第二章:龍の仔一柱、或いは四人の騎士どもの話
十四:嘆願
チハヤの家、その芝生が広がる裏手の庭にて、向き合う狩人と仔龍。その間に横たわる距離はおよそ五
手にはかの銀弓、
意思は確認済み。故にチハヤは迷いなく石を装填すると、油断なく飼い主の動向を見つめるちまきに向けて、弦を最大限に引き絞り発射した。
表面積と空気抵抗の大きな石は、最高速でも矢よりずっと遅い。それでも常人では目に追えぬ速度で迫る
終盤は弾の数を増やし、更に逃げ道を潰して同じことを反復。くるりくるりと軽く器用に、けれども芝生をにじり潰さないよう慎重に脚先を使ってその場避け、脚と翼を胴にぴったり付けて隙間をくぐり、地べたに腹を付けんばかりに伏せてやり過ごし――そこで、矢弾が尽きる。
次が来ないことをじっくりと確かめ、見上げた先でチハヤが弓をいつもの形に戻したことまで確認した上で、ちまきは一散にチハヤへ飛びついた。
「チハヤ〜!」
「おーよしよし、よく出来たなちまきー」
「がんばったぁ〜〜」
「分かってるよー。ほーれよしよしよし」
「ぅぎゅ〜」
豊穣祭を無事に終え、三日の時が流れた茨宮村。その三日で、ちまきは目覚ましく成長を遂げていた。
言葉は未だ舌ったらずだが、語彙は確実に増えつつある。身体能力は先程飛礫を全て避けたことからも――これはチハヤが懇切丁寧に教え説いたせいでもあるが――明らかで、何よりもよく成長しているのは、その図体。
生まれた頃は五十小義にも満たぬ小さな龍だったちまきは、今現在頭から尻尾の先まで七十小義。ぽってりとしていた体型はすらりとした猟犬のものになり始め、貧弱だった翼は骨格も皮膜も逞しく分厚いものへ変わりつつある。今でもぴょんぴょんと跳躍しては滑空しているが、近いうちに空へ飛び上がり雲間を翔けるようにもなるのだろう。
ちまきの成長をつくづく感じてしみじみと思いふけるチハヤ。その傍のテーブルに、ごろんがらんと丸石が積み上がる。先程撃ち込んだ矢弾を、
見えぬ背にひらひら手を振って見送り、手を下ろす。刹那、背後で動いた気配に振り向けば、びくっと肩を震わすカザハネと、その肩にしがみつくミズタエの姿が。
最初に出会ってからこっち、カザハネはどうしてもチハヤの背後を取れずにいた。毎度毎度、得意とする槍の間合いに入る直前で気付かれるのだ。今回などは
「チクショー、やっぱり無理かよ」
「止めろっつってんだろ」
「いいじゃねーか、どうせ何か減るわけでなし」
このやり取りもすっかりお馴染みのもの。日に三度は後ろからこっそり近づかれるのにも、それに対して半ば本気で怒って受け流されるのにも、チハヤはそろそろ諦めが付き始めている。はぁと諦観交じりの溜息を一つ、
南に面した庭から、勝手口を伝って家の中へ。一人暮らしには広すぎる家の一階、修士生の面々が会議室代わりに使っている客間に足を向け、地球儀の頭を近づけ扉越しに聞き耳を立てる。聞こえてくるのは寝息と、誰かが何かを書き付けるカリカリと言う硬質の音。
昨日、何やら深刻な様子で修士生達が話し合っていたことを、チハヤとちまきは知っている。今にも死にそうな声音で繰り広げられた議論は遅くまで続き、結局家主たちが寝る寸前になっても終わらなかったのだが、一人以外寝ているのを聞く限り解決したのだろうか。
肩の上のちまきと目配せしあい、心血紋伝いに互いの意思を纏めあう。出した結論は簡単で、とりあえず朝食がてら事情を聞けばいい、という明快なものだった。本来宿の提供者でしかないチハヤに、彼らのトラブルへ首を突っ込む義理などないが、これも何かの縁というものである。
一旦扉の前から引き返し、チハヤは朝食を作るべく炊事場の方へ向かった。
‡
「おはよう」
「おふぁようございましゅ……」
起きていたのはサレキだった。
相棒のテイカはサレキの膝の上で丸くなりお休み中。他の修士生一同は、それぞれの乗騎と共にソファで横になったり、或いは少し大きめに縮んだ乗騎を寝台にしたり、とにかく
今にもソファに倒れこみそうな様子のサレキに、チハヤは苦笑しながら濡らした布巾を投げ渡した。
「顔拭きなよ。ひどい顔してるぞ」
「すいません……」
少し面倒なことになって、とぼやきながら、サレキは腫れぼったくなった瞼を冷やすように濡れ布巾を当てて、いくらかは元気さを取り戻した顔を上げる。が、目の前に広げ散らかされた中質紙の束を見るなり表情を曇らせ、逃避するようにまた布巾を目の上に乗せた。
