八:影の竜

 金月の渡し守アウレアピーカは攻めあぐねていた。

 “門”から雪崩れてくる魔物や闇霊人ダークエルフどもは殲滅するか、或いは肺腑を爛れさせ、どちらにせよ全て息絶えた。しかし、最初に心の臓を撃ち抜いた闇霊人ダークエルフが厄介にも転生神の加護持ちであったらしい。死んだ途端黒い竜まものへ転変し、周囲に散々環境破壊をまき散らした挙句、村に一発特大の閃哮ライトニングハウルをお見舞いして今に至る。

 とは言え彼女とて神性。しかも、太陽神や月女神にも匹敵する上位の神格である。所詮人族が転変しただけのひよっこ竜など、指先で捻り潰せる小物でしかない。

 即ち、攻撃に二の足を踏むのは、決して彼女の火力不足などではなく。


「ええいこの軟弱者め。しっかりせんか」

「ゔ、……っ、ゎ、渡し守、さ、……」

「あぁあ駄目じゃ駄目じゃ、しっかりしろとは言うたが喋れとは言うとらんのじゃ。静かにしておれ」


 少女のものに変えた両腕、その中で次第に体温を失ってゆく男のせいだ。

 象牙の地球儀の頭をした、器族の男。その身体は上半身しかなく、臓物は溢れてしまっている。当然ながら出血も止まらない。傷口を押さえている渡し守の細腕は、随分前から真っ赤に染まっていた。

 下半身の居場所は、傲然と己を見下ろしてくる竜の口の中。渡し守が転変に気付き、妨害を射殺してこれに迫った時には、既に食い千切られ咀嚼されていた。無論食われたものは取り返せないし、そもそも先程村にぶっ放された閃哮の吐息ライトニングブレスで跡形もなく消し飛んでいることだろう。

 ともあれ。面倒なことになった、と渡し守は顔に出さず毒づく。斃すだけなら造作もないが、その為には一度手を離さねばならない。だが、怪我人ヤライは渡し守が傷を抑えてやらねばすぐにも死んでしまうだろう。星神の手はそれだけで神器であり、触れた箇所は星神の権能によって主観時間が停滞する。要するに怪我の進行を遅らせることが出来るのだが、離せばそれまでだ。第一、抑えていても死にかかっているのだから、いよいよ手放す選択肢はない。

 いっそ彼を抱えたまま影に隠れてしまうか。いやしかし――自問自答を繰り返し、うじうじと考え込む渡し守の腕の中で、ヤライは微かに首を振った。


「ゎ、わた、しの、こ、とは……もう……」

「黙れ黙れっ、妾がぬしを手放すと思うてか!」

「ぃ、え……いいえ、良い、ので、す」


 それは諦念か?

 否。彼は決して諦めてなどいない。

 ならば、その“良い”は何事か?


「ちーはやー?」

「俺は大丈夫。お前は父さんのとこに行ってくれ。大仕事だけど、頼めるか?」

「んぎゅーぅ!」


 答えは、ひどく呑気な二つの声。

 見遣れば、そこには仔龍を肩に載せたチハヤの姿があった。



 失血と痛みに朦朧としていたヤライがまず感じたのは、消えかかっていた命の灯火が再び燃え上がる暖かさ。そして、随分前から痛みしか返さなくなっていた下半身が、僅かばかり温度を感じはじめた事実。

 次いで、何か熱いものが執拗に頭を舐め回してくるざらざらした感触。そして、それぞれ聞き馴染みがあったりなかったりする、二つの声。


「ヤライ。ヤライ、戻ってこい」

「やらーぁ?」


 この段に至ってようやく、ヤライは己を覗き込むものの存在を二つ、ぼんやりと霞む視界に認めた。視界に気を回すだけの余力が出来た、とも言うだろうか。

 すぐに取り落としそうな意識を振り絞り、蠢くものを観察。一方は白髪に銀目の見覚えある老人で、もう一方は小さな四足の翼龍らしい。砂岩を切り出したような鱗の並ぶそれの顔、宝石のように煌めく瞳が印象的である。当然初見だが、正体が何かはすぐに察しがついた。


「ロクシャの、爺さんと……地神龍フラクシナス? 龍は隠れたはずじゃ……まさか、拾い物が孵っ――あれ?」

「やらーぁ、だめー」


 溢れる疑問のままに起き上がりかけて、起き上がれることに驚く間もなく、地神龍フラクシナスに制される。神なる龍にだめと言われては返す言葉もなく、押し倒されるまま横になったヤライの胸へ、仔龍は臆面もなく腹ばいになった。

 興味津々に見つめてくる真ん丸の翠眼は、右眼だけが星のよう。はて地神龍フラクシナスはこんな目だったかしらん、と、星神が祝福したとは露ほども知らぬ父親は、内心疑問符で一杯にしつつ仔龍へ手を伸ばす。かりかりと顎の下辺りを軽く掻いてやると、気持ちがいいらしくうっとりと目を細めた。ぐるるるる、と喉を鳴らす辺り、見た目は神々しいが猫のようだ。

 もっともっと、とばかり指に擦りつく仔龍をあしらいながら、ヤライは未だに解決を見ない疑問への回答を求めて、視線を傍のロクシャへと移す。


「爺さん」

「御察しの通りだヤライ。そいつは龍の仔だよ、チハヤがさっき孵したんだと」

「私は、一体」

「生やした、とだけ言っとく、まァ命に別状は無かろうや。狩人に戻れるかどうかは賭けだがね」

「……戻れないかも、しれないのか」


 悲痛な声音だった。

 無理もない、ヤライはずっと狩人として生きてきたし、そう在れる自分を誇りにも思ってきた。おまけに、まだ成人もしていない息子へ教えたいことは山ほどある。それを――開かれていたはずの前途を、こんな形で剥奪されては、落胆するなと言う方が難しい。それが分かるからこそ、ロクシャもただ表情を沈痛に歪める。無邪気な顔をしているのは仔龍だけだ。

 しかし、龍の仔もヤライの心持ちに気付いたらしい。喉の奥でか細く一鳴きして、その鼻面を地球儀の頭に押し付けた。


「やらーぁ……」

「その気持ちだけで、私は十分だよ」


 きゅーきゅーと心配そうに鳴く仔龍の頭を撫で、ヤライは努めて穏やかに笑ってみせた。

 ロクシャの力量は微塵も疑っていない。彼は素晴らしい結果を残してくれた。ならば、狩人に復帰できるか否かは、彼が何処まで元の状態に戻せたかではなく、あくまで自分がどれだけこの状態と向き合えるかに掛かっている。であるからこそ、治癒師の言葉に奮起こそすれ絶望はしないし、仔龍が責任を感じることもない。それは偽らざるヤライの本心であった。

 大丈夫だ。自身への確信も込めて仔龍を撫で回しつつ、手負いの狩人は今度こそ上体を起こす。食い千切られた時に失くした服と靴は、現状黒く手触りの良い布で代用されていた。何やら見覚えのあるこれが誰のものかは、ちょっと恐ろしくて考えたくない。ともあれ丸裸の悲劇は免れたのだ、結果だけ喜べばいいだろう。

 真面目とは言い難い構図はさておき、幼き龍を膝の上に載せ、向き合う。龍の仔は両目を輝かせてヤライを見上げ、一心に注がれる視線を狩人は真剣に受け止めて、ゆっくりと、低く声を紡ぎあげた。


「お前にしか出来ないことをしなさい」


 ――刹那。

 龍の目が、耀く。



〈栄える星よ、愚か者の灰すらも溶かせ――“蒼白なる星の芯火パリドゥシュテッラ・コリグニス”〉


 怪我人のお守りから解放された星神は、真っ先に影の竜へ八つ当たりした。

 無駄に殺傷力の高い術を無駄に高等な技術と溢れる権能ちからに任せて編み上げ、カササギの翼に変じた腕を一振りすれば、辺りの空気が歪むほどの熱量エネルギーを秘めた蒼炎が迸る。


〈grrr,grsShaaaaAAAA――――!!〉


 飛びすさりざま竜が展開した影の壁は、しかし膨大な力の前に成す術もなく、翼が一度翻っただけで脆くも蒸発した。青白い焔はそのまま竜の土手腹へ一直線、途中で収束し槍となった星の光が、影の身に大きな穴を開け、大きく広げた二対四枚の内右側の二枚を焼き滅ぼす。

 然りとて竜もただでは斃れず。転生神の与えた加護が空いた穴を塞ぎ、千切れ飛んだ二翼を歪に再生すれば、叫喚するは五翼を持つ漆黒の竜。目はなく鼻もなく、鰐のように裂けた口の中には、先程渡し守が放ったものと同じ輝きが垣間見える。

 竜に授けられているのは、致命傷を負う度に弱点を克服し、際限なく強くなる転生と進化の加護。されどその加護は、死の安息と正常な輪廻を許さぬ不死永続の呪い。待っているのは悲惨な結末と、異常な転変に狂った魂だけだ。

 八つ当たりを終えて冷静になった星神は、憐れみを籠めて竜を見上げた。


 ――アレは、渡し守おのれが送り出してやらねばならぬ。神性たる己が、星々の海を往くこの己が、悠久の影に連れ出してやらねばならぬ。

 恐らくは星神から模倣コピーした星の焔を吐くつもりなのだろう、鮫のような歯が数列並んだ口を開け、その奥に蒼炎を溜め込む竜に、渡し守はその確信を得ていた。

 そして、必要な仕込みのために、星神は隣で弓を調整する狩人へ声をかける。


「千羽の矢。アレを三砂流刻さるこく留められるかえ?」

「バカ言え、あれの前に俺が立ったら消し炭も残んないぞ。俺が三十人居ても留められるか分かんねぇ」

「ぬしは全体何と契りを結んだのじゃ。アレは惑星ほしの仔ぞ? たかが異闇樹テネールヴの転変した竜の焔なぞ、龍の仔には産湯と言うにも烏滸がましい。その加護を受けたぬしも同じよな」


 自信満々に言い張る星神であるが、星神の権能が放つ火焔の凄まじさを目の当たりにし、おまけに先程閃哮の吐息ライトニングブレスで右腕を吹き飛ばされた身からすれば、この上もなくおぞましい話である。

 また身体の一部を失くすのは御免だ、いやそんな心配はない。押し問答を繰り返す二人の前で、竜は辺りから手当たり次第に霊気マナを掻き集め、脅威を亡ぼすに足る火力をその喉元に溜め込んでゆく。最早少しも待ってはいられない。死んだら絶対転変ばけて出てやる、と捨て台詞を残してチハヤは前に踏み出し、渡し守は何も言わず後退し――二人の間を、気配もなく矢が疾った。


「GrrghaaAAAAA――――!!」


 鍛造の鏃は過たず影の竜の喉へ吸い込まれ、しかし竜の鱗を射抜くには至らず。鱗の分厚い部分に浅く刺さった鏃は、溜め込まれた熱によってすぐに赤熱し、そして蒸発する。だが、突き立った衝撃と鱗を抉った痛みは少なからず竜の気を逸らしたようで、悲鳴のような怒号が火焔の代わりに空気を揺らした。

 殺気どころか気配も乗らぬ一矢。ヤライ以外でこれが放てるものはおらず、当の本人は重傷により戦線を離脱したものと、影の竜を含めて誰もが信じていた。それ故に虚は突かれ、効かぬはずの矢が声を上げさせたのだ。

 ならば!


