十三:神器
時は流れ、夜。
星神の機嫌がいいのか、或いは単に天気がいいだけか、そのどちらもか。村を覆う帳には宝石を撒いたように星々が輝き、その下では今日だけの賑やかさが昼と変わらず続いている。いつもは獣や魔物を恐れてすぐに消される灯火も、豊穣の夜だけは朝まで明るい。
そんな煌々たる灯りの中、チハヤはちまきを肩に乗せて夜の市を冷やかしていた。
「おっさん」
「おぅ? お前さんが鍛冶屋に顔出すってなァ珍しいな」
「弓が欲しいんだ」
店頭には客寄せの小物や装身具、奥には殺傷力を持った武具と防具の類をそれぞれ置いた小さな露店。掲げた木の看板に押しつぶされるような格好で建つ屋台を覗き込めば、炭をぶちまけたような黒い髭と鷲鼻、そしてその奥に鋭く光る灰色の眼が現れる。齢四十かそこらほどの彼は、百八十
彼らは
さて。その
「弓ィ? お前さんの腕なら手作りで遜色ないだろうに。何だっておいらン所に」
「
チハヤが呼ぶは鍛治師の名。その独特な法により己にのみ届く声の調子に、ヨイケの目はいつもと違う鋭さを帯びて狩人を見た。チハヤもまた彼を見ていて、その肩に乗る小さな龍までもが同じく視線を送っている。ただ真似をしているのではなく、事情はもう知っているらしいことは、揺らぎのない瞳の輝きが雄弁に語っていた。
見つめあっていたのは僅かな間。そこからややあって、ヨイケは首を振った。
「何で?
「おいおい冗談言うなよな。市の夜だぜ、夜の市だぜ? えげつねぇもんがえげつねぇ奴経由で叩き売りされてるってなァよく知ってるだろう。お前さんそれで昔えげつねぇもん掘り出して帰ってきたもんな」
「あのまな板ごと真っ二つにする包丁の話はやめてくれ。……じゃあ何、おっさんが儲けも放り出して俺に勧めたいもんが出てたってこと?」
霊具打ち。
そんな優れた霊具打ちたる彼が、わざわざチハヤに他の何かが作ったものを勧めるとは。先程の神器の前振りといい、嫌な予感しかしない。思わず
炉に燻る
「弓の神器が夜市に出てる。月の女神様か豊穣の神様かは知らんが、とにかくありゃ神器だった。店主は何も知らんと投げ売りしてやがるぜ」
「嘘だろおい」
「本当だ」
ヨイケは嘘を言わぬ。それはチハヤが一番よく知っている。しかし、渡し守から得た
だが、ヨイケは大真面目も大真面目。更にずいと膝を寄せ、きらん、とばかり目の奥を光らせた。比喩ではなく、灰色の眼の中で火の粉が赤く爆ぜる。
「神器は相応わしい相手にしか素性を明かさんものもある。あの弓はその系類だ」
「ほぉお? じゃあ何だい、俺を実験台にしようっての? そりゃねぇよおっさん」
乗り気でないチハヤと、そんなこと言わずに見るだけ見てこいと言い張るヨイケと。二人の意見はどこまでも平行線を辿ったまま膠着して、不意に破られた。
「きゅぃい〜ぅ〜」
「何だちまき?」
「みぃいくぅー」
「見に行く? えぇー……」
「いくぅーっ! チハヤぁ〜〜っ!」
――ヨイケの話は信憑性に足ると思う。しかしながら、神器などというとんでもないものを、一介の狩人に過ぎぬ自分が持っていてもしょうがないのだ。己はあくまでも狩りの道具として弓を扱うし、狩りのための弓しか求めない。城を墜とすような超火力など、あっても無駄で無意味である。
そのことを心血紋伝いにちまきへ説明してみる。しかし聞き入れてくれない。狩りの道具を探していることは分かっている、でも後からきっと絶対役に立つから、と頑強に主張して、そんな真面目な考えはおくびにも出さずにじたばたくねくね。最早行くと言わない限り梃子でも動きそうにない様子に、とうとうチハヤも折れた。
「分かったよ。ちまき、行こう」
