二十九:成人の儀

 忘れ神の討伐以降、月日は比較的穏やかに流れ。

 忘れ神に霊気マナを抜かれて昏睡していたサレキが無事に目を覚ましたものの、療養の為留め置かれることになったり。実習期間を終えて学院カレッジに戻った修士生が、及第点すれすれながら単位を取得出来そうだと便りが来たり。はたまた学院への入学手続きの為に大量の書類を書かされたり、それを郵送する為にいくらか財布を痛めたり。

 細かな騒動は多々あれど、弓を持ち出すほどのこともなし。時は緩く二月ふたつきを数え――


「どーでしょーっ! 傑作ですよ傑作ーっ!」

「おぉおぉおお」

「おおおお〜〜」


 所は玉龍山二合半、石工村せっこうそん。金工鍛治の精霊の末裔、すなわち鉄小人ドワーフらが住まう洞窟を中心に細工師の工房が軒を連ねる、玉龍山一の鍛冶村である。

 そんな村の中心地、鉄小人ドワーフ窟のすぐ傍に建てられた八千星の琥狐エンキアンタスの工房に、今狩人と仔龍の姿があった。

 目の前には金属加工に適した形に改造された作業台が一つ。工具や加工中の作品、あるいは切り落とされた希少金属の余りなどが整頓して置かれた机の上、その作業用に確保された空きスペースには、工房の主によって作り出された霊具が二つ並べられている。

 一つ、ちまきが着けていた鹿革製の首輪。これまで何も留められていなかった石座には紅い宝玉が収まり、今後成長した時にも着けていられるようにと終端に留め金が追加装着され、見た目も着け心地も良くなった首輪に持ち主ちまきは御満悦のようだ。

 そしてもう一つ。過日ホガイがくれた護符をあしらった飾り紐ストラップ。透かしの入った燻し銀の石座に石を留め、霊気マナの放散を抑える――チハヤには分からないが、隠していても分かるほど強烈な霊気が漏れているらしい――真っ黒な霊石を数個繋げて、手触りの良い革の組紐に下げた簡素シンプルな品である。

 どちらも、腕の良い者に手掛けられたことが丸分かり。そのような品を受け取れる幸運を心底喜びつつも、チハヤは一抹の不安を隠せぬ調子で呟いた。


「流石、渡し守の雇ってる細工師の仕事は格が違うな。でも人前で見せたら盗られそうだよ」

「ご安心を! 所有者認証オーナーアテストの術を付与したので他の人は触れませんし落としても戻ってきますよ!」

「あぁーそれすっげぇ助かる。ありがとな」

「ありがと、トキネ〜」

「あばーっまたそんな大金をぽんと――ひぃっ圧が凄いぃ! ありがとうございますぅ……!」


 半ば発言を遮るように割り込み、自信満々に豊かな胸を張っているのは、黒い覆い布ベールを幾重にも重ねて顔を隠した、狐の獣人にも見える上位存在。何を隠そう、渡し守に雇われて細工物を献上している神霊、トキネである。

 何かとお節介を焼きがちの女細工師は、今回もまた注文に無かった一手間を加えてくれたらしい。普段は重たいその気遣いも、この品々に限っては素直に嬉しむべきもの。しみじみと礼を言いつつ、チハヤが代金十万てんを入れた小袋を作業台の上に載せれば、トキネは大仰すぎるほど大仰にそれを押し頂いた。


「そう言えばチハヤさん、朧満天星おぼろどうだんの調子はどうです? あれ、便利ですか?」

「ん? うん、すごい便利だよ。一応手入れはしてるけど、要らないくらい丈夫なんだな」


 そして、話題は新作の首輪と護符から、彼が担い手となって久しい弓の神器へ。チハヤが腰の鞄から朧満天星を引っ張り出せば、梨地の銀にも似た弓の胴が照明に白く輝いた。

 定期的に錆止めのろうを塗ったりして手入れしているとは言え、最初に手にした時からその美しさは全く色褪せを見せない。それどころか、狩りの為に彼方此方連れ回し、時には雨ざらしにまでしたと言うのに、使い込まれた年季の美しさだけが際立っている気さえする。