そんな彼の差し向かい、
ざっと目を通し、――叩きつける。
「何で黙ってた?」
「…………」
サレキが書いていたのは、
嘆願書の内容は応援要請。第一級非常招集申請、と言うのが如何なる等級のものかは知らないが、とにかく非常事態であるとルッツ達は判断したらしく、申請理由は――
「何で、バケモノのこと黙ってた」
玉龍山の奥、ヤライが主に狩場とする領域で、彼らが垣間見た“バケモノ”。
その姿は一見天使か高齢の
ベールの奥を見たところで、修士生達は怖気づいて逃げ出したらしい。ベールを取った姿については曖昧なことが断片的に書き散らされ、想像しようとしても上手く掴めずに終わった。しかし、それ以外の項目から正体を類推することは出来たし、その“バケモノ”がいかに危険なものかも、チハヤはよくよくヤライから教わっていた。
故に、チハヤはまずサレキの身を案じた。きっと恐ろしい思いをしたであろうから。
「言いたくないなら言わなくても良いから。大丈夫だったか?」
「はい……ぁの、あれ、何ですか」
チハヤを見上げる青年は、今にも泣きそうだった。その揺れる瞳が滲ます色に、狩人は何故彼だけが嘆願書を書く任に当たっていたかを知った気がして、心の中だけで呻く。
恐らく、彼だけがまともに見たのだ。あのバケモノの顔を。そして知ってしまったのだろう。あの人ならず神ならず、魔物ですらないあのモノのことを。最早慰めの言葉もなく、チハヤは心底哀れと言わんばかりに象牙の地球儀を撫でつけた。
「ロクシャは、忘れ神って言ってた」
「忘れ神……」
「元々は神様だったのが、信仰されなくなって格を使い潰した成れの果て。忘れられた神様だから忘れ神。……なあ、あの異界の星神様が言ってたこと、覚えてるか。この山にはもう
――村が興された時には山の主が狂ってしもうて、さんざ暴れた挙句空の彼方に突っ込んでのぅ。
「でも、山の主は空に突っ込んだって」
「その眷属だよ」
淡々と語る狩人に、サレキはもう何も言えなかった。
狩人の語った忘れ神。その説明の解釈が誤っていなければ、サレキは忘れ神であったものを二柱ほど知っている。それは数万年前の太古代、所謂『創世記』や『旧訳神話』で描かれた、今の世界になる前の世界が終わる要因になった怪物だ。
その名、
つまり――忘れ神とは、神話に語られる時代から生きるバケモノ。
「そんなモノ、何で退治してないんですか? 狩人なんでしょう」
「バカ言え、忘れられても神様だぞ」
「でも、あの影の竜は――」
「……俺から数えて、五代前かな。爺ちゃんの
淡々とした声音に、わざと怖がらせようなどという意志は見当たらなかった。チハヤはただ、己の遠い身内に降りかかった事実を語るだけ。しかしその響きは確かな現実味と恐怖を帯びて叩きつけられ、辺りには嫌な緊張を交えた静寂が漂う。
しかし、チハヤは――少なくとも己より遥かにあの山とバケモノを知る者は――暗にあれと関わるなと告げた。それも、嘆願書を見た上でだ。それはつまり、狩人からすれば、
どちらを信じて意見を通すべきか。操天士は俯き、やがて一つの答えを出す。
「それでも、あの神さまはもう……赦されていいと思います」
今までに持っていた知識とチハヤから新たにもたらされた知見。それらを足してサレキが出した結論は、そんなものだった。
要するに、それは死にぞこなったのだ。必要とされずに劣化し、残された格を使い潰し、信仰していた者からバケモノと忌み嫌われ敬遠され、それでも秩序神の御許へ旅立てない哀れさ。どうにか出来るものならばしてやりたい。心優しい少年は心からそう思った。
それを受けたチハヤは、声なくしてちまきと語り合う。彼の心根と決意を汲むのはいい。しかし、チハヤの能力がそれについてくるとは限らないのだ。狩人は自分の狩りの腕を信頼しこそすれ、過信することはない。場合によっては、サレキには涙を呑んでもらわねばならないだろう。
――出来ると思うか?
声に出さず問いかける。この上もなく真剣に、ふざける余地も与えずに。
果たして神龍は、一瞬たりと迷わない。
――できる。チハヤとじぶんなら。
「そっか。……分かった」
それは、何処までも揺るぎない信頼と自信に他ならず。
力強い肯定に背を押され、狩人は頷く。
「考えてみよう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます