二十:幸運の鉤針と糸
浅い所で浮沈を繰り返す意識が、その茫洋さの中で捉えたのは、足先から胸までにかけて掛かる重み。それに僅か浮き上がった正気が次に感じ取ったのは、ずきずきと脈動する頭の痛みと、その疼痛の発生源から伝わる日向のような暖かさ。次いで少しずつ消えていく頭痛の不快感。
「…………」
「気が付いた?」
本格的に覚醒し、重い身を起こせば、痛みを刺激しない柔和な声が届く。頷くことで肯定を示し、寝起きで定まらぬ視界を改めて開いたその先に、人懐こく笑う痩躯の男は座っていた。
緩く下の方で結った黒い髪、垂れがちの銀目。高い鼻梁に銀縁の眼鏡を引っ掛けた姿は、今し方目を覚ましたばかりの青年――カザハネにも見覚えがある。
「あんたは、治癒師の……」
「ナナハシです。まだ痛い所はあるかい」
「ぁ……いや。もう平気だ」
治癒師の、ナナハシ。
しかしながら、土地の呪いなど原因が分かることの方が少ないし、分かったとして解呪出来る者もほとんどいないのだが。それがこの、
ぼうっと考えに耽っている内に、もう少し休んだ方がいいと促された。大人しく掛けられた毛布の中に潜り込んだところで、ふと気付く。
最後に殴り倒された河原ではない。尻の下でふかふかしているのは紛れもなく寝台の敷布団であるし、ちらと見回せば、宝石細工や小さな置物が、真っ白な漆喰の壁に沿って設置された棚に数多並んでいる。チハヤの家は壁と言うと素朴な板張りであるし、調度も必要最低限。こうも細々とものは置いていないはずだ。
がばりと布団を跳ね除け、不思議そうな顔をしているナナハシに問いかけた。
「ナナハシ、此処は?」
「村の診療所……あー、まあ、
図星。自身の胸中を言い当てられ、気恥ずかしくなったカザハネは、何も言わずにまた布団の中に潜り込んだ。
蓑虫のようにこんもりと毛布を被った中から、くぐもった声が溢れる。
「ミズタエが何処にいるか知ってるか?」
「しばらく一緒にいたけど、治ったって分かったら飛んでっちゃったよ。拾った宝石を誰だか言う人に磨いて貰うだとか何だとかって、そんなこと言ってたけど」
「宝石……そんなの聞いてねぇぞ」
「チハヤと一緒に飛んでる時に見つけたってね。ええと――そう、トキネって人に加工を頼むとか」
トキネ。聞いたことのない名前である。それは誰だと聞き返しても、己は知らぬと首を横に振られるばかりで、いまいち要領を得ない。その表情は本当に不思議そうで、彼女と結託して隠しているとか、或いは存在自体をでっちあげて別のことをしているとか、そう言ったことをしているわけでもなさそうだった。第一、そんなことをしても意味がない。
だが、だからと言って己の与り知らぬところで動かれるのも、それはそれで困る。万が一今日のようなことが二度も起きては、今度こそ己は感情を抑えられる気がしなかった。堪らず再三布団を跳ね飛ばし、気だるさの残る身体を起こす。
遠くの相棒へ、呼びかけるのは簡単だ。龍騎士は徐にシャツの袖へ右手を掛け、捲り上げて手首を晒した。興味を引かれたナナハシが覗き込めば、そこに浮かぶのは青い紋章。三重の光輪を背に六翼を広げた龍の意匠に、治癒師の目が関心した風に細められる。
「へぇ、
「あいつのは心血紋っつって、もっとヤベー奴なんだよなぁ……」
「ふぅん。そんな凄いことしてる風には見えないけどね、彼」
事もなげに言って首を傾げるナナハシに、龍騎士は黙って肩を竦めた。
龍と契りを交わすとは、大雑把に言えば龍と家族の関係を築くようなものと言える。その家族としての親密さが、つまりは契約の成立時に現れる紋の格の違いだ。その格は全九段階。己の持つ紋も比較的上位――当代の龍騎士の中では飛びぬけて高いらしい――だが、チハヤの心血紋はそれをはるかに凌駕する。
そして。例えば己がミズタエと
