十:不届き者
「きゅー?」
「お前に俺から贈り物。おいで、着けてやるから」
「ぅぎゅーっ!」
日は傾き、蝋燭の火よりも鮮やかな橙色の空が、まだまだ活気ある大市の露店を満遍なく照らす。そんな中、商人詩人を粗方捌き終え、店番は喋り疲れた
こんな素材が欲しい、これなら在庫がある。いくらで売るいくらなら買う。流れるように飛び交う交渉を聞きながら、チハヤはちまきに首輪を着けてやっていた。
石座に石のはまっていない、しかしそれを抜きにしても繊細で美しい仕上がりの革首輪。長い首の付け根から下がって胸元を覆う、柔らかく手触りのいい鹿革の感触に、ちまきはすっかりご満悦のようだ。引っ掛けて壊さないよう慎重に首輪を触って確かめ、銀糸が織り交ぜられた組紐の輝きにうっとりして、それからチハヤの頭に自身の額を擦り付ける。
「きゅぅー、うぅ〜」
「どした?」
「あぅ、うぎゅ……きゅ? ぅ?」
「あっ、お礼言ってくれんの? お礼を言うときは「ありがとう」な」
「! あぃがとっ、チハヤーっ!」
飛びついてきたちまきを抱き留め、そのまま抱えて立ち上がり、チハヤが向かうのは大市の表通り。昼にやってきた商人達が買い付けを終え、夜の部――厳格にそのような区切りはないが、暗黙知として展開する店には昼夜の別があった――が始まるまでの一時間ほどは、外部の者が少なく村人が歩くのに丁度いい。普段は取引に出てこない、大儲け用の掘り出し物を冷やかすには絶好の時間である。
表に出るとすぐ、腕に抱いた
ちまきを抱き直し、左右に並ぶ露店をゆっくりと視察する。山の中腹という村の配置上、売られているのは概ね手作りの革や木か宝石の細工か、手工業者のための素材を売っている店がほとんどだ。鉄や
そんな中で、何やら美味しそうな香りを漂わせている屋台が一軒。
「爺や、ナナハシ」
「あぁ、チハヤ。それに龍の仔も」
「儲かってっかー?」
「んー、ぼちぼち」
ロクシャとその息子――もとい、ナナハシが毎年出す店であった。売っているのは傷薬や解毒剤にその他諸々の薬剤、或いはそれの原材料であったり、はたまた病毒避けの護符や術の効果を封じた
お前もどうだ、と差し出された粥入りの木椀をありがたく受け取り、木の匙で一掬い。持って行った先は――ちまきの鼻先。
そんなもの食えるのか、と目を丸くするロクシャとナナハシには頷きだけを返し、チハヤはきょとんとして首を傾げるちまきへ問いかける。
「ちまき、食べる?」
「たべる〜っ」
うきうきで大口を開けたところに木匙を持ってくれば、ぱくり、と柄の半ばほどまで一気に口内へ。むぐむぐと舌の上でよく転がし、広がる味に尻尾と翼をばたばたさせる。もっと、と目で訴えてくるのでもう一口。今度は中に入っていた野草と肉に当たったのか、より嬉しそうに身体をくねくねさせた。
――結局、椀の中身はちまきだけで丸ごと消費され、治癒師二人は困ったように、チハヤは優しく苦笑。椀に残った麦粒や薬草のカスまで残らず舐め取り、大満足の様子で石畳に寝っ転がる仔龍をひと撫でして、チハヤは敷布の上に並べられた売り物を見ていく。
適当な傷薬と解毒剤、薬草や鉱石を見繕い、いくつか置いてある護符や聖符の中から傷病治癒の聖符を選んでナナハシへ手渡せば、銀貨の瞳が隣のロクシャへ飛んだ。ロクシャの方も彼を見て、それから手元の木札、最後にチハヤへ。親子でよく似た銀の双眸は、やはりよく似た怪訝の色を湛えて狩人を見る。
「いきなりどうしたの? 聖符なんて普段使わないでしょ」
「うーん……こないだの件と今日のことで考えが変わった。何だろ、こう……うまく言えないけど、持ってた方が良い気がする」
