十五:偵察
雲を突き抜けるほどの高みに頂を構えたかの
村の所在地は、実に八
とは言え、生育に多量の水を要する
ヤライがその身一つで歩く世界は、そんな厳しい環境に踏み込む一歩手前。森が存続出来なくなる限界地点――
足取りは静かに、乱れなく。自身が長年通うことで付いた獣道に沿って、整備などまるでされていない森を、あたかも村の通りを抜けるように往く。その足は道が途切れても尚澱みなく、あるモノの姿を捕捉するまで止まらない。
「――、―――。――、――、……」
狩場に入ってから、半
背に三対六枚と余計に一枚、計七枚の翼を広げた、すらりとした男性の
ぞろりとした白い布を身体に巻き付け、男性の着付けとしては高い位置で帯を締めて、血の気のない手や脚にじゃらじゃらと黒曜石の飾りを身に着けている。顔を隠すように被ったローブの布端にも雫型の黒曜石を結び下げ、微かな身動ぎに揺れてちかちかと煌いていた。その動きを生む動作は他でもない、手元にある
聖句を一節唱えては一つ進め、十節唱える度に己が神を讃える。そしてまた次の節へ――
不干渉を貫く限りは無害。故に見かけても放置していた忘れ神であるが、一部始終をまじまじと見てみると、なるほどこれは確かに――狂っている。あわれさを覚えると同時に、ヤライは何とも言えぬ嫌悪がじんわりと滲むのを感じた。
「……“我が信奉しまつる神、ひのたつ、めぐみと火の試練の龍よ。この者をあるじの
祈り続ける
ヤライは、速やかに山を下りた。
‡
「特に変わった様子はないようだったよ。私や周囲の獣には構わず、ひたすらロザリオを数え続けているだけだ。一応祈りが終わらないか待ってもみたが、三
ヤライの報告は、つまるところ忘れ神は何も変わっていなかったということで。もっと劇的な変化を期待していた修士生たちは、揃って微妙な顔をしていた。
人情である。此方は散々脅かされ、半ば漏らしそうになりながら必死で下山したと言うのに、忘れ神には何の痛痒もなければ情動すらない。そして目の前の器族は、己らが一昼夜かけて対策を講じようとしていたバケモノに単身近づき、平然と観察を終えて戻ってきたのだ。己の未熟をこれでもかと思い知らされ、人間の豊かな表情筋は不満と悔しさをありありと滲ませている。
対する狩人は平然としたもの。太腿に顎だけ乗せている
嫌に突っ張っていた空気が緩む。そこに、チハヤが一声。
「気付かれない限り、あの忘れ神がこっちに危害を加えてくることはない。逆に、存在を知られてしまえば俺のご先祖さまみたいになる。一度っきりの勝負だな」
「出来ますか」
「しないならあのままだ」
――俺はそれでも構わない。
チハヤの偽らさる本心はそれであったが、そうと言わなかったのは、サレキが振り絞った勇気を尊重してのこと。そして、そんなことはおくびにも出さず、彼は伸び切っていたちまきを自分の膝に乗せ直した。
ぐりぐりと押し付けられる龍の頭を押しのけ、心血紋伝いに不満を表明するのをなだめて、言葉に出さぬ相談を少し。幼いながらによく見通す龍の仔、その無垢な叡智を借りながら、チハヤはゆっくりと言葉を紡いだ。
「話が通じるか分かんないから、説得して昇天させるのはとりあえず除外。つまるところ退治するわけだけど――気配を消して武器の届く範囲に近づくか、向こうが察知出来ないほど高い所から急降下して仕留めるか。どっちも同じだけリスクはある。ただ、後者を選ぶなら俺は関与できない」
「どうしてでしょうか」
「どうしてって、空を飛ぶのは
ちまきが大きいなら考えたけど、とチハヤは言葉を続け、問いかけた当人たるアカラは納得顔で――表情筋はほとんど動いていないが――引き下がった。
いくらチハヤが器用で如才ないとは言え、まさか誰かの龍を借りて空を飛び、あまつさえバケモノを倒せなどと無茶振りを言うわけにも行くまい。それこそ飛行の専門家である
何より……
アカラの思考が深みに陥りかけたその時、声は己の隣から上がった。
「空からなら、俺やる」
「カザハネ先輩」
「
自信に満ちた言葉である。なるほど他の修士生が“先輩”と呼び慕うわけだと、チハヤは密かに感動した。
