十五:偵察

 雲を突き抜けるほどの高みに頂を構えたかの玉龍山ぎょくりゅうさん、その中腹を開拓して作られた村の一つが茨宮村じきゅうそんである。

 村の所在地は、実に八ちょうと五百ようはある山の三合目。地上から約二頂三百鷹の高所にあり、人間が定住可能な環境としては限界に近い。即ち、茨宮村よりも高い所に“村”と呼べる規模の土地はない。つまるところ、森の奥へ進むと言うことは、山頂を目掛けて進むと言うことと概ね同値と言えた。

 とは言え、生育に多量の水を要する木本もくほん類は、極端な高地では生育出来ない。一頂ほど登れば森は背の低い低木が占めるようになり、それも生育できなくなれば高山植物の楽園に。最後には少しの地衣類と、超高地に適応した生物だけが僅かに飛来する、雪と氷と岩の世界へ変わる。

 ヤライがその身一つで歩く世界は、そんな厳しい環境に踏み込む一歩手前。森が存続出来なくなる限界地点――森林限界しんりんげんかいの傍で、彼は独り、道なき道を歩く。

 足取りは静かに、乱れなく。自身が長年通うことで付いた獣道に沿って、整備などまるでされていない森を、あたかも村の通りを抜けるように往く。その足は道が途切れても尚澱みなく、あるモノの姿を捕捉するまで止まらない。


「――、―――。――、――、……」


 狩場に入ってから、半石刻しゃっこくほどか。眠たくなるほどの静けさに不釣り合いな、どろどろとした毒液のような呻き声を聞いて、ヤライは慎重に足を止めた。目標を確認。姿を察知される前に膝を折り、高い下草の影に身を隠す。観察するのは土砂の崩落により作られた粗削りの高台、その下に出来た僅かばかりの広場。

 背に三対六枚と余計に一枚、計七枚の翼を広げた、すらりとした男性の擬天人マルアハ――に、見えた。人はあれを御使いアンゲルスと呼ぶらしいが、ヤライにはあの陰鬱な男が上位存在かみであるとは思えない。ともあれ、狩人はその男をじっくり見んと意識を研ぎ澄ます。

 ぞろりとした白い布を身体に巻き付け、男性の着付けとしては高い位置で帯を締めて、血の気のない手や脚にじゃらじゃらと黒曜石の飾りを身に着けている。顔を隠すように被ったローブの布端にも雫型の黒曜石を結び下げ、微かな身動ぎに揺れてちかちかと煌いていた。その動きを生む動作は他でもない、手元にある祈数具ロザリオを数える動きだ。

 聖句を一節唱えては一つ進め、十節唱える度に己が神を讃える。そしてまた次の節へ――地神龍フラクシナスを奉じる茨宮村では使われない、旧い祈祷の仕草である。ヤライが知るものと少し違う点があるとすれば、長い長い時間をかけてロザリオを数え終わっても、また最初に戻ってしまう辺りか。

 不干渉を貫く限りは無害。故に見かけても放置していた忘れ神であるが、一部始終をまじまじと見てみると、なるほどこれは確かに――狂っている。あわれさを覚えると同時に、ヤライは何とも言えぬ嫌悪がじんわりと滲むのを感じた。


「……“我が信奉しまつる神、ひのたつ、めぐみと火の試練の龍よ。この者をあるじのつばさのもとにおおい、あるじの爪牙そうがにかれとこの者をかくしたまえ。この者にたましいの幸いあらんことを”」


 祈り続ける擬天人マルアハに、己の知る聖句と印を投げ。ヤライはゆっくりと立ち上がる。気配はあくまでも消えたまま、草の茎を踏む僅かな音も、吹く風に揺れる葉の音に紛れる。忘れ神のもとに、狩人の情報などは一切届かない。

 ヤライは、速やかに山を下りた。



「特に変わった様子はないようだったよ。私や周囲の獣には構わず、ひたすらロザリオを数え続けているだけだ。一応祈りが終わらないか待ってもみたが、三石刻しゃっこく待っても終わる気配は無かった」


 ヤライの報告は、つまるところ忘れ神は何も変わっていなかったということで。もっと劇的な変化を期待していた修士生たちは、揃って微妙な顔をしていた。

 人情である。此方は散々脅かされ、半ば漏らしそうになりながら必死で下山したと言うのに、忘れ神には何の痛痒もなければ情動すらない。そして目の前の器族は、己らが一昼夜かけて対策を講じようとしていたバケモノに単身近づき、平然と観察を終えて戻ってきたのだ。己の未熟をこれでもかと思い知らされ、人間の豊かな表情筋は不満と悔しさをありありと滲ませている。