「ならもっと良い聖符持っときな。そりゃ包丁の切り傷に使うもんだ」
もごもごと言い澱むその訳を、ロクシャは深く尋ねない。ただより良い提案を出し、それを実行するまで。かくして安物の――もとい、作成に労力のかからない術が込められた――聖符は、使えば脚一本の欠損をも補う最高級品に取り替えられる。そしてその代金はきっちりと請求され、治癒師はちゃっかり儲けを出すのであった。
代金二万五千
「触んなっ!」
「がッ!?」
神速で鋼の槍を抜き放ち、その石突を不届き者の額に喰らわせた。
加減はしたものの、常の人間の数倍もある腕力で顔をど突かれてはひとたまりもない。成人男性の身体が易々とチハヤ一人分の距離を吹っ飛び、背中から叩きつけられて悲鳴を零す。その間にチハヤはちまきを抱え上げ、好奇心に爛々と双眸を輝かせている仔龍を肩に乗せて、鈍色に光を跳ね返す鋼槍を構えた。
チハヤは狩人である。故に普段は弓使いだ。しかし、村では狩人が守護者の任も負う以上、弓だけでは火力の足りぬこともままある。今構えている槍はそのためのもので、当然ながら訓練も積んでいる。無論普段使っている弓矢の方が上手く扱えはするのだが、流石にこの近距離で使えるようなものではない。何より弓矢は狩りの道具――つまりは明確な殺傷兵器であって、不届き者を成敗する為に使っていいものではなかった。
ともあれ。低めに構える鍛造の槍は、穂先から石突まで鋼の一体成型。刃は両刃の剣を細く分厚くしたような、刺突にも薙ぎ払いにも使えるもので、石突は安定感のある台形をしている。持ち手の所には滑り止めの麻布が巻きつけられ、やや後端に近い側には携帯用の固定器具が取り付けられているが、それ以外の装飾らしい装飾はレリーフ一つもない。完全に実戦向きの、容赦のない暴力を嫌でも思い知らせてくる、重い槍であった。
その槍のどう見ても鈍器でしかない石突を、倒れた不届き者の顔に突きつける。丁寧に結わえられた金髪に切れ長で垂れがちの
「ルッツ・ハーゲン。……その、大変失礼なことをした」
「本当に失礼だよ。殴ったのは二度目だ」
一度目はまだちまきが卵だったとき。どさくさ紛れに触れようとして鹿の骨で殴り飛ばした屈強な不届き者のことを、チハヤは頭から爪先までよく覚えている。
冷ややかに吐き捨てれば、男――ルッツは、もう一度深々と頭を下げてからゆっくりと立ち上がった。
「重ね重ね非礼をお詫びする。龍の卵は大抵、孵る前に死んでしまうのでな。それが人の手に渡って、しかも無事に孵った。とても幸運なことだと思う」
「その幸運にあやかろうって?」
「そう言うことだ。奪ったり傷付けたりするつもりはなかった」
落ち着いた低い声の色は真摯で、害意や虚偽は見受けられない。しかし、チハヤの隙を突いていきなり触ろうとした前科はある。いきなり胸襟を開く訳にもいかず、チハヤは槍を構えたまま悶々と考え込みかけて、急転換。武器を収めることにした。
槍を腰の鞄に石突の側から収納し、ぎょっとするルッツには構わず穂先まで全て収めてフラップを閉じる。何だそれは、とでも言いたげに目を丸くする男の顔を無視して、チハヤは潜めた声で問いかけた。
「あんたは貴族? それとも奴隷?」
「……!」
「やっぱり。自分の願望を見せたがらない辺り、奴隷だろうなって思ってた」
――前に奴隷を見たことがある。
ルッツから投げかけられるであろう問いへ簡潔に先回りし、狩人はゆったりと踵を返す。待ってくれと思わず大声で呼び止めた男にはひらひらと手を振るのみ。来たければ勝手に来いと、言葉にすることなく伝えるその背を、男は大慌てで追いかけた。