 神器が尋常の器物とは一線を画すものと、美しい曲線を描く弓をしげしげと眺めながら、チハヤは改めて認識させられたのであった。

 一方、制作者の方はチハヤとは別のものを見ているらしい。己が丹精込めて練り上げた権能の塊を無造作に引っ掴み、照明に翳して象嵌された白翡翠を透かし見る。

 そこに、彼女は何を見ただろうか。ふさふさの栗毛に覆われた耳と尻尾をへちゃりと萎ませ、トキネは半笑いで言葉を零した。


「朧満天星、確かに使って貰えたら嬉しいなーって思って頑張って作ったんですけどねー、まさかお魚を煮るお鍋の感覚で使われるとは思ってなかったですよねー、うん」

「えっごめん」

「あーいえいえいえ大丈夫です! 使ってもらえるのは嬉しいことなんです! ただですね、日常的に酷使されることを想定してなくってですね。その、変形機構のところにちょっとガタが……ごめんなさいポンコツ神器でぇ……」


 申し訳なさそうに耳を垂らして尻尾を内巻きにするトキネに対し、チハヤの反応は至って穏やか。万一に備えて多めに携えてきた代金、その残り全てを作業台にそっと置き、ぎょっとする彼女に迷いなく問いを投げかけた。


「神器のガタってよく分かんないからアレだけど、修理って出来るか?」

「えっ? あっはい! 勿論っ、半日あれば改修含めてバッチシです!」

「んじゃやってくれ。使いやすくて気に入ってるんだ、その弓」


 神器の修理代の相場などさっぱり分からないが、出せるだけは出すから。そう付け加え、ずいとばかり玉貨ぎょくかで一杯の革袋を差し出せば、トキネは大慌てに慌てて首を横に振った。そんなには受け取れない、と半泣きで五万てん分の玉貨を取り分け、釣銭を足し、最終的に五千纏分を手許に残して突き返す。指輪の号数サイズ補正代の如き安値に、今度はチハヤが唸る番だ。

 安すぎるのは値崩れを起こすから駄目だ、いや自分の落ち度だから駄目だ。そんな押し問答が、作業台の上で首輪を誇るようにお座りしていたちまきを挟んで繰り広げられ――


「も〜うるさいっ! にまん! けってー! いじょー! いぎなーし! うけとってーっ!」

「ゔっ、ふ、地神龍フラクシナスさま。で、でもでもやっぱりこんなにはぁ……」

「ぐわーっ!」

「イヤーッ!?」


 最終的に、ちまきの一声と覆い布ベール剥がしの刑により、おおよそつつがなく修理費の支払いは完遂し。

 仔龍の舌で毛並みを艶々にされた狐の神霊が、ひんひんと泣きながら修理代たいきんを受け取ったのを確認して、狩人と仔龍は工房を後にした。



 山道を登り、場所は再び三合目の茨宮村じきゅうそん

 平素と同じ動きやすい狩り装束のチハヤと、この二月でチハヤと同じ背丈にまで成長した姿を見せるちまきが佇むのは、村の東端、切り立つ断崖を穿うがつ巨大な洞穴の前。振り返れば、チハヤの後ろにはめかし込んだ白子アルビノ森霊人エルフ――シラユキの姿があり、緊張した面持ちの若者がいる。

 二十歳せいじんを迎えた、ないしは迎える年になった者達の為に執り行われる、この村独自の祝福と洗礼の儀式。その参加者である。

 成人した者のみで行われるかの儀は、上位存在も関わる重大な儀式であるが、一方で内容はごく単純。今彼等が立つ洞穴の最奥まで行き、そこから折り返して戻ってくるだけだ。最奥では上位存在が啓示をくれたり神器を下賜したり、はたまた加護を贈ったりと様々な祝福がなされ、少なくとも痛みや試練を伴うものではない。

 けれども、何ものをも飲み込もうとするかの如くばっくりと口を開けた暗闇は、成人した者であろうと恐ろしいことには変わりなく。


「チハッちゃん。ごめんけど、真楓マナカに順番代わってあげてくれない? 緊張しすぎて倒れちゃいそうなの。あれじゃ最後に入るのは無理だわ」

「それで良いならいいけど。神様的にそれはアリなのか?」

「ほら、今回祝福をくれるのは星女神様だから」

「……ああー……」


 現に、恐怖と緊張で腰の抜けている者も一人。

 今年の村の成人はチハヤら含めて五人、その内二人は既に儀を終わらせ、チハヤは残る三人の二番目に入る予定である。が、最後に入るはずだった森霊人エルフの少女――マナカの、小鹿も鼻で笑うほど緊張し小刻みに震える姿に、大人しく順番待ちを受け入れ最後の最後オオトリを務めることになった。