だが、彼等の縁と言うのは、紋ありきの脆いものなどでは決してない。ある種の確信を秘めて、カザハネは手首の盟約紋に左手を乗せ、強めに握り締めた。
〈早よ帰ってこい、相棒〉
いつものように呼びかける、けれども確かにいつもとは違う声。それがとても親愛の深い形へ変じた聖句であると、
何しろ、ナナハシには器族に見えぬ上位存在が見える。彼の目には、聖句を発した途白い傘を抱えた小人がわらわらと姿を現し、何も知らぬ龍騎士の言を巻物に書き留めたかと思えば、細く開けていた窓の隙間から瞬く間に出て行く姿が見えていた。カザハネは気付いていないようであるが、どうやら彼もまた、チハヤと同じく上位存在に好かれている類であるらしい。
やや逡巡した後、ナナハシはゆっくりと口を開く。伝えた方が良かろうと思って。
「随分、好かれているね」
「?」
「
「…………」
龍騎士の反応はあまり思わしくない。どうも踏んではならないものを踏んでしまったらしい、と、そうナナハシが勘付いた時には、青年はひどく沈鬱に顔を伏せているところであった。
自分が好かれているわけではない。重々しく呻いて、窓の外に視線を逃す。
透明なガラス板をはめ込んだ窓は、王都では貴族階級の家にしか備わっていない高級品だが、材料も技術も人材も豊富なこの村では一般普及品であるらしい。ともすれば貴族の持ち物よりも質の高そうな向こうには、いつもと変わらぬ、憎たらしいほどに晴れた空が青々と透けていた。
見えぬ上位存在を睨むような、どこか剣呑な視線で朗らかな青さを射抜きながら、喉の奥から呪うような追認を零す。
「全部、ミズタエの力だ。俺じゃない」
「……そうかなぁ」
治癒師の返した否定はのんびりしていた。
「多分だけど、釣り得意でしょ。坊主になんてなったことないんじゃないかい?」
「? ないけど、そりゃ――」
「そう、漁師だから潮目を見るのが得意ってこともあるだろうけどね。でも、一度は海の精霊に詳しい人に見てもらった方がいいと思うよ」
そう告げつつも、眼前はまさに、堂々とカザハネの頭に仁王立つ、釣竿を担いだ小人の姿が見えている。小脇には
何かの冗談かと思えば、本気で転んだだけであるらしい。涙目になりながらもそもそと起き上がったそいつは、しかしカザハネが寝台へ手をついたことで見事に追撃を食らい、路傍で轢かれたカエルよろしく
何とも落ち着きのない精霊に気に入られたものである、と言うのが、釣り少年を見たナナハシの抱いた感想だった。
「何かいる?」
「釣竿抱えた男の子が一人。
何事もなかったかのように――恐らくは背中でもよじ登ってきたのだろうが――また頭の上で高笑いしている精霊を眇めて、ナナハシは笑いを堪えながら頰を掻く。
この面白いのがまるで見えていないのは何とも寂しいものだが、常時見えていても大変そうな少年である。だが、一度くらいは認識しておいた方が良いかもしれない存在であった。
「君らしいね、ほんと」
「何じゃそりゃ」
「見たままを言ってるだけさ」
いかんせん他人に、しかも器族に精霊を見せる手段を、ナナハシは持っていない。チハヤならば惹霊香を使って場を整えられるのだが、仲違いの真っ最中だ。
早く仲直り出来ればいい、と。治癒師は人懐こそうな笑みを浮かべたまま、心中だけで密かに祈るのであった。
†
「カザハネ先輩、聞きましたよ」
「みっともねーから蒸し返すのやめろ」
「そう言うと思ってルッツ
今日の調査は終わったらしい。小脇に中質紙の
手近な椅子に腰掛け、首から膝に降りてきた蛇龍の顎を撫でながら、
一度瞬き、片目だけ閉じる。磨き上げた宝石のように鋭く双眸が光ったかと思えば、見つめる少年の
その曰く。
「
「ベね……何て?」
「
「さぁ、そもそも精霊とか見えんし」
「器族はそうかもですけど、普通声くらい聞かせるものじゃないですかね? こんな堂々と寝てるの初めて見ますよ」
そう言って首を捻ったジャノメの前で、少年は
