第一章:神龍崩御せり
一:呪縛の野
呪われた地、というものがある。
例えば有限の内に無限を内包する迷いの森。例えば火山の最中に有りて氷雪の
原因は多くの場合分かっていない。分かっていないとされてきた。
しかし、もしも
彼は今、土地を呪う原因を見ていることになるのであろう。
「ひ、ィ……」
枯草と倒木ばかり広がる地の只中。見慣れた狩場に現れた見慣れぬ広野の真ん中に、
全身を覆うのはざらざらとした砂色の鱗と、いやに青々と生す苔。琥珀めいて艶やかに透き通る二本の巨角。絡みつく無数の
貌は
震えた拍子に得物の弓が手からすり抜け、枯草に落ちて乾いた音を立てた。
「ぁ……あ、」
何時御隠れになられた。村には直々に加護を受けた神官が常駐し、毎日二回声を聞いている。それによれば、一昨日も昨日も、今朝ですら声を聞いたと言った。その御声は何時もの通り慈悲と力に溢れていたと。近く執り行われる豊穣祭に励むべしと。あまりにも死が唐突すぎる。一体何がそうさせた?
狩人としてのチハヤの観察眼は、信仰の対象が死した衝撃と驚きの渦中にあって尚、冷静に沈着にその原因を推し量りつつあった。身体全体を検分し、木や草に触れて出来たであろう細かな傷一つ一つの深さ重さを測り、見るだけで分からぬとなるや遺骸に近づいていく。微かに震える手が頚の鱗に触れると、氷のように冷え切った体温が感じられた。儚くなって時を経ているのは明白時だった。
砂岩を切り出したような鱗に触れながら、頭の方に歩いていく。琥珀色に透き通った頭角や棘は惚れ惚れするほどに美しい。これが
そして、今。チハヤの持つ知識と経験の中で、神の命を
外的でないならば、可能性は極端に絞られる。老衰か、病毒か。しかし前者は考えられない。神なる身に寿命の概念は存在しないから。これが
となれば――
「解呪……
一番考えたくない可能性を手元に残してしまった狩人は、それだけ絞り出した。
チハヤらに、彼ら種族に、これをどうにかすることは出来ない。神を侵すほどの病毒も、神なるものの死が遺す呪縛も、彼らの積み上げた知識と智慧で何とか出来るものではない。彼らは霊威というものに対して極端なまでに無力で、こうした事態の時には必ず、すべを持った者の力が必要だった。
不幸中の幸いか、村に常駐している神官は二人いる。片や豊穣の龍の加護を受けたもの、片や医薬を司る御使いの加護を受けたもの。後者は
取り落としていた弓を拾い上げ、狩人は速やかに踵を返した。
‡
豊穣の神龍が隠れなさった。
治癒師と、その友人である村おさがチハヤからの報告を受けたとき、既に村は押し殺された不安と恐怖で浮足立っていた。考えるまでもない、もう一人の神官が触れ回ったのだ。我が元に豊穣神の啓示来たれり、劫火が村を
ねっとりとした視線が、家々から街路を往くものに注いだ。不安と、恐怖と、それをほぐしてくれるかもしれぬという期待と。反対に
「なぁ」
耐えがたくなるのに時は然程必要ではなかった。足音ばかり漂う静粛さを、チハヤの声が切り裂く。隣に並んでいた村おさは地面を見つめたまま無言を貫いたが、治癒師は同じように人の声を求めた。自然と三者の並びは変わる。狩人の先導は変わらぬまま、村おさは下がり、治癒師が替わって隣り合った。
治癒師に向けられたチハヤの視線には、濃い疲労と思案の色が滲んでいた。
「
「君が山入りした直後。第一
「五
あの丘じみた巨体が冷え切るには、少し短すぎる気がした。今は冬と春の間で、第一翠玉刻――つまりは夜明け前ともなれば氷が張るほど気温が下がるから、或いはその時間に死したならば在り得るかもしれぬが。それに己は背の方ばかり触っていた。主に獣の熱がこもるのは腹であるから、仮令背や四肢が冷えていたとしても、はらわたにはまだ熱が籠っていたのかもしれない。或いは、あの骸が実はより以前からあって、神官に啓示をもたらしていたのが別の
などと。自身の心中に降って湧いた疑問に辻褄を合わせられる理由をあれこれと探し、チハヤは心の平穏を何とか保った。
狩人とは実に合理的で慎重である。それは同時に、理屈の立たぬことに対する恐怖が人一倍強いと言うことでもあった。時に理不尽さを湛えて待ち構える山、その只中に有りて湧く感情に抗えるものは、決して多くない。ほとんどは他に縋ってそれを薄めるか癒すかした。あるものは妻子を持ちそのために戦った。あるものは学を極め理を以って対峙した。またあるものは信仰にのめり、
チハヤもそうだった。彼に妻子は無いし、人間ほど信仰に篤いわけでもなかったが、その代わり知と賢と学に於いては自信がある。多くの不可解さについて紐解き、それを記述することで、チハヤは心の安寧を得ているのだった。
長く沈黙を挟んで、狩人はおもむろに喉を動かした。
「龍の死体に傷は無かった。折れてもなかったし、打ち身らしいところもなかった。……何が、殺したんだろうな」
信心深いものならば眉をひそめそうな言い草であろう。
けれども、咎めるものはない。片や命の終わりを幾度も看取ってきた治癒師で、片や信仰の薄い学究と狩猟の徒である。どちらもごく冷静に龍の死因について思いめぐらせ、状況を頭の中で思い描いては、そこに己の知識を以って理由という肉をつけていく。
やがて治癒師は、独自の思考を以って狩人と同じ結論に達した。
「病気かなぁ……」
「やっぱりそう思うか?
「
最後の一言をチハヤは聞き咎めた。
病が呪いに近いとは?
「どういうことだ」
「得体が知れないってこと」
冷や水を掛けられたように、心臓が縮んだ。
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