二十八:神葬後始末
――時は汝の
――しかし今、汝は此処に全ての悲嘆、狂気、執着を生と共に捨て去り、汝が
――汝の死出は集い来たる五百の霊、五の人、数えなき多くの小さきものが此処に示す。汝は孤にあらず独にあらず、一心の祝福と祈りは汝が歩むに相応しき道を
――今は安く眠り賜え。汝が受け容れ、我等導きの手を取らんことを。
神の葬儀は静々と、ひそやかに執り行われた。
白い衣を纏って顔を隠した角付きの上位存在が静かに弔いの詩句を述べ、詩句の終わりに鳴らされる鈴の音に合わせて短く黙祷。それを三柱の上位存在でそれぞれ言葉や所作を変えて行い、その度にチハヤとちまきは、至極真剣に忘れ神の冥福を祈った。
左の掌を胸の上に当て、僅かに俯く。室内であれば正座をするが、今は足を肩幅ほどに軽く開いて立ち、視界を閉ざし心の中で聖龍句を唱える。龍の村で生まれ育ったチハヤが捧げられる祈りは龍のものだが、大事なのは真摯かどうかであって形式ではない。それを皆弁えるが故に、居並ぶ人間どもも思い思いの所作を以て祈りと追悼を捧げる。
そうして時は過ぎ、弔いの詩句が終われば、いざ焼香の番。
ふと気になって薬包紙を頭に近付ける。鼻、と言っても何処がそれに該当するのか、チハヤにも分からないが、ともあれ最初に涼やかな
「い〜にお〜い」
「でしょ。でしょ。僕が調合したんだよ」
鼻を鳴らしてうっとりする仔龍へ、ぬっと参列者の間から現れ自慢げに胸を張るのは、捻れた宝石の角に布と真珠の飾りを吊り下げ、西方風の装束に身を包む、見た目だけは人間に近い縦長の神霊。ぞろりと長い服の裾からは、ふわふわとした白い梟の翼が数枚と、何やら怪しげな黒い触手が見えている。
このようなものは見たことがない。すなわち、この近辺で見たり力を貸してくれている
「
「良く知っているね。さ、炉が回って来たよ」
紺碧にも
こんもりと積み上がった灰と燃えかすの裡、ちらちらと揺れる橙色の火を寸
神の葬儀とは香を捧げるところで一区切りが付くものか。チハヤらの隣に立った謎の神霊は、まだ葬儀中だと言うのにひどく気さくに、声量を抑えることもせず話を続けた。
「キミ、何か無茶やってるでしょ」
「まあ今の
「あは、そうだったねぇ。んでも、こんなことがずっと続いたら身体壊しちゃうよ。ただでさえ器族は
聞いたことのない単語がぽろりと飛び出し、思わず頭を上げる。器族は学術と探究の徒、知らないものにはつい飛びついてしまうのだ。
一方のかのものも、面白がるようにチハヤを見下ろしていた。碧色の目をさも楽しげに細め、さらりとした白髪を揺らして微笑む。
「器族は
「うん。でも別の対価を差し出せば応えてくれる」
「そう、僕達は差し出される霊力と等価値のものがあれば呼びかけに応えてあげられる。……でも、僕達の本質は“
「うん……うん?」
「そんなわけで、もしも人の身に下ろせないほど強力な権能の行使を要求されたら、僕達は霊礎を依代にして
「……?」
専門用語だらけである。
チハヤは曲がりなりにも
首を傾げ、理解困難と仕草で示せば、男は角に下がる宝玉を揺らしながら僅かばかり思案。言葉を選んで紡ぎ上げる。
「種と水と肥料、あとは……土って言い換えるといいのかな。僕達が種、呼びかけた人が土、霊力が水。
「あぁ、成程ね。うん」
「でも、
「へぇえ……初耳だな。それが器族だと堅いって?」
「そ、そ。霊礎って言ってみれば意志力と生命力の源泉みたいな
