二十一:しがらみの外

 ナナハシの営む治療院の裏手、薬草を干す為の作業場へと降り立ったミズタエの背には、しっかりと載せられ固定された龍鞍りゅうあん。その上には人と龍が一人と一柱。覚束ない手つきで脚を固定する革帯ベルトを外し、把握帯にしがみつくような格好で地に降り立とうとしている地球儀頭の青年と、その肩にしがみつく砂色の仔龍を、一体誰が見間違えようか。

 そろそろと慎重に背から降りてきた器族――もといチハヤ。その横顔に龍の契約主カザハネが掛けた声は、最早怒りと呆れを一周回って、深い感心めいたものすら滲んでいた。


「チハヤ、お前また他人ひとの龍を勝手に乗り回しやがって……」

「ごめん」

「謝って済む問題かこの野郎。それでまた墜ちたらどう責任取るつもりだ?」

「シンタン……嗚呼、角の生えた闇霊人ダークエルフみたいなのがいたと思うけど、そいつに相談した」


 ――あのいけ好かない美形のことか。

 すぐに察して、しかし不愉快な気分は内に押し込めた。個人的な感情でどうこう出来るような存在でないことは、先刻の一件で重々身に沁みた次第である。

 それでも不快感は隠せない。溜息をつきつき、腕を組みながら黙って続きを促す。先の悶着を知ってか知らずか、チハヤは手持ち無沙汰にちまきの喉を撫でながら、恐る恐ると言った声音で答えた。


「そのシンタンにもう一つ、低位の加護を授けてもらったよ。本当に危険なものとそうでないものを見分ける、本当に初歩的な鑑定の恩恵だ。ちまきの加護は今更取り消すわけにもいかないから、せめて見えてるものの内容が分かればいいと思って」

「…………」

「俺は、慣らしに付き合ってた。シンタンについて一番良く知ってるのは俺だから」


 思わず視線をチハヤの背後へと飛ばせば、彼女もまたカザハネを見ていた。

 龍の顔はあまり表情が読めるものではないが、カザハネには分かる。ミズタエはまるで悪びれていない。むしろ、主人を脅しつけるような鋭い眼光を以って、次に続くであろう叱責を牽制している。普段は然程自己主張しない物静かな女龍の、今ばかりは堅固な意志を秘めた双眸に射竦められ、沸々と煮える苛立ちはすぐに鳴りを潜めた。

 張り詰めた沈黙が僅かに流れて、先に折れたのはカザハネの方。振り切るように大きく深呼吸を二回、無意識の内に足下へ向けていた視線を晴天に向け、やれやれと言わんばかりに腰へ手を当てながら言葉を吐き出す。


「何やってたか知らんけど、まあミズタエは無事だ。それに、これ以上お前を殴っても俺がただの悪者になるだけだし、拳は勘弁してやるよ」

「まあ、俺に非があるのに俺が殴るのもおかしい話だしね……」

馬鹿野郎ばっきゃろー、そこを殴り合いで解決するのが男だろ。――でもまあ、おめー暴力沙汰で解決しようっつっても絶対聞かなさそうだしな。代わりの賠償を請求する」

「俺に出来ることなら何でも」

「よし言ったな、晩飯をもっと弾め」

「なんて?」


 暴力の代わりにぶつけたのは、あまりに愚直な欲望。どんな過酷な要求をされるかと内心身構えていたチハヤは、子供のような言い分に思わず聞き返す語尾を上げた。

 しかしながら、カザハネにとって食事の量と質は重要な要素である。狩人は満たされすぎると集中力が切れるとの理由から、最低限の滋養しか身体に入れようとしない。だが、漁師は荒れ狂う海の上で、しかも常時揺れる船を操らねばならないのだ。どんな大時化おおしけにも対応出来るだけの体格と、それを維持する為の滋養は必須であるし、その習慣は何処へ行っても消えはしない。

 とは言え、根っからの狩人であるチハヤにはいまいち通用しない価値観だ。そこまで必死になることなのかと首を傾げ、しかし約束を守る者としての姿勢で、至極生真面目に問うてくる。