けれども、ロウカとルッツの考えは違うらしい。何とも不信げな目をして、ふんすとばかり胸を張るカザハネに言葉を突き立てる。
「火力は認めるけど、あなた動かない的にも当てられないでしょ」
「あの原生林の真上からだぞ。そこから、人間の頭ほどしかない小さな的を――果たして撃ち抜けるか」
「ゔ」
痛い所を突かれたようだ。苦々しい声で一つ呻き、カザハネは膝の上のミズタエと共にふいっとそっぽを向く。対するロウカとルッツは、呆れを隠せない様子で自信満々だった器族を眇めるばかり。
空気が悪くなったところで、ぱちんと柏手の音。チハヤであった。
「はいはい分かった分かった、そんなに心配なら練習したらいいだろ! するなら山の裏手に行きな、爺ちゃんの狩場だから」
「裏手……」
提案に、ルッツが俯いて記憶を探る。
ここ数日、修士生達の
火脈、言い換えるならば、
「火山地帯に踏み込めと?」
「そんな心配しなくても、五十年に一回しか噴火しないよ。そんで今二十三年目」
「でもそんなところで何を狩るの」
「大猪とか大雀とか、とにかくでかい獣が一杯いるんだってさ。去年が豊作で数が増えてるみたいだし、いい間引き対象だ。あそこなら開けてて障害物もないし、的に丁度いいと思うけど」
こともなげに提案され、ルッツは微かに鼻面へしわを寄せた。
火脈旺盛な地相は――地質とその場所にいる妖精の性質にもよるが――人間の
そんな場所で、己の教え子を飛ばすのか。此処での経験が長い狩人からのお墨付きを貰っても、やはり不安なものは不安である。
しかし、練習する当の本人は、ルッツの懸念もお構いなしの様子。
「熟練の、しかも器族の狩人がそう言ってんだ。俺はその判断を信じるね」
「ワタシも」
「おまかせあ〜れ〜!」
志願した
なし崩し的に、作戦はまとまった。
‡
本日の昼食、絞めたてほやほやの
狩人の食生活は昼が最も豪勢である。王族の晩餐ほど絢爛ではないが、何しろどれもこれも今朝方に獲ったも同然――つまるところ、味はいい。
「早くぅ〜!」
「こら、落ち着けって。お座り」
「んぎゅぅっ」
食卓へ出す前に己とちまきの取り分を確保し、弱肉強食の奪い合いを回避。火が入ったままの竃の前で、チハヤはひたすら肉を切っていた。
無論、目を輝かせてそわそわしているちまきの為である。カザハネは神龍の食事がただの趣味であると言ったが、たとえそうであろうと、この嬉しそうな顔を見て食事をやらない選択肢は存在しない。
うろちょろと周囲を歩き回り、そうかと思えばビタンビタンと土間を尻尾で叩いて、またうろちょろ。どうにも落ち着きのない仔龍を諌めながら手を動かすチハヤの元に、ゆらりと姿を現わす者があった。
「チハヤ」
「ん、ミズタエ? どした」
すらりと長い水色の体躯、長く伸びた
ともあれ、強い火を使っている場に水龍が顔を覗かすのは珍しい。一旦肉を切る手を止め、深めの
「チハヤ、ちまき、空を飛んで。ワタシ、背を貸すから」
「ミズタエの背に乗って飛ぶのか?」
「ん」
それは構わないけど、とチハヤ。首を傾げるミズタエへ、ちまきの首根っこを引っ掴みながら問う。
「お前の主人はカザハネだろ。どうして俺を乗せて飛ぶんだ? この話、カザハネに許可を取ってるか?」
一体どう言う風の吹きまわしなのか、と。龍の仔を腕に捕まえ、長話を聞く姿勢で言葉を重ねなば、彼女はどこか気恥ずかしそうに盥の中へ身を沈めた。
その所作に察する。この話は、彼女の
そしてチハヤは、そんな乙女――実年齢は恐らく乙女などという次元の話ではないだろうが――の内緒話を台無しにするような性格の悪い男ではない。何の話、と無邪気な疑問を呈するちまきへ、心血紋を通して事情を説明してやりながら、青年は静かに返答を待った。
ミズタエから、とてもとてもか細い返事があったのは、ちまきへの事情説明が終わるか終わらぬかと言ったとき。
「火脈、怖い。お願い、ついてきて」
「ぅぎゅー……」
納得した、という風なちまきの鳴き声に、ミズタエはますますしゅんとして、遂には盥の中に頭を突っ込んでしまった。
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