「! ぎゃぅーっ!」
かくして、チハヤは神器が売られていたと言う店へと向かうのであった。
‡
「さーさー! 寄ってらっしゃい見てらっしゃーい! 豊穣祭限定! お安いよー!」
大市の開かれる敷地の端、最も山に近い片隅で、神器を売っているという店の主は元気に声を張り上げていた。
ちまきとチハヤで顔を見合わせ、揃って周囲の状況を確認。山にほど近いこの近辺は、あまり素性のよろしくない店までも平然と立ち並ぶ。それ故に人通りはなく、あったとしても明確な目的を持っていて、目的の屋台を見つけた途端そそくさと奥へ姿を隠すものばかり。その中にあって華やかな声と空気を発散する様は、何処か常軌を逸脱して見えた。この場に見えている人には興味がない、とでも言いたげだ。
これはどうも怪しい。チハヤは自然と警戒態勢を取り、ちまきも肩から自然に飛び降りる。放つ空気はしかしいつもと変わらない。こんな物騒な場所で露骨に警戒などすれば、他の少しばかり非合法な連中までもが腰を浮かせてしまう。それは今この段では不都合で、故に狩人は、己の放つ気配から剣呑な色だけを消して近づいた。
「おっいらっしゃい! お狐さまのお手製細工、今日だけ特別お値段だよー」
店主は、チハヤの目には平凡な
艶のある飴色の長髪と、同じ色の毛皮が覆う狐の耳と尻尾。やや下がり眉。琥珀を磨いたようなつり目がちの双眸。見ない顔だが、狐の獣人全般としてはごくありきたりか、水準よりは整っている程度の顔立ちだ。黒い服は玉龍山の村でよく見る頑丈さ重視のそれではなく、
最近村に入ってきた新参者。チハヤが抱いたイメージはそんなものであったが、ちまきは違うようだった。
「ぅぎゃぅ」
「あれっ
「ぎゃぁーう!」
「ひえぇ
「ぐわーっ!」
チハヤが異変に気付いて押さえつけるより早く、店主の顔にちまきが飛びついた。生まれたてとはいえ、その身体はそれなりに成長した大型犬の仔犬ほどの大きさと目方がある――つまり、割と大きい。その割と大きな仔龍のぽってりした四肢に、店主はなすすべもなく頭を抱え込まれた上にべろべろと耳を舐められ、もう繕える体裁もなく手をばたばたさせた。
そんな店主の、一見凡庸に見える顔。それが黒い
「チハヤ〜!」
「ぅぶっ! やめ、ちょっと、こらっ! 舐めるんじゃない、落ち着けってば」
顔をベールで隠した――もとい、下の素顔を偽装しようとしていた――店主が抵抗を諦めて倒れこみ、一仕事終えた風に地球儀の頭へ飛び付いてざりぞり舐めてきたちまきを、チハヤは優しくもきっぱりと引き離す。ぎゅーぎゅー言って拗ねるのは背や頭を撫でて宥め、十分に仔龍の気分が落ち着いたところで、チハヤは改めて狐の獣人と思っていた店主に視線を向けた。
艶やかで長い髪と、仔龍に舐められて毛並みが艶々になった耳は同じ。服も変わっておらず、尻尾もふわふわ加減が少し萎れただけで特に形が変わったわけではない。ただ、顔を顎下まで隠す幾重のベールだけが違っていた。強いて言えば纏う空気も少し変わってはいるが、これはもう渡し守やちまきのせいで感じ慣れている。今更臆するようなものではない。
――つまるところ、店主は
とはいえ、そう飛び上がって驚くほどのことでもなかった。何しろ、人に紛れて民草から商品を強請ろうとする大精霊がいるのだ。売り子として人に紛れている神性がいたとしても、それを特上の驚きと見るには至らない。
だが、その神格が神器を投げ売りしているのにはチハヤの興味が引かれた。
誰かから委託でもされているのか、とぼんやり考えて、ないないとかぶりを振る。同業者同士の売りあいではないのだから、まさか自身の権能の塊を他の上位存在に託して、あまつさえそれを詰め放題の端切れ同然の値段で売りつけるなどと言うことはするまい。