「も一発っぱつくれてやるよオラァッ!!」


 腹の底から力一杯に咆哮。竜の気を己に向かせ、チハヤは弓を引き絞って矢を放った。

 緑の矢羽が目立つそれは、胴から先までが鋼の一体成型。小型の槍とも言うべき矢の先は、しかし竜を遥かに外れて空高く。折角の機会を逃して何とするとでも言いたげな、あからさまに蔑むような空気が竜から放たれるも、チハヤは構わず矢を引っ張り出してつがえる。

 器族の腕力に飽かせて弦を引けば、羽虫を払うように前脚が振るわれた。下草を刈り取りながら迫る鎌のような爪を間合いに入り込むことで避け、更に一歩踏み込みながら一射。赤い矢羽の付いた矢が、ヤライの狙った場所より僅かに下、鱗と鱗の境目に深く潜り込み――

 炸裂した。


「gShaAaaAaaaaaa――!?」

「うわっひゃぁっ! 危ねっ!」


 柏手にも似た大音声。牛蒡のように太い矢は粉々に砕け、その衝撃が鱗二枚を根本から吹き飛ばす。流石の影の竜も、繊細な操作コントロールを要する術の行使中に鱗を剥がれては敵わない。疑問符混じりの絶叫を上げて棹立ちになり、翼をバタつかせながら喉元を掻き毟る。危うく吹き飛ばされた上に踏み潰されかけ、文字通り転がるように離脱したチハヤのことは意識の外だ。

 さりとて、追撃が来れば喉の傷ばかり構ってもいられない。戦線を下げたチハヤが放つ赤い矢羽の仕掛け矢を、狂乱から立ち直った竜は伏せながら前に出ることで避け、歪に生え揃った五翼を大きく広げた。瀑布のような翼が動くだけでも十分すぎるほど脅威であるが、羽ばたかせれば更に危険だ。巻き起こる突風が狩人の姿勢を大きく崩し、尻餅をつかせる。

 続けざまに左前脚の一閃。柔軟に後転して回避。起き上がりながら三本の矢で牽制、振るわれた前脚に叩き折られる様を視界の隅に収めつつ、素早く弦を張り直す。狩りの真っ最中に得物を調整するのは邪道だが、チハヤは気にしない。それが最大の結果パフォーマンスを生むならば、彼は自重せず邪も犯す。それだけの度胸と技量は持ち合わせていた。

 調整は火力よりも精密さを重視。強弓すぎたものを弱めに張り直し、弦に掛けたのは普通の矢で、狙うのは先程抉った鱗の位置。致命ではない傷を癒す力はないのか、そこは肉の色が見えたままだ。


「GrrrgaaaAAAA――――!!」


 片膝を立て、弦を引き。地面を抉り駆け来る竜を静かに見据えて、チハヤは弦から指を離す。

 矢が完全に統制を離れる瞬間、手首を捻って矢を叩けば、


「…………」


 矢は竜の爪を下からくぐり抜け、


「――――」


 剥き出しになった肉に、過たず突き立つ。


「GhyaaaAAAAAAAAA――,a――!!」


 深く深く、星の火が沸き立つ場所にまで突き立った矢に悶える竜は、聞き逃した。

 己の頭上から落ち来る鋼鉄の矢、炸薬により加速した槍が空を裂く、その嘶きも。

 研ぎ上げられた切っ先が鱗を貫き、頭蓋を割って脳髄を抉る、その鈍音どんおんも。

 そして竜は、最期に聞いた。


「……獲った」


 狩人の、何かを堪えるような一声を。


〈憐れな竜よ、腐敗の闇に眠れ――“黒化ニグレド”〉


 星神が術を編み上げたのは、竜の意識が途切れて斃れた、その直後。

 たちまちの内にその形を崩し、ざらざらとした灰のような黒い粒子と化して、影の竜は音もなく消え逝く。倒れ伏した巨体は骨も残らず、頭の先から真昼の影へ紛れ、跡は草を踏み倒して出来た窪地だけ。

 そして漂う沈黙の中で、チハヤは疲労も色濃い溜息をつき、


「もー無理だー……」

「せ、千羽ァー!?」


 ぱったりとその場に倒れた。

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