鞄に収めたチハヤは、もがく忘れ神を遠巻きにしてそっとテラスの縁に立った。

 その隣に、また別の人影が近づく。


「チハヤさん!」

「チハヤ、呼べるだけ呼んだけどどうだった?」


 一人は、チハヤに比べやや年下の青年。男にしては長い黒髪をうなじの後ろで一つにまとめ、鮮やかな薊色あざみいろの瞳の上に掛かるほど前髪を伸ばして、影に潜むような黒づくめの格好に身を包んでいる。首には相棒の天雄龍アカニトゥムが、防寒具マフラーよろしく緩いとぐろを巻き、でろりと翼を垂らして休憩中。

 もう一人は、チハヤと同じかそれよりも少し年上に見える女性。長い茶髪を丁寧に結い、意志の強さを感じさせる白銀の双眸を今ばかりは不安に揺らし、着ているのは山の中でも動きやすく乙女のお洒落心も垣間見える刺繍の入った軽装。そして、彼女の左右にはそれぞれ、綺麗なおすわりの体勢で侍る黒き幻獣と、ぐったりした青年を背に載せた白い幻獣の姿。

 それぞれジャノメとロウカである。それ以外の修士生は、まだ此処には来ていないがその内来るのだろう。チハヤは事情説明のための言葉を選びながら、表向きは平然として声を返した。


「ありがとな、二人とも。あんな間に合わせの作戦に付き合ってくれてさ。助かったよ」


 そう。ナナハシを呼びに行くとき、チハヤはジャノメとロウカの元へ寄って事情を話し、協力の手筈を取りつけていた。

 即ち、彼女らが持つ夜神月神の権能を以って有りっ丈の眷属を掻き集めることと、少しでも時間稼ぎをすること。そして加護を切られた後のサレキの回収。もう一つあるが、それは今からの話だ。

 元はと言えば、チハヤが調伏に賛同したが故に今の状況が生まれたのだから、修士生に頼らず一人で何とか出来るに越したことはなかった。しかし、神頼みの戦略の要となる惹霊香じゃくれいこうは使い切って今日作ったばかり、その上チハヤ自身は月神にまつわる加護を持っていない――正確に言えば持っているのだが、権能の引き出し方が分からない――ともなれば、頼れるのは実際に加護を受け、権能を操れる人間の力しかなかったのだ。

 無茶な強行軍に付き合わせて申し訳ない。そう深々と腰を折る器族に対して、人間二人はとんでもないと首を振る。


「無茶に付き合わせたのは私達の方よ。幕引きまで任せてしまって……」

「カザハネ先輩がやる手筈だったのに、結局全部チハヤさんに頼りきりになってしまいました。本当、申し訳ないです」

「ほんとだよ、元は変なとこに入り込もうとしたせいだからな。補償は後で考えるとして」


 今はこっちを片付けるのが先決。

 決然と言い放ち、チハヤが意識を向ける先は、傷口を両手で押さえてうずくまる御使いの男。その呼吸は次第に弱まり、後もう一息で完全に絶息せしめんとするところである。首を断つなり心の臓を貫くなり、とかく人と同じ急所に一撃入れれば、彼はこの世の軛から放たれるだろう。

 だが、この場の誰も、これ以上忘れ神の身に傷を付ける気はなかった。そんなことをして彼を輪廻に還したとしても、この世に残した禍根と未練は消え去りはしない。それでは何の解決にもならぬし、何よりちまきが半ば一方的に彼を友達認定している。友達が未練たらたらで生まれ変わるなど、仔龍が許してもチハヤは許せなかった。

 故に、人間どもはまだ休めない。


「ジャノメ、出来る?」

「多分、いえ確かに。……シオン」


 相棒の呼びかけには、ぐるる、と小さな唸り声のみ。するりと紐が解けるように地へ降り立ったシオンは、その場で弱体化ウィークニングの権能を緩め、一瞬にして十ようほどに巨大化する。

 蛇の如く細長い胴をくねらせ、龍が形作るのは、チハヤらを囲む円陣。神の座を持つ龍の身体、その内に孕む莫大な量の霊力が、作られた真円の内に収束した。

 その力が最高潮に達した時、神なる龍が包み込む円陣の内は、チハヤの技量では作り得ぬ真なる神の域と化すのだ。

 ざわり。ざわり。上位存在かみがみを見得る目なき器族にも分かるほど、辺りの空気が騒めき揺れる。そのさざめきに軽く声を掛け、何が来たのかとチハヤが問えば、姿を現したのは銀の燭台を手にした小柄な幼女――もとい、夜灯妖精セントエルモ。平素の若葉を纏ったような薄絹ではなく、白く長い衣を着て宝冠を乗せている様に、チハヤはこれから起こることの常ならぬを知る。

 しかしてまだ始まらない。どんどん上位存在の気配が濃くなる中で、チハヤは隣についた妖精の背に合わせて背を屈めた。


「それ、神様の喪服か何かか?」


――そうとも言うのかしら。

――わたしたち、夜の宮まで神さまをお連れするときの目印になるの。

――女神さまからいただいた一張羅いっちょうら、似合う?