……ともあれ。
「あぅー大変な目に遭ったぁー……」
店主がようやく正気に戻って身を起こせば、チハヤは店先にぽんと置かれた弓の方へ意識を注いでいた。
全長およそ百二十
総評して、チハヤはその使い勝手を判じかねた。そもそも総金属製の時点で評価出来ないのだが、美術品と言うには形が実戦的すぎるし、武具と言うには人目を引きすぎる。これを狩りの道具としてどう扱ってよいものやら、狩人にはさっぱり分からない。助けを求めるようにちまきを見ると、綺羅星よろしく期待に目を輝かせている姿が視界に入ってくる。どうあがいても手に取らせるつもりのようだ。
これはもう持って確かめるしかあるまい。覚悟を決め、チハヤはまだ呆然としている店主に声をかけて許可を得た後、そっと握りの部分に手を掛けた。――刹那。
「! な、んだ、これ……ッ」
心臓が――いや心血紋が、刃で抉られたように痛んだ。
ちまきと
仔龍と通じあったときも今も、チハヤを苦悶せしめるものの正体は同じ。即ち、外部から一方的に、本来受け取れない場所へ流し込まれる情報だ。普通なら受け止めきれないものなのだろうが、心血紋伝いの情報授受が出来るようになった今なら、落ち着いてやれば捌くことが出来る。
深呼吸を数回。視界を閉ざし、何度も反響しては訴えてくる情報を読み取った。
――その名は“
――持つに相応しき者がこれを手にするとき、この弓はその者にとって最も使いやすい形状に変化し、また手にする者の隠形を援ける。そして、危難の中でこの弓に矢を
チハヤが理解出来たのはここまでだった。他にも何か細かいことを教えられた気もするが、大筋を大雑把に把握するので今は精一杯だ。
キリキリと絞られたような不快感を堪えながら、どうにかこうにか神器の名と使い方だけ覚えた狩人は、固く握りしめたまま離せない左手の指をゆっくりと解し、時間をかけて弓から引き離す。
そこに、様子を見ていた店主から木杯が差し出された。素直に礼を言って受け取り、満たされた冷たい水を干すチハヤへ、店主は無造作に言葉を放り投げる。
「私の作った弓、どーですぅ?」
「嗚呼、道理で……制作主かぁ」
「はーい!
情けないことにこの神器、値札が付いていた。書かれている値段も、百
だが……
「百纏はいくら何でも安すぎるだろ。もっと出そうか?」
「あらま! 担い手の方に身銭を切れだなんて、そんな無体なこと」
「でも、色んな手間隙かけて作ったんだろ? 手間だって価値だと思うよ」
「はぅあっ……そ、そんな価値だなんて……!」
「いーから取っとけってのー」
いい仕事にはそれ相応の対価を。それがチハヤの流儀であり、曲がりなりにも細工師として小遣いを稼いできた者としての礼儀であった。
あわあわするトキネの前に、躊躇いなく差し出したのは翠玉貨十枚入りの小袋。それだけの価値があるとチハヤは信じて疑わず、その力強い支払いに神霊はますます慌てる。こんなに受け取れませんと、悲鳴のような声を上げるトキネには構わない。
弓を腰鞄の中に収納し、ちょろちょろと周囲を歩き回るちまきの首根っこを掴んで抱き上げ、そのまま肩へ。大人しく収まった仔龍を優しくひと撫でし、チハヤは悠然と踵を返した。
「ぁっあ、ありがとうございましたァ――ッ!!」
後に残るのは、閑散とした街路に飛び散るトキネの喚声と。
その音量に商談を邪魔された、素性のよろしくない連中からの怒号ばかり。
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