 そのようないざこざはあれど、大きな波乱もなく成人の儀は再開。

 まずは地神龍フラクシナスの神官たるシラユキが堂々と洞穴に足を踏み入れ、半石刻しゃっこくも経たずに戻ってくる。そんな友人の誇らしげな姿を見てもまだ怖いのだろう、散々ごねるマナカを半ば押し込む形で送り出し、帰るのを待つ間に何を貰ったかと尋ねれば、シラユキは小指にはめられた華奢な指輪を見せてきた。

 白魚のような手に輝く、蔓草を象った金の指輪。その細工の丁寧さに、チハヤは見覚えがある。が、敢えて言うことはせず、続いた声に意識を寄せた。


「『ぬしは既に自立した善き女じゃ、ゆえにわざわざ妾が言ったりやったりせねばならんことはない。まあ折角成人したんじゃし綺麗な指輪でも持っていけ』――だって。あんまり星女神様のことは知らないんだけど、随分ざっくりした神様なのね」

「嗚呼もう金月の馬鹿……いや、ごめんな? ちまき撫でるか?」

「いいの、女神様は狩人の守り神だもん。でもちまきさまは撫でるぅ」

「わきゃ~っ」


 わちゃわちゃと子犬でも撫でるかのように、シラユキの手が地龍のごつごつとした頭を撫でくり回し。心友のそれとはまた違う繊細な手付きに、ちまきはにっこり顔で尻尾と翼をぱたぱたさせた。

 図体はチハヤほども大きくなったとは言え、生後半年にも満たぬ幼子。分別と善悪は付けどもまだまだ無邪気で可愛いものである。

 そんなことを思いながら、微笑ましく神龍とその神官の戯れを眺める内、マナカが半泣きで戻ってきた。どうやら洞窟の奥でも小鹿が苦笑いする下半身を披露したらしい、女神から渡されたと思しきねじくれた黒い杖を両手に握りしめ、疲れ切った顔で近場の切り株に腰を下ろしている。


「ちょ、ちょっとマナカ、大丈夫? あっえっとチハッちゃん、もう入っていいよ」

「ん、分かった。そっちの方は任せるよ」

「任せて。ごめんね、ぞんざいになっちゃって」

「構うなよ。そっちの方が大事だから」


 震え上がる女性に、狩人が、しかも器族の男が近寄るわけにはいかない。

 緊張が緩んで泣きじゃくり始めた森霊人エルフの対応をシラユキに任せ、チハヤは大人しく待っていてくれたちまきの首筋をひと撫でして、共に暗い洞穴の中へと歩み入った。

 恐らくは神事で使う為だろう、長い横穴は塵一つ残さず清掃され、側壁には等間隔に霊石灯れいせきとう――蝋燭の代わりに自ずから光を発する類の霊石を用いた照明器具――と地神龍を称える聖印を縫い取った臙脂色の壁掛けが並び、意外なほどに歩きやすい。術が掛けられているのか湿度も高くなく、じめじめとしない洞窟の居心地に、チハヤは妙な感動を覚えた。


「これ、うち? かっこい〜い」

「お前、いつから自分のこと“うち”って言い出すようになったんだ?」

「ちょっとまえ!」


 布に舞うじぶんに熱い自画自賛を送るちまき、その貧弱だった語彙が育ってきていることに生暖かい視線を送りつつ、並んで歩くこと数礫流刻れるこく

 辿り着いた洞窟の最奥、巨大な龍が悠々と鎮座出来る大伽藍のそのまた奥の、勝手に築き上げたらしい玉座とその傍。わざわざ用意したのか上質な絨毯まで敷かれた上に、星女神と使用龍はいた。


「おう千羽の矢、成人おめでとじゃ」

「雑い雑い。もっと儀式っぽくして」

「ぬしこそ雑ではないかえ。それに、今更ぬしへ厳かな外面を繕っても馬鹿らしいだけじゃ」

「それもそうだけどさぁ」


 玉座の肘掛に少女の腕で頬杖をつき、ぶらぶらとカササギの両脚を揺らしながら、前垂れの裾を爪に引っ掛けて鳥足の脹脛をちらちらと見せてくる。どうやら自分に注目してほしいらしい。