 対する狩人は平然としたもの。太腿に顎だけ乗せている仔龍ちまきの鼻づらを指先でこちょこちょと掻いてやり、隣に座っているチハヤの膝上、でれんと伸びきった尻尾をパタパタさせている。何とも脱力感溢れる構図に、差し向かいの人間一行は真面目な顔が出来なくなって、憮然とした顔をしながら相好を崩した。

 嫌に突っ張っていた空気が緩む。そこに、チハヤが一声。


「気付かれない限り、あの忘れ神がこっちに危害を加えてくることはない。逆に、存在を知られてしまえば俺のご先祖さまみたいになる。一度っきりの勝負だな」

「出来ますか」

「しないならあのままだ」


 ――俺はそれでも構わない。

 チハヤの偽らさる本心はそれであったが、そうと言わなかったのは、サレキが振り絞った勇気を尊重してのこと。そして、そんなことはおくびにも出さず、彼は伸び切っていたちまきを自分の膝に乗せ直した。

 ぐりぐりと押し付けられる龍の頭を押しのけ、心血紋伝いに不満を表明するのをなだめて、言葉に出さぬ相談を少し。幼いながらによく見通す龍の仔、その無垢な叡智を借りながら、チハヤはゆっくりと言葉を紡いだ。


「話が通じるか分かんないから、説得して昇天させるのはとりあえず除外。つまるところ退治するわけだけど――気配を消して武器の届く範囲に近づくか、向こうが察知出来ないほど高い所から急降下して仕留めるか。どっちも同じだけリスクはある。ただ、後者を選ぶなら俺は関与できない」

「どうしてでしょうか」

「どうしてって、空を飛ぶのは龍騎士ドラゴンライダーの仕事だろ。俺の管轄外だ」


 ちまきが大きいなら考えたけど、とチハヤは言葉を続け、問いかけた当人たるアカラは納得顔で――表情筋はほとんど動いていないが――引き下がった。

 いくらチハヤが器用で如才ないとは言え、まさか誰かの龍を借りて空を飛び、あまつさえバケモノを倒せなどと無茶振りを言うわけにも行くまい。それこそ飛行の専門家である龍騎士ドラゴンライダーの出番である。それに、忘れ神を打倒すると言い出したのはあくまでも人間の側だ。

 何より……

 アカラの思考が深みに陥りかけたその時、声は己の隣から上がった。


「空からなら、俺やる」

「カザハネ先輩」

天雄龍アカニトゥムは長時間飛ぶのにゃ向いてねぇ。熱焔竜フラマカローは退役した竜だから無理させられんねぇ。サレキは槍持って相手をぶち抜けるほど怪力じゃねぇ。ロウカの騎獣きじゅうはそもそも空を飛ばねぇ。……ミズタエと俺なら、どっちの条件も満たせる。適任だろ」


 自信に満ちた言葉である。なるほど他の修士生が“先輩”と呼び慕うわけだと、チハヤは密かに感動した。

 けれども、ロウカとルッツの考えは違うらしい。何とも不信げな目をして、ふんすとばかり胸を張るカザハネに言葉を突き立てる。


「火力は認めるけど、あなた動かない的にも当てられないでしょ」

「あの原生林の真上からだぞ。そこから、人間の頭ほどしかない小さな的を――果たして撃ち抜けるか」

「ゔ」


 痛い所を突かれたようだ。苦々しい声で一つ呻き、カザハネは膝の上のミズタエと共にふいっとそっぽを向く。対するロウカとルッツは、呆れを隠せない様子で自信満々だった器族を眇めるばかり。

 空気が悪くなったところで、ぱちんと柏手の音。チハヤであった。


「はいはい分かった分かった、そんなに心配なら練習したらいいだろ! するなら山の裏手に行きな、爺ちゃんの狩場だから」

「裏手……」


 提案に、ルッツが俯いて記憶を探る。

 ここ数日、修士生達の地図作成マッピングの練習として山をぐるりと一周し、その最中に覚えた、大まかな山の地形と地相。村の周囲は水脈豊かな森林地帯で、村から同心円状に一ちょう程度まで、池や川を小刻みに挟みながら森が続く。深い混合林は次第に木の本数と種数を減らし、完全に木が消えると同時に下草も姿を消し――村のほぼ真裏ともなると、水脈は完全消失。火脈ひみゃくの旺盛さが異様に目に付いた。

 火脈、言い換えるならば、溶岩マグマの溜まり場。そんなものが旺盛な場所とは、つまり。


「火山地帯に踏み込めと?」

「そんな心配しなくても、五十年に一回しか噴火しないよ。そんで今二十三年目」

「でもそんなところで何を狩るの」

「大猪とか大雀とか、とにかくでかい獣が一杯いるんだってさ。去年が豊作で数が増えてるみたいだし、いい間引き対象だ。あそこなら開けてて障害物もないし、的に丁度いいと思うけど」