その状態で上位存在を下ろすのは、言ってみれば剥き出しの岩盤に大木が根を張ろうとするようなもの。その高い堅牢さ故に耐え抜くことは出来るが、
概ねそのようなことを男は心配げに語り、チハヤは身につまされて言葉もない。葬儀の間保つべき静けさが再び満ち、そしてのんびりとした声がすぐに打ち払った。
「チハヤ、おつかれ~?」
一人と一柱の会話を黙って聞いていた、神龍の仔ちまき。つぶらな翡翠の瞳が真新しい地球儀の頭を見上げ、相棒は何も言わず頭を撫でることで応えた。それが何を意味するか、動作から読み取ることは幼さ故に叶わずとも、心血紋から意識せず流れ込んでくる漠然とした不安は痛いほどよく分かる。だからと言って、それをどうにか出来るほどの自由な力はまだなく、故に無茶をするしかなかった。
発達が進んで力強さを持ち始めた前足が、頭から長く伸びた琥珀の角に掛けられ、そして。
「ぅぎゅうっ!」
「げっ!? ちっちまっ、馬鹿っお前、角がっ!?」
「だいじょーぶ、はえるはえる〜」
「そんな問題じゃ……嗚呼もう馬鹿、後でちゃんと説明しろよ!?」
長くもまだ細い頭角を半ばからへし折り、チハヤを大いに困惑させたのであった。
†
仔龍が角をへし折った以外、取り立てて大騒ぎになることもなく。
葬儀はつつがなく進み、そして終わりを告げる鈴の音が響く。
後は死出の先立を任されたもの達の仕事らしい、忘れ神の遺骸を囲むように白布の目隠しが設けられたところで、参列していた上位存在がぞろぞろと帰り支度を始める。それを契機に人間どもも葬儀の緊張から解放され、修士生達は余韻に浸りつつもそわそわとしながら、大慌てで残った課題を終わらせに戻っていった。
その後ろ姿を尻目に、チハヤとちまき、そして帰らずに残った神霊は、広い庭の片隅に建てられた平屋、もとい金属や宝石を細工するための炉を備えた作業場に集う。
チハヤの両手にはそれぞれ、先程へし折られた仔龍の角と、右の頭角の一本を半ばから喪ったちまき。隣には翼と触手の居場所に困ってもぞもぞしている神霊。三者の前には机が置かれ、金属加工の為の道具と、熾火の如く輝く紅い宝玉――ちまきの首輪へ付ける為に
このような状況を整えたのは、他でもない。用意された椅子へ律儀に座ろうと奮闘する、のほほんとした顔の男神である。一体これから何をするつもりなのか、困り気味に翼をもそもそさせる彼からは読み取れない。釈明を求めてチハヤが見つめる内、遂に座ることを諦めたらしい男神は、触手で椅子を部屋の隅に押しやりながら首を傾げる。
「折角の御縁だから、キミに護符を授けてあげる。賢者の知識の範疇で出来ることだから
「有難いんだけど、賢者の知識を叩き売りするのはやめてくれ。
「
言うことは崇高なれど、衣の下で翼と触手をうきうきさせていては説得力の欠片もない。しかし一旦気にしないことにして、チハヤはわくわくしている神霊を現に戻させる。
果たして彼は、ゆっくりと首肯を一つ。やおら人の手で青年の右腕を取り、禍々しく先の尖った触手を装束の下から伸ばす。その傍らで、空いた手が机の上に広げた宝石二つを取り、身体を硬直させるチハヤの腕の真下に位置付け――
「動かないでね……っ!」
「え、っ!?」
すとっ、と。
恐るべき速度と精度で振り下ろされた黒い触手の切っ先が、手首に走る太い血管を一気に貫いた。その雷撃に打たれたような激痛にチハヤが反応するより早く、振り下ろされたのと等速で触手が引き抜かれる。
畢竟、急所を貫かれた傷口からは脈打つように血が溢れ、真下に添えられた琥珀と紅玉を濡らして止まない。その有様を、チハヤは荒くなる呼吸を抑えもせず、何処か呆然として睨んだ。