 が、恒河沙ごうがしゃの宝石も霞む美貌の持ち主とは言え、鳥の脚――しかも見た目は幼女か少女の――を見て情動が突き動かされるほど、チハヤの性愛は常道を逸れてはいない。

 自然、もっと自分を見ろと主張アピールをしてくる女神からそっと視線を外す。そうして頭を逸らした器族と仔龍が揃って見る先は、静かに蜷局とぐろを巻いて九枚の翼を畳む、曙色の角も美しき漆黒の龍。胴と尻尾が長く、前脚はあるが後脚は翼に変じ、全体をしなやかな鱗が覆う星女神の眷属――死したる星を看取る死神、星翳龍フリティラリアである。

 この龍とて尋常の生まれのではない。中に入っているのは、かつてこの常界じょうかいに侵攻しようとして殺された、日蝕の王に信仰を捧げる闇霊人ダークエルフの魂だ。


「よ、シンタン。女神様のお付きはもう慣れたか?」

「美人は三日で飽きると言うが、飽きのこない美貌で毎日幸せだ」

「……あんたのそういうとこ、俗っぽくて俺は好きだよ」


 女神の傍に好きなだけ侍ることが出来る。そんな下心満載の理由で、星の眷属の中でも苦役や労役に類される役目を選んだシンタンは、しかし今の所上手くやっているらしい。初めてこの姿で出会った時よりも艶々とした鱗を惜しげもなく晒し、欠け一つない翼を主に当てぬようゆっくりと広げて伸びをしつつ、影龍は凝り固まった筋を解すように軽く首を振った。

 ひとしきり猫のような仕草を披露し、戻したシンタンの瞳が、射貫くように見下ろす。


「で、千の羽。成人を迎えたのはめでたいことだが」

「が?」

「槍を出せ。豊穣祭の時に使っていただろう」


 唐突な命令に、しかして一介の山の民が逆らえるよしもない。大人しく腰の鞄を漁り、侵入者の撃退用に使っている鋼の槍を引っ張り出す。飾りもなければ洒落っ気もない、威力と取り回しの良さに特化した鈍色の槍を、シンタンは何処か呆れたような目つきでめつけた。

 長さ二よう、重量にしておよそ二ゆう。長さは別として、重さは人間にして十歳の子を抱えているのとほぼ同じ状態である。これを器族はまるで小枝のように振り回すのだから、彼等の膂力は全く意味が分からない。完全に人と同じ体形で、どこからその力を引き出すのであろうか。

 ともあれ。


「精霊の祝福が掛かっているな」

「平日が鍛えた鋼で、宵祁ヨイケに作ってもらった奴だ」

「なるほど。ならば上から掛けるか」

「えっちょっ待っ」


〈翳る夜の帳に潜め、――“妖精の隠れ蓑フェアリーカバー”〉


 問答無用で鋼の槍をチハヤの手から奪い取り、蜥蜴とかげのような四つ指の前足で握り込む。また秘蔵しなければならない神器が増える、と慌てふためく青年を他所に、シンタンが深い夜色の瞳を僅かに伏せれば、重い槍が微かに星の光を放って元に戻った。

 終わりだ、と投げ返された槍を受け取っても、何が変わったのかは分からない。試しに、隣でのほほんと伽藍の天井を眺めていたちまきに見せてみれば、仔龍は星の煌めきが散る右目をぱちりと閉じて、それからにっこりと目を弓なりに細めた。


「なーんもなーい。ぜーんぶかげのなか」

「どう言うことだソレ」

「ん~~……うちわかんなーい!」


 やはり生後半年以下の仔龍に説明を頼んではいけなかった。元気一杯に首を振り、陽気さ満点で思考を放棄したちまきには諦めの溜息を一つ。視線をシンタンに向け直す。

 哀れなものを見る目が返されたが、それにはそっと無視スルーを投げつけ。きちんとした説明を求めれば、ようやくまともな答えが返ってきた。


「隠蔽の術を掛けておいた。祝福はそのままだが、傍目にそうとは分からんはずだ」

「へぇえ。俺には何が変わったのかイマイチ分かんないんだけど、王都でコレ振り回しても凄い武器だって思われなくなったってことでいいのか?」

「そんな鈍器を王都で振り回す前提で話をしてほしくないが、まあそうだな。私の隠蔽を貫ける鑑定眼の持ち主など、恐らくは例の影読かげよみくらいのものだろう」


 一足先に学院へ戻り、今は精密な計測結果データを褒められて斥候せっこうの技能を伸ばさないかとしきりに誘われているという、あの黒ずくめの青年。彼は龍騎士としての才能を見出されたが故に王都へとで、そして表立ってその能力を発揮しているが、ほとんどの影読はそれこそ影に潜むような隠遁生活を送っている。ならば、そうそうシンタンの隠蔽がばれる心配はないだろう。