‡
「改めて、俺は
「ぅぎゅー」
「双方丁寧な挨拶痛み入る。私はルッツ・ハーゲン、
「だろうな。
通りを泉の方に向かって歩き、たまに露店を冷やかしたり果物を買ったりしながら、自分達が出している店の裏手へ。屋台を畳む準備をしていた父と祖父に事情を話し、人目に付きにくい屋台の裏の小空間を借りて、ルッツとチハヤは互いに頭を下げあった。
自己紹介を受け、改めて服装に目を落とす。肌に密着する焦げ茶色のシャツに銀糸の刺繍が細やかな臙脂色の上着、黒いズボンと長い編み上げの革靴。腰のベルトには腕の長さほどの短剣と折りたたみ式の
観察終了。視線と意識を男の顔に戻し、チハヤは少考して言葉を引っ張り出す。
「
「故あって森の中に待機させている。山の魔物や獣程度に殺されるほど軟弱ではないので、その辺りは心配ない」
「なら良いけど。……そんで、こんな山奥の、しかも器族の村に、
チハヤの声音は、どこか探るような響きを帯びていた。
王都が位置するのは平原の人間の都で、その王が統治するのも平原の人間である。平地から続く海の方はともかく、峻厳な山の方にわざわざ王都から人が寄越されることなど滅多にない。あったすれば、それは王都にも害が及ぶと判断されうるほどの有事だと言うことだ。それを鑑みると、確かに神龍の崩御だの影の竜の出現だのと騒動は起きたが、所詮は村の中だけのこと。王都は基本的に
――それでも
訝しさも満点と言わんばかりの、低められ抑制された声。意図的に脅しの色を含めたそれに、ちまきが不安そうな表情で飼い主を見上げ、ルッツは降参と言った風に両手を挙げた。
「私達が来たのは私事極まりない理由でね。王都の公的な派遣ではない」
「
「そう言うことだ。我々……
既に村おさへは許可を取ってある。不審げなチハヤにはあらかじめ釘を刺し、ルッツは口を
「イバラエが……村おさが許可したなら、俺は何も言わないよ。――だけど」
逆接の言葉へ怪訝そうに眉根を寄せた獣騎士へ、狩人は発声の仕方を僅かに変えながら告げる。
狩人の使った発声法は、森の中で獣に勘付かれないよう音声連絡を取り合う為のもの。放たれた声は周囲に拡散することなく、伝えたい相手にのみ届く。
「俺を隠形の練習台に使わすんじゃない。あんまウロチョロしてるとぶっ飛ばすぞ」
「何?」
「屋台の周りに五人。うち一人は卵
まさか、とルッツは怒り顔。直後、勢いよく立ち上がって屋台の垂れ幕から外に出たかと思うと、狼のように歯をむき出して咆えた。
「何やってるお前らァッ!」
「バレた!? ヤッベェ逃げろ逃げろ!」
ともすれば村中に響き渡らんばかりの轟々たる怒号。直後に消えていた気配が次々と屋台の周囲に現れ、その内入り口に最も近い一つが、面白がるように周囲を煽り立てながら素早く立ち上がった。
しかし、時既に遅し。告げ口した直後に腰鞄のフラップを開けていたチハヤは、完璧な隠形を保ったまま槍を構えて、動き出した気配の行く先に石突を突き出す。
重い一撃には殺気や害意はおろか、気配自体がほとんど乗らない。いっそ恐ろしくなるほどの静謐を保ったまま、垂れ下がる布と布の間を縫って放たれたそれは、果たして不逞の輩の脇腹にぶち込まれた。
「痛って……!」
しかしながら、向こうは向こうで相当の手練であるらしい。当たる瞬間に爪先を捻って身体を回転させたことにより、ダメージは最小限に抑えられる。けれども、それで終わらぬのがこの重い槍の真価。避けられたと悟ったチハヤがぐりっと思い切り手首を捻れば、角柱状の石突が不届き者の服を巻き込んだ。
「げっ!? あっやべっ、アッ――!」