「嗚呼、勿論。夜灯なら何着ても似合うよ」


――お上手、千の矢ったら。

――いいわ、いいわ。あなたの口説き文句に免じて貢ぎ物は月の欠片だけにしてあげる。

――次の満月の時に出しておいてね。絶対よ?


「分かってるよ。ついでだから雪木犀ゆきもくせいの酒も持っていきな、女神様確か好きだったろ」

「……ねえチハヤ、何話してるの?」


 わあきゃあと喜ぶ妖精を遮るように、怪訝そうな顔をしたロウカの声がチハヤに投げつけられた。自分との会話を邪魔されたのが気に食わないのか、地球儀の緯度尺を掴んでぷんすかと頬を膨らませる妖精を宥めつつ、チハヤはひょいと肩を竦める。


「神様の葬式代の話」

「何よそれ」

霊力オドの代わりに支払うものを決めてるんだよ。今回は月の女神様が力を貸してくれるから、女神様が好きそうなものを貢ぎ物にするって約束」


 へぇ、と感心の声を一つ。

 人間でも、霊力オドの代わりに物品を対価として術を行使する流派がないわけではない。だが、それは霊力欠乏、ないしは霊力の操作力不足で生活に支障をきたしている幼子のために融通されたものであって、その全ては至極単純な物々交換と、精々かまどの火種にもならぬ極小の術の行使に留まる。彼のように、今から神術を行使するような者が使うような方式ではない。

 しかし彼はそれを可能にする。あの洞窟での一幕もそうだが、チハヤは傍目に見れば明らかに釣り合わない対価を以って上位存在に願い事をし、そして聞き届けられているのだ。

 それを可能にするほどの対価とは?


「そう言えば、雪木犀のお酒とか何とか言ってたわね。私、お酒を捧げ物にしてる教会は見たことないんだけど……」

「こだわりが激しいんだよ、神様って。自家製のもの以外基本的に捧げ物としては認めてくれないし、初物じゃないと上位の術は使わせてくれないし」


――当たり前じゃない、手作りの初物が一番美味しいんだもの。酒蔵の精霊なんか、熟成の途中で我慢出来ずに盗み飲みするくらいよ。

――ま、玉龍山の恵みのお酒はいつでも美味しいのだけれど。平地はその辺駄目ね。


「だってさ。山限定らしいよ」

「地の利を盾に取られたら何にも言えない……人も物々交換で術が使えるようになればいいのにね。そうなれば霊力オドの量だの加護の多さだので虐められることもないのに」


――人間は数が多いんだから強い人と弱い人で護りあって生きていなさい。器族は数が少なくて護りあうのが難しいから手を貸すの。

――それに、器族がくれるものは質がよいのよ、質が。豪奢なだけですぐに壊れる冠を贈られるよりずっといいわ。


 眉尻を下げるロウカへは、べぇと精一杯意地悪そうに舌を出し。その微笑ましさに思わず笑声を零した器族の頭、真鍮の輝きも鮮やかな緯度尺をぐいと引っ張って思い切り後ろに引き倒し、夜灯妖精セントエルモは長い衣の裾を翻して二人の許を離れてゆく。一方でチハヤは、尻餅を突いた拍子に木床のささくれで強か尻を突き刺し、声にもならぬ悲鳴を上げながら大慌てで立ち上がった。

 そこに、丁度よくちまきとラウレアが歩み寄ってくる。より正確に言えば、やや弱体化を緩めたラウレアの頭の上に仔龍が乗って楽をしている格好だ。かと思えば火竜の大きな頭が肩のそばに付けられ、炎で磨いたようにつるりとした鱗を滑り台代わりにして、地龍が飼い主腕の中に落ちてくる。

 戦闘中に威圧を使って疲れたのか、大きな欠伸と共に滑ってきた仔龍を片腕で抱き留め、もう片方の腕には労いを込めて、チハヤは老竜の喉元を優しく撫でた。くるる、と猫が喉を鳴らすような音を立て、気持ち良さそうに翼を軽く震わせる老竜の、少しく細められた橙色の目を見上げて、狩人は声をかける。