一方、
「うわ……、何、何してるんだ?」
「賢者の真似事」
硬いはずの石が粘土のように形を変え、交わらぬはずの宝石が、血を媒介に水の如く溶け合い一つの形を成してゆく。それは尋常の加工ではなく、まさに賢者と称されるほどの術使い、或いは神にのみぞ許された技巧の一端。
――神なるものの身から離れた一部は神の力の一部を帯び、故にそれ単体で神器の素養を持ち、故に世の理から逸脱した挙動をも可能にする。ならばこそ、
ころん、と軽やかな音を立てて机の上に転がされたのは、
橙色と紅色と血の赤の何処にそんな要素があったのか、一見深い青緑色を呈した透明なそれは、しかし角度や光源を変えると、目の覚めるような赤色や熾火の如き淡い黄色、はたまた淡い
失血のショックが抜けきらずふらふらとしながらも、チハヤは逸る好奇心に任せて石を摘み上げた。
「これは……えっと、何?」
「護符。装身具にしたらいいと思うよ」
「そうなんだけど、何の護符なんだ? ほら、魔除けとか、無病息災とか、そう言う効能的な」
「嗚呼そう言うコト。そだね、身代わりって言うのが一番近いかな? キミが今まで背負ってきた負担を、もっと頑丈な
随分馴れ馴れしく
「それは……大丈夫なのかな。俺の負担をちまきに押し付けるなんて……」
「ん〜? だいじょーぶだいじょ〜ぶ」
「まあ、普通の人間なら背負いきれないかもしれないね。でもちまきちゃんは龍だから、今の三倍負担が強くても余裕だよ。大きくなればもっともっと霊礎が強くなるだろうし」
ねー、と神霊と神龍は互いに顔を見合わせて首を傾げあい、チハヤは反応するにも疲れて乾いた笑い声を飛ばすばかり。
そんな飼い主の様子を見上げ、仔龍は何も言わず鼻面を
びしびしと長い尻尾の先でチハヤの脹脛を引っ叩くちまきと、そぞろに仔龍の首やら背中やらを撫でる器族の青年。そんな二人を見下ろすように眺めながら、神霊の男は椅子のように曲げた触手の上に腰掛けた。
†
それから何かとすることもなく、うつらうつらし始めたところで神霊に促され、自室で仮眠を少し。災難続きで溜まりに溜まっていた疲労を少しばかり癒したチハヤとちまきが、気怠い身体に鞭打って起き出した頃には、日も暮れかけの時に差し掛かっていた。
階下に下りて様子を伺えば、修士生達は
庭木の維持は
そこに居るのかと視線を向けた先には、一人でに浮き上がる、半分凍りついた肉と野菜――つまりは今日の夕食に使う分の食材――入りの
そして、囁くようなか弱い男の声。
――おお、おお。千の矢、千の矢! 問いたかったのだ。あの方は
――とてつもなく強大だ。仕事を遮られたのに何も出来なかった。此処は
――怖い。千の矢、あの方は恐ろしい。
見えるものが見れば、一見ぼぉっとした表情で佇む若い男を恐れ、籠を抱えたまま半泣きで地面にへたり込む壮年の男が目に映ったやもしれぬ。しかしてチハヤにそのような目はなく、届くのはいつになく弱気な声とひどく弱々しい気配ばかりだ。
精霊が使い物にならぬならば、責を取れるのは家の主人のみ。チハヤはさり気なく歩みを進め、精霊と神霊の間に割って入りながら、努めて明るい声を平日に掛ける。
「あぁー……ごめんな平日、俺の知り合いなんだ。昏睡の女神様の眷属で、えぇっと……」
「嗚呼ごめん、名前言ってなかったねぇ。
「そうこういう奴。悪い
――大丈夫なのか? 本当に?
――招き入れて平気なのか?