 少々の安心と、何やら嫌な予感を胸に、チハヤは黙って頷き一度。槍を腰の多次元庫アーカイブに仕舞いこみ、ちまきと共に頭を下げる。続けて投げられた丁寧な礼を、影龍はいかにも鷹揚な態度で受け取って、それから妙に生ぬるい視線を寄越した。


「…………」

「何だ、母さんみたいな顔して」

「嗚呼。健康に気を付けろよ」


 同じことを数月前にも言われた気がする。分かってるよ、とやや辟易を込めて手をぱたぱた上下に振るチハヤに、声を投げつけたのは沈黙を守っていた星の女神。

 何も分かってはいない。何時もの軽薄さは何処に置いてきたのか、低く呻くように呟いた渡し守は、淡い金彩の双眸で狩人を見下ろした。


「ぬしはちぃとも分かっておらんの、生まれた時からの付き合いぞ妾は。それをぬしと来たら、堅苦しい儀式の場一つで別れようとしよってからに……」

「何だよ、幼馴染が王都に下るのが寂しいって?」

「そんなこと言うておらんわえ」


 などと言いつつも、顔にはしっかりとそう書いてある辺り、人間の顔立ちとはまこと表情の分かりやすいものである。シンタンとちまきとチハヤ、一人と二柱で揃って生暖かい視線を少女に送れば、女神は瞬時に腕をカササギのものへと変じ、小高い場所に築かれた玉座から軽やかに飛び降りた。

 ふわふわと長い髪を揺らしつつ、飛び跳ねるように狩人の傍へと近づき、振り仰ぐ。花も恥じらう驚異の美貌――しかもチハヤの好みは一般的な器族のそれから外れ、人間の顔の方に傾いていた――に上目遣いをされ、しかして器族の青年は至って冷静に、手を伸ばして女神の頭を掻き回した。

 見る者が見ればとてつもない不敬だと大騒ぎになるだろうが、生憎と彼等は神官と主神あるじ。誰にも口出しは出来ず、そも此処に口を出す者は存在しない。折角くしけずった髪を散らかす無骨な青年の手を、しかし満更でもない表情で受け止める少女を見下ろして、チハヤは諭すように言葉を重ねてゆく。


「サレキが修士を卒業するまでの、ほんの一年だ。必ず無事で戻ってくるから」

「信用ならんわ。そう言って大怪我をしたのは一体全体何度の話か」

「死ぬような怪我じゃなかったろ? 何時もと同じだ、ちょっと長い遠征の狩りみたいなもんだよ」

「……死んでも眷属にはしてやらんのじゃ」

「その時は静かに寝かせてくれ」


 全くもって縁起でもないが、死と隣り合わせに生きる狩人にとってはいつものこと。故に狩人の守り神も最早何も言わず、頃合いを見てそっと踵を返した神官の背を、何とも言えぬしかめ面で見送ろうとして――ふと、思いついたように翼を一度振るった。

 舞い散る数枚の羽を、軽く吐息で吹き飛ばす。音もなく数回宙を回り、溶けるように影と化した黒い羽は、気付かぬ素振りで立ち去ろうとするチハヤの影にそっと染み入って見えなくなった。


「死にそうで死にたくない時は妾の真名まなを呼ぶがよい。神官の嘆きに応えぬは常界の神ではないからの、呼び掛けがあれば妾も下りて来られよう」

「うん」

「ぬしが阿呆なことは良く知っておるが、死にたがりではないとも知っておるつもりじゃ。安易に手放すでないぞ」

「……うん。帰ろう、ちまき」

「ん、チハヤ〜」


 色の良くない返答の奥に、果たしてどのような感情を秘めていたのだろうか。

 後ろ姿を見送る渡し守やシンタンは勿論、横から覗き見ていたちまきにも、器族の押し殺された感情は読み解くこと能わず。

 そして、心血紋から流れ込む感情を暴く野暮はならずして、仔龍はただひっそりと沈黙を守った。

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龍の弩 月白鳥 @geppakutyou

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