「ちまきから聞いたけど、随分無茶なこともしてくれたんだってな。ほんと、ありがとう」

「構わぬよ。我が朋友とその友を危難に晒さぬ為と思えば、老骨の一本や二本折っても痛くはない。ところで、我が朋友らは課題を終えられたかね?」

「いやあ……」


 心配そうな声音で問う老竜に、チハヤの返答は色良いものにはなり得なかった。

 もしも修士生かれらが全員神の葬儀に出ると言うならば、恐らくは夜まで掛かっても課題は終わらないだろう。一応、庭でやっていることに関わる必要はない、課題を終わらせることに注力すべしと忠告はしたものの、どうやら忘れ神が降臨した後からの状況は騎竜を通して駄々漏れになっているらしい。

 戦闘中は忘れ神に魅入られるやもしれからぬと自重したようだが、嵐が去った今、ルッツにこき使われているであろうカザハネと、ラウレアの主であるアカラが来ないはずもなく。


「せ、先輩。確かに気になりますが、私達はまず先に課題を済ませた方が良いと思います……」

「うるせぇッ! 俺ァ一人で地図全部書いてやったんだぞ、文章くらいおめーらで書きやがれ! もー知らん勝手にする!」

「チハヤさんもあまり関わるなと」

「知るかーっ!」


 案の定、おろおろする赤目の男――アカラをまるで鞄か何かの如く小脇に抱え、カザハネが家の勝手口より飛び出してくる。ルッツは留守番に徹するつもりか、二人が出てきた後から更に誰かが来る気配はない。

 横目に見ていれば、器族の方はずかずかと一直線にチハヤ達の元を目指し、旧霊人フェイの方は早々に説得を諦めて抱えられるがまま近づいてくる。その距離を詰める内、弱体化を緩めたミズタエが背にテイカを乗せて飛び寄り、そのまま主の肩にしがみ付いた。


「重ェよ」

「ですって。テイカ、そろそろ降りて」

「ゔぅー……」


 促されて渋々雷竜が離れ、水龍は身を縮めてカザハネの右肩に収まり。カザハネとアカラが揃ってシオンの身体を跨ぎ越し、息苦しくなるほどの強力な精霊の井戸端スピリットリンクに、修士生が全員揃うこととなった。

 神々はそれを待っていたのか、否か。

 ざわめく声の大きさが増し、かと思えば、先程の白衣を纏った夜灯妖精セントエルモが、何やらお付きの者らしい別の妖精を引き連れて姿を現した。ぱたぱたと大水青オオミズアオの翅を羽ばたかせ、人族どもの前をぐるりと一周。幻獣を控えさせたロウカの前で滞空すると、お付きの妖精が手にしていた銀の三方さんぼうから、何やら薬包のようなものを一つ手にして差し出してくる。


――はいこれ、葬送香おくりこう

――後で火を回すから、その時にくべてね。


「おくり……香? お作法はあるかしら?」


――特に決まってないわ。真剣にやるだけ。

――太陽神様の御許みもとまで辿り着けるように、せめて祈って差し上げて。


「ん、分かったわ。……ところで野暮なことを聞くんだけど、どのくらいで終わりそう? まだ宿題が終わってないのよ、実は」


――ほんとに野暮ね! もぉ、仕方ない子。

――そうね、きっと半石刻しゃっこくも掛からないでしょう。だから安心してわたしの晴れ舞台を見てるといいわ!


 それじゃあ、と手を振り振り、ふわふわの触角もゆらゆらさせて飛び去る妖精を見送り、器用にも六角形に折り畳まれた薬包紙を上着のポケットに差し入れて、ロウカの視線は場の中心にある忘れ神へ。

 息絶えてしまったのかそれとも辛うじて生を繋ぎとめているのか、妖精達に傷口を清められ布を巻かれる身体に力はなく、衣から見える肌はひどく青ざめている。生きていれば葬儀の準備になど抵抗したであろうから、恐らくもう生きてはいまい。

 その死は果たして安らかであれただろうか。狩人の矢は先手必殺、苦しむ意識を初手で刈り取る慈悲の一撃であるが、それはこの哀れな神にも通じただろうか。神ならぬ女がいくら考えたとて、その答えは出ることもない。それでも考えずにはいられないのが、平原でぬくぬくと暮らす人間の身勝手さエゴと言うものだった。


 しばらくして、死せる神より妖精達が離れ。

 遠く遠く、空の果てまでも届く鈴の音と共に、葬送の儀は初まる。

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