うわっ、と思わず身を引いた
そうして、八重歯の目立つ口を開けば、小生意気な声が意識に直接飛んできた。
――よォ見えたナァ。
――己等の格好が見えたっちゅうんはよくおるが、
見た目はあどけないが、途轍もない北西なまりだ。生粋の北西人であろうと、今どき此処まで癖のある喋り方はしないだろう。
幾分気圧されながら、ジャノメは何とか声を絞り出した。
「か……影読の家系。です、けど」
――ほっほっほっほ! 気ンすんなェ、己等ァ敬うこたねェべ。気楽ン行こャ。
――ほかほか、影読なァ。夜神
「夜神様と、知り合い?」
――知り合い、ンまァ知り合いだべな。たまに裁判の手伝いすっぺよ。ンだ、折角だべお前も己等が覚えめでてくしちょくか。
――お前は何ちゅう。
「何ちゅ……?」
――名前じゃ。聞かせェ。
「ジャノメ……蛇の目で、ジャノメ。リャン、覚えをめでたくって一体」
――何ちゅうこたねが、
――なァに鯛も鯵もよォ釣れるべ、気にせんと受け取りやい。
「は、はあ……?」
何から何まで、全くもって唐突な上位存在である。ジャノメはひたすら困惑げに目を瞬き、姿も声も感知していないカザハネに至っては不審者を見る視線を向け、少年はそんな二人をにまにまと楽しげに見守るばかり。
これは此方が何か言わねば何も進まぬと、影読の青年は困惑紛れに自身の黒髪をくしゃくしゃと掻き回し、頭の中から言葉を引きずり下ろした。
「リャン、俺に何かくれるのは嬉しい。でもその前に、憑いてる本人にも何か言うべきじゃないのか?」
――器族に聞かせる声はねェ、己等が声は空気ば震わせられんがよ。これにやれンのは鯛と鯵だけだべ。
「そうやってコソコソしてるせいで気落ちしてるとしても? お前だって上位存在じゃないか、何とかならないのか」
――何ともならんべ。
――あんなァ影読やィ。これが
――これが殴り付けた狩人見てみィ。アリャ己等達と喋り方ァ知ってンべ? 己等達が喋りやすい場所の作り方も知ってンべ。寄り付く数が多い少ないなんぞ関係ねェよ。
何とも薄情なことだ。思わず眉根を寄せながら、ジャノメは顔色を伺うようにカザハネを見上げた。対する器族は、やはりまるで気付いていないのだろう、訝しげに首を捻りながら見返してくるばかりだ。
リャンの言葉を伝えるべきか、否か。逡巡する後輩に、掠れた声が投げられる。
「何か言ってるか、リャンってのは?」
「…………」
「いい、言ってくれ。蚊帳の外で色々喋られるのは嫌だぜ俺は」
「……上位存在が寄り付かないのは体質の問題ではない、とか。喋る努力をしてないから今の状況があると」
怒るか、消沈するか。いずれにせよ動揺するであろうと身構えたジャノメを余所に、カザハネは至って冷静。すっかり傷の癒えた桐戸棚の頭、その正面に艶めくガラスを人差し指の先で叩きながら、何事か思案に耽る。一方で、普段激情的な先輩の見せる落ち着いた様に、後輩としては驚きと当惑が隠せない。目を瞬き見守る前で、歳の割に低めの声がぽつりと転がった。
「なあ、チハヤって今家にいるか?」
「え? いや、さっきは居ませんでした」
「どっか行くって聞いてるか」
「いえ、何も。書き置きもなかったです」
「んー……じゃあジャノメ、『トキネ』って名前に聞き覚えは?」
「トキネ……チハヤさんの弓作った神霊の名前がそんなでしたけど。村外れの
首を傾げど、答えは無く。桐の戸棚の頭からは、如何なる表情も読み取ることは叶わない。思わず眉根を寄せ、睨むように観察する後輩の視線も意に介さず、カザハネはしきりに戸棚の側壁を叩きながら何事か計算し続ける。
やがて上げられた頭の向く先は、ジャノメとは反対側。平原ではまだ珍しいガラス窓の更に奥、青々と広がる空の只中に煌めく、水色の鱗持つ龍であった。
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