「大丈夫、いざって時はちまきもついてる。な?」
「なっ!」
――ならば、ならば良いのだが、千の矢。
――此処は、この家は……遥かなものがあまりに増えすぎている。神性や神霊が当たり前のような顔をして我等の神域に出入りしている。我等にそれを止めることは出来ない。
――私は恐ろしい。お前に背負いきれないほどのものが幾たびも押し寄せてくるこの家が、それらから護れない私の、我等の弱さが恐ろしい。
「平日……」
震えた声が、胸を打つほどの畏怖と懇願の響きを込めて投げかけられ。
それを押し頂くように拝聴するチハヤへ、平日の精は押し付けるかの如く言葉を並べた。
――どうか、受け入れすぎないでおくれ。
――我等は確かに善きことと思ってお前に多くを授けるだろう。だが、それを受け入れられる器がお前にあるとは限らない。
「分かってる、気を付けるよ。ありがとな平日」
「だいじょ〜ぶ。うちついてる! な!」
しゅたっ、と右の前脚を上げてにっこり目を細める仔龍には、敬愛と思慕の混ざった視線。
神龍様が御一緒ならば大丈夫だろう、と、恐らくは無垢なちまきに配慮した声を最後に溢し、平日の精霊は己の仕事を果たすべく、ようよう立ち上がって庭先から立ち去る。
後に残されたのは上位存在二柱に人族一人。横たわる沈黙は長くは続かない。
緊張した声が、どこか冷たい色を帯びて芝生に滴り落ちた。
「ホガイ、今日来たのは警告? それとも本当にただのお節介なのか?」
「半分は親切心、残り半分の半分は治癒師のところに顔を出すついで、最後の半分がキミへの警告。大体はさっきの
「何だ? 俺に注意出来ることかな」
「勿論」
そう、と一旦含みを持たせ、チハヤとちまきが揃って注目したところで、にんまりと一言。
「健康に気を付けてね」
「は?」
「ご飯しっかり食べて良く休むように。「これくらいで良い」とか言って、ご飯の半分をちまきちゃんにあげたりしちゃダメだよ?」
まるで母親のようなことを宣う神霊である。
分かってるよ、と苦笑してみせるチハヤに、しかしてホガイは真面目な声音で語るばかり。
「器族は霊的な基礎が元からしっかりしてる分、そこから伸ばすことが出来ない。キミは下手したらその辺の術使いよりも
「だから身体を鍛えろってこと?」
「半分そう。霊礎で受け止められない分を器族なら
手にしていた
弓や槍を毎日のように振るい、日々の家事を欠かさずにこなし、多くの気苦労に晒されてきた青年の手は、成人にも満たぬとは思えないほど無骨で、手入れはされているが荒れている。そのかさついた掌を撫でつけながら、ホガイは困ったように眉尻を下げて言葉を並べた。
「
「やっぱりそういう所なんだな」
「馬鹿なお貴族様は自分が何でも一番と思い込んでるやつばっかりだからね。そんな場所で今みたいな切り詰めた生活してたら、あっという間に追い詰められる。だから、余裕を残しておいて」
「大丈夫だよ」
無根拠な返答に思わず硬直。地球儀頭の何処かも分からぬ瞳を探って見つめれば、チハヤもまた少しく頭を上げて視線を合わせてくる。仔龍の熱心な双眸も男の顎先を見上げ、その穏やかな顔つきに浮かぶ硬い表情にぱちぱち目を瞬いた。
それに気付いているのか否か、チハヤの声はお構いなしに、安心させるような穏やかさと緩慢さを込めて言葉を織り上げてゆく。
「俺には、助けてくれる奴が、大勢いるから」
「そーだそーだぁー」
あまり状況は分かっていないが、ちまきも加勢。尻尾をぱたぱた、目元口元をにこにこさせて右前脚を振り回す神龍の仔と、それを抱っこして平然と構えるかの飼い主を交互に見て、ホガイは暫し唖然として立ち尽くしていたが、
「あはっ、あはははっ! 確かに。確かにねぇ」
やがて、心底愉快げに柔く笑声をこぼした。釣られるようにチハヤも小さいながら声を上げて笑い、ちまきは今の状況が何かはよく分からないが、とにかく心友が笑っているのが嬉しくて、きゃっきゃと翼をぱたつかせてはしゃぐ。
波乱に満ち満ちていた狩人の元に、今こそは緩やかな時が流れた。
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