「まあいいや。献立の要望は?」

「肉」

「いくらなんでも大雑把すぎだろ」

「おう、漁師だもん俺」

「いやそうだけどさ……後で気に入らないからって文句付けてきても知らないからな」


 そこまで狭量じゃない、と肩を竦めるカザハネに対して、チハヤはくすりともせず。善処してみる、とあくまでも真剣に頷き、漁師を困惑させるのであった。



 場所は移り変わり、ナナハシの診療所から、チハヤの自宅へ。

 たっぷり半石刻しゃっこくかけて戻ってきた二人と二柱を待っていたのは、何やら落ち着かぬ様子で周囲を見回す器族の男だった。

 真鍮の緯度尺とそこに施された装飾を陽光に煌めかせ、けれどもその優美さに反して暗い空気を纏うその頭は、チハヤと同じ地球儀。見間違えようもない、ヤライである。普段は村の東端で暮らしている父が、何故西端に近い所にある子の家まで、しかも焦った様子で訪ねてきているのか。分からぬなりに不穏さを感じ取り、チハヤとカザハネは揃って顔を見合わせた。

 街路を往く足を早め、急ぎ父の元へ。その足音で気付いたか、はっとしたようにヤライは青年二人の方を振り返り、正体を検めるや否や安堵の溜息をついた。続けて放たれるのは、無事で良かった、などと言う物騒極まりない一言。若き狩人と龍騎士の視線が再び空中でかち合い、同時にもう一人の狩人の方へと向けられる。


「父さん、何事?」

「山の奥に人の分け入った跡があった。私が立ち入るよりも上の領域だ」

「どのくらい前?」

「二石刻しゃっこくほど。乗騎は伴についていない。泉で待機しているところを確認してある」

「父さん、そのこと皆に話した?」

「勿論。後は追わせていないよ」


 父子の間に交わされた言葉は、決して多くはない。だが、それだけで状況を判断するには十分すぎた。チハヤと、その肩に付き従う仔龍の纏う空気が見る見る内に剣呑さを増し、横で見聞きするばかりのカザハネも事態の異常さを知る。

 ヤライが足を踏み入れるのは森と呼べる限界の地点まで。そして、森を抜けた先は狩人の管轄外だ。即ち、狩人の守護神でもある金月の渡し守アウレアピーカの加護が及ばない。渡し守は加護なき人間にも目を行き渡らせる慈愛深き女神であるが、異界より移住してきた経緯いきさつも相俟って、その権能を行使できる範囲は限られている。どれだけ力ある神性であっても――否、力ある神性であるからこそ、彼女が取り決めた範囲を逸脱した者には、如何に望んでも守護の権能は発揮出来ない。

 それだけならば、まだ良い。普通の地であれば、上位存在かみがみの庇護に頼らずともどうにか出来る程度の実力はある。それが龍騎士ドラゴンライダーというものだ。しかし、此処は高山の中腹。森を抜けてしまえば、そこは真夏でも雪の降り積もる氷地獄である。地面に道など当然なく、水場は飲用に適さぬ硬水の池がほんの一つか二つのみ、慣れていなければ呼吸にまで難儀する。更には高地に適応した獣や、討伐しようにも出来ぬ魔物どもまでうろついているとくれば、者共の軽装で挑めるような生易しい場所では到底ありえない。

 父からもたらされた情報と、山の民として知る知識と知恵。己が頭に詰まったものを総動員して状況を整理しながら、チハヤは咄嗟に腰鞄へ手を突っ込み、銀の石時計いしどけいを引っ張り出した。

 現在時刻、第二水宝刻すいほうこく半。まだ陽は高いが、この時期の山は第二翠玉刻すいぎょくこくを過ぎるとあっと言う間に闇が覆ってしまう。残された猶予は残り一石刻しゃっこく半だが、どれほど山歩きが達者でも、玉龍山の森を抜けるにはあまりにも時間が足りない。森に入りさえすれば渡し守の守護圏内ではあるが、そことて悠長に野営出来る場所でないことは狩人が最もよく知っている。