 こともなげに提案され、ルッツは微かに鼻面へしわを寄せた。

 火脈旺盛な地相は――地質とその場所にいる妖精の性質にもよるが――人間の時間感覚スケールの中で移り変わりが見える不安定な場所だ。いつ何処で星の血マグマが噴き出すか分かったものではないし、噴火の時には一呼吸で死人をも出す毒が蔓延するとも言う。

 そんな場所で、己の教え子を飛ばすのか。此処での経験が長い狩人からのお墨付きを貰っても、やはり不安なものは不安である。

 しかし、練習する当の本人は、ルッツの懸念もお構いなしの様子。


「熟練の、しかも器族の狩人がそう言ってんだ。俺はその判断を信じるね」

「ワタシも」

「おまかせあ〜れ〜!」


 志願した当人及び当龍とうのほんにんからの賛成票と、山の守護神の分御魂による追認。特に最後の一票は強烈だ。山を統べる上位存在かみから元気いっぱいに「任せろ」と言われては、平原の民が反対できるはずもない。

 なし崩し的に、作戦はまとまった。



 本日の昼食、絞めたてほやほやの虹眼鶏にじめどり蒸し煮ブレゼ乳酪バターを落として焼いた白パン、冷製スープソワーズ。折角なので山桃ヤマモモの酒を水割りで出し、氷室ひむろの片付けついでに、半分凍った果物もそのまま付けてやった。

 狩人の食生活は昼が最も豪勢である。王族の晩餐ほど絢爛ではないが、何しろどれもこれも今朝方に獲ったも同然――つまるところ、味はいい。


「早くぅ〜!」

「こら、落ち着けって。お座り」

「んぎゅぅっ」


 食卓へ出す前に己とちまきの取り分を確保し、弱肉強食の奪い合いを回避。火が入ったままの竃の前で、チハヤはひたすら肉を切っていた。

 無論、目を輝かせてそわそわしているちまきの為である。カザハネは神龍の食事がただの趣味であると言ったが、たとえそうであろうと、この嬉しそうな顔を見て食事をやらない選択肢は存在しない。

 うろちょろと周囲を歩き回り、そうかと思えばビタンビタンと土間を尻尾で叩いて、またうろちょろ。どうにも落ち着きのない仔龍を諌めながら手を動かすチハヤの元に、ゆらりと姿を現わす者があった。


「チハヤ」

「ん、ミズタエ? どした」


 すらりと長い水色の体躯、長く伸びた紫玻璃アメシストの角、三対六個の菫色の眼に、宙を揺蕩う三対六枚の翼。水泳鳥ペンギンに似た前脚をはためかせ、水中のように虚空を泳ぎ来たるのは、遊草龍サリクスのミズタエである。炊事場の扉の向こうから聞こえる喧騒を嫌ったのであろうか。

 ともあれ、強い火を使っている場に水龍が顔を覗かすのは珍しい。一旦肉を切る手を止め、深めのたらいに水を張って促せば、やや申し訳なさそうにその中へ身を移した。ちゃぷちゃぷと長い尾が水を叩き、その音に興味を引かれたらしいちまきがじゃれ付くのを横目に、女龍めりゅうはやおら話を切り出す。


「チハヤ、ちまき、空を飛んで。ワタシ、背を貸すから」

「ミズタエの背に乗って飛ぶのか?」

「ん」


 それは構わないけど、とチハヤ。首を傾げるミズタエへ、ちまきの首根っこを引っ掴みながら問う。


「お前の主人はカザハネだろ。どうして俺を乗せて飛ぶんだ? この話、カザハネに許可を取ってるか?」


 一体どう言う風の吹きまわしなのか、と。龍の仔を腕に捕まえ、長話を聞く姿勢で言葉を重ねなば、彼女はどこか気恥ずかしそうに盥の中へ身を沈めた。

 その所作に察する。この話は、彼女の気位プライドに関わることなのだろう。そして恐らく、主人カザハネは何も知らない。知られたくないから、何も話さず秘密裏に事を運ぼうとしている。

 そしてチハヤは、そんな乙女――実年齢は恐らく乙女などという次元の話ではないだろうが――の内緒話を台無しにするような性格の悪い男ではない。何の話、と無邪気な疑問を呈するちまきへ、心血紋を通して事情を説明してやりながら、青年は静かに返答を待った。

 ミズタエから、とてもとてもか細い返事があったのは、ちまきへの事情説明が終わるか終わらぬかと言ったとき。


「火脈、怖い。お願い、ついてきて」

「ぅぎゅー……」


 納得した、という風なちまきの鳴き声に、ミズタエはますますしゅんとして、遂には盥の中に頭を突っ込んでしまった。

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