その状態のまま、軽くひと押し。巻き込んだ服が石突から離れる感触を得て、素早く引き戻す。ただでさえ避けた直後で崩れていた身体のバランスを、槍の一突きで更に崩したことにより、不届き者は水路に向かって大きく傾いだ。それでも何とかどうにかしようと、そいつは何もない虚空を掴みながら数歩たたらを踏み――結局、体勢を立て直せないまま墜落する。
あえなく深い水路にひっくり返った何者か、その断末魔めいた叫び声を、間抜けた水音が掻き消した。後に残るのは一人ずつルッツに成敗されていく残りの不届き者の悲鳴と、水路の方から聞こえるがぼがぼという不明な声。
「チハヤ、へーき?」
「俺は平気。外の奴も……ま、まあ大丈夫じゃないかな? 妖精が悪戯しなきゃ」
「よーせー……ぅきゅー、ぅー」
「分かってるよ、見に行こう」
「ぎゅーっ!」
別に放っておいても良かったが、ちまきがしきりと心配するのでは仕方がない。目をうるうるさせて覗き込んでくる仔龍の喉を軽く掻いてやりながら、チハヤは槍を片手にしたまま屋台の幌を退ける。
昼間だけ出る店が撤収の準備を、夜に出る店が出店の準備をそれぞれ始め、畳んだ布や木枠を抱えた村人が往来する道。その端の方ではルッツが目を三角形にして怒り散らし、その目下では人間の男女が数名、特大の拳骨を一発ずつ喰らって等しく伸びている。先程落ちた方の姿は見えず、代わりにごぼごぼと何かの溺れている音と、村人の慌てたような声が入り混じって飛んできた。助けるならこちらの溺れかかっている方だろう。
槍を鞄に仕舞いつつ、覗き込む。
「ごぼっ……! 何じゃァ此処ッ、浮かねェ……がぼっ!」
覗き込んだ途端に沈んだものの、見間違えようがない。溺れたのは紛れもなく、木製の四角い箱を首から上に据えた男――つまり、器族であった。
だが、何故王都の人間と器族が一緒に行動しているのか? そもそもこの器族は一体全体何処の者で、何をしに来たのか? 束の間思考回路に溢れかえった疑問は、水路を往来していた村人の悲鳴によって否応もなく寸断される。器族は人間よりも剛健ではあるが、だからと言って此処でふんぞり返って見ている訳にはいかない。水の中に落ちて頭が水没してしまえば、普通に窒息してしまう。
チハヤとちまきで目配せをしあい、頷きあう。
その目には見えている。それまで男の溺れもがく様を見て笑っていた水の精達が、水の中を滑る何かの影を見た途端、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す様が。チハヤには見えていないが、水が急に乱れはじめたことくらいは分かった。
わたわたと泡を喰ったように逃げ散り、精霊達が次々と水の中に溶けてゆく。その姿を振り仰ぎながら、ぐったりした男を長い
つるりと細長い水色の龍は、ぺいっとばかり頭を一振り。男を街路に放り出し、その鼻先をチハヤの方に近づけた。近寄られた
「
「そう、
ややぎこちなく人の言葉を紡ぎ、人間のするように頭を下げたミズタエに、チハヤは困ったような苦笑を一つ。自分も撫でてと言いたげに頭へすりつくちまきをいなしながら、周囲をぐるりと見回した。
つまるところ自分達は恐ろしく悪目立ちしていて、豊穣祭の円滑で平穏な進行をこれでもかと妨げており……
「とりあえず、俺ん家おいで。全員。乗騎も一緒に」
「む」
「事情も質疑応答も家で聞く。此処はそういう場所じゃない」
場の離脱を提案するまでに、思考の時間はさほど必要ではなかった。
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