 石時計を再び鞄にねじ込み、次に視線を向けたのは肩口に鎮座するちまき。心血紋を通し、今の非常事態については共有が済んでいる。理解しているかどうかの確認はしていないが、まずいことは掴んでいるだろう。

 まだまだあどけなさの抜けない、けれども幼いなりに真剣な表情と空気を滲ませて見つめる龍の仔に、ゆっくりと問いかける。


「ちまき、お前この山の主だろ? 居場所分かるか」

「んー、わか〜る」


 緊張感のない声だがこの際気にしない。黙って続きを待てば、恐らく言葉に出来なかったのだろう、こつんと鼻面を地球儀頭に当てた。

 途端、チハヤの脳裏を、が掠めて消える。どうやら誰かの現在地に関する知覚情報なのだろうが、渡された情報が多すぎたか少なすぎたか、ともあれ今のチハヤの能力で捌ける情報量ではなかったらしく、具体的な居場所は掴むことは能わず。もう一度、と意識を集中しつつ促せば、今度は仔龍もその気で委ねたか、心の臓の真上に刻まれた紋が焚べられたような熱を帯びた。

 ――再びの、白い風。かと思えば意識を緑が、そして極彩色が塗り潰す。広がるのは春の陽気に起き出した高山植物の花々で、非常事態でなければ見惚れて立ち尽くすほどの絶景であったろう。しかし、今はそれどころではないとばかり花畑は後ろへと流れ去る。

 あたかものそれを借りたような視界の向く先は、永遠に続くとさえ思える花畑の、そのまた更に奥。熟達した狩人も――それこそヤライやトウヤでさえ――滅多に立ち入らない領域だ。

 立ち入らない理由など決まっている。その先が、人間の立ち入ってよい領域ではないから。

 その先は……


雲曳竜オウィスの巣の方向……」

「こどもいっぱ~い」


 玉龍山の超高山帯に住まう、神の座を持たぬ竜の類ドラゴン。高い空を棚引き、遠からぬ雨の到来を告げる筋雲と春雨の眷属。雲曳竜オウィスの名を持つかの竜らは、初春の時期に子育てを行う。そして、育児期間中の獣はどれもが――仮令それが知恵高き竜種であっても――縄張りに他を入れたがりはしない。一応温厚で知られる竜であるから、迷い人を傷付けはしないとの確信はあるが、それでも一夜の間借りを許すかどうかはチハヤにも予想出来なかった。

 カザハネとミズタエ、ヤライを置き去りに、チハヤとちまきで考えること十数秒。互いに持てる知識と情報をすり合わせ、そして結論する。


「父さん、このこと爺ちゃんにも伝えて、後治癒師のどっちかも呼んどいて。俺行ってくる」

「分かった。下山までに日が暮れてしまうようなら私の家に来なさい」

「うぃ、ありがと。……カザハネ」


 父との会話は手短に終わった。山の上まで迷い込んでしまったものの救助自体は、チハヤにとって全く初めての経験ではなかったから。大体、ちまきが孵る前のお包みに使っていた例の布の原料とて、誤って逃げ出してしまった羊の捜索中に出会った竜から頂いてきたものだ。その経験がなければ、いくら山の民とて日の入り前の山になど登ろうとは思わない。

 とにかく。

 きちんと話を通すべきは、以心伝心の父よりも、その隣で事を静観するカザハネの方であろう。向き直った狩人と仔龍に、龍騎士とその乗騎もまた向かいあう。


「お前も来るか?」

「勿論。俺の大事な後輩だぜ、お前一人に任せとけるかってんだ」

「へぇ?」

「任せろって。空の上ならお前よか上手だ」


 いささか自信過剰であることを除けば、気持ちの良い返事である。チハヤもとやかくは言わず、ただついて来いとだけ声を投げて、迷うことなく西の泉へと駆け出した。

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