六:豊穣祭
龍の仔を拾って早二ヶ月。神官二人が質問責めに遭ったり、事情を知った村人が龍の卵を見ようと家に押しかけて来たり、それをイバラエが一喝して追い払ったりと、多少の騒ぎは起こったものの、チハヤの生活は概ね穏やかに、いつも通り過ぎた。
最初は向こうが透けるほど透明だった卵は、一月が経った頃から急に
今日も今日とて、チハヤは布に包んだ卵を載せて仕事に励む。よく陽の当たる庭の片隅、
チハヤが作っているのは首輪。一般的には家畜を飾るためのもので、豊穣祭のときに持ち主自らが仕立てるのが習わしである。しかしながら、チハヤは狩人であって酪農家でも兼業の農家でもなく、なればこれは家畜のためのものではない。
「チハッちゃん、紐持ってきたよぉ。進捗どーぉ?」
「後少し。豊穣祭までには終わるよ」
「呑気してるわねぇ」
「着けたい奴がまだ卵じゃなぁ」
チハヤが作るのは、龍のためだ。勿論龍を家畜や
あれこれと話し込んでいる間に運針が止まる。糸の端を処理し、布を噛ませて固定していた革を万力から下ろして、あらかじめ開けておいた穴にハトメリングを打って補強。革には蝋を擦り込んで布で磨き上げ、縁も水と蝋で鏡面に仕上げれば、革の方の細工は終わりだ。
「そう言えば、ここの石は?」
唐突に切り出された話題は、机の上に広げられた首輪の材料の数々、その欠けたパーツについて。チハヤの引いた図面では、首輪には石を一つ鎖と石座で吊り下げるようになっているのだが、机の上には鎖と石座しかない。豊穣祭の時までには調達するだろうと高を括っていたが、結局今日この時まで採集の素振りすら見せなかった。
万一の時はこちらから供与もやむなしか、そんな打算と共に投げた問いに、狩人は組紐を首輪に取り付けつつ、落ち着いて返答する。
「龍の仔に選ばせてやりたいんだ」
「あら、お父様のお店に来てくれるの?」
「それはこいつ次第だろうな。山から採ってきたいって言うんなら鉱山に入る」
迷う様子もない答えに、少女はアザミ色の眼をじっとりと細めた。
呆れればよいやら感心すればよいやら。チハヤは時折こうした無謀を口にするが、鉱山は狩人の領域ではなく、そこから勝手に石を持っていくなど以ての外。持っていった石の種類と質次第では、しこたま怒られるだけでは済まないかもしれない。それは重々承知の上であろうに、それでもチハヤは龍の仔の希望を優先させたいと言う。
はぁ、と。疲れたように溜息をついて、シラユキは苦笑しいしい肩を竦めた。
「お父様に許可証を発行してもらうように言っておくわ。いくら龍の仔のことだからって、そんな無茶しちゃダメよ」
「別に無茶言ってるつもりなかったんだけどなぁ……でも有難いよ。
「はーいはい。それじゃ、豊穣祭の時に」
「あいよー」
狩人と神官は別れ。組紐を取り付け終わったチハヤは椅子に寄りかかって孵化間近の卵を愛で、シラユキは宝石店を営む父に入山許可証をせがむべく自宅へと戻った。
‡
豊穣祭は南中から始まり、次の日の南中まで続くのが通例である。
村の広場に建てられた祭壇、その高く上げられた床の上に上等な衣を纏って立ち、聖句を誦んずるは神官のシラユキと、村おさのイバラエ。それを眺める村人は思い思いの服装体勢で、大人は柘榴の酒、子供は葡萄のジュースを、それぞれガラスの杯に入れて持っている。誰もそれに口を付けないのは、それが掟であるから。音頭を取る者が決まっているのだ。
やがてシラユキとイバラエの声が止み、同時に雲一つない空に何故か星が一つ瞬いた――と、村人が気付くより早く、祭壇が刹那真昼の太陽よりも強い閃光を発した。
「うむうむ、良きかな。彼奴は良い村で祀られたものじゃの」
こんな事態は起きたことがない。広がりかけた動揺を、聞き馴染みのない少女の声が打ち払えば、騒然としていた広間は水を打ったように静まり返る。
例年、祭壇の上に姿を現わすのは、この村の守り神――つまりはかの死した
そんな少女は、ニカリと笑う。悪戯が成功した悪童のように。
「妾が
傲岸不遜の塊のようなセリフを平然と言い放ったものだが、村おさと神官は神性の威容を間近で受けて身動き一つ取れず、村人は例年とことごとく違う豊穣祭の進行に唖然として物も言えない。そして、それを者共の納得と勘違いした
「分け身の龍は隠れ、分け身の分け身は狩人の手に渡り、後の先行きが不安であろ。だが案ずることはないぞ、村は変わらず龍の庇護に護られる。ぬしらは変わらずに励めば良いのじゃ」
「…………」
「富めよ、栄えよ、地に満ちよ。川のそばに佇む木のように。妾はぬしらを祝福し、ぬしらの夜とその道に立つ」
ようやく戻ってきた神らしい厳かさに、沈黙は破られることなく続く。
真剣に進行を見守る人々の視線を受け、ふっと、渡し守は笑った。真昼の陽の下、煌めく宝石より尚燦然と。
「永遠に平穏たれ、永久に豊穣たれ。ぬしらの願いを妾もまた
――
慣例外れの豊穣祭は、渡し守の音頭によってようやく始まりを迎えた。
‡
豊穣祭の二日間は大市が立ち、村の外からも多くの人がやってくる。
チハヤら狩人も売る側に立つ。出すのは今までに狩りで得た素材各種。祖父と息子と孫の三交代制の露店は、チハヤが最初の店番役で――
「だぁあっもぉ! 買わない奴はどっか行け! 買った奴もどっか行け――ッ!!」
格好の客寄せパンダであった。
村人はともかく、話題に飢えた商人や吟遊詩人達にとって、孵化寸前の龍の卵を抱えている器族など的でしかない。一言でも話を聞こうと、本来の商談そっちのけで質問してくる人間ども。最初は律儀に経緯を答えていたチハヤも、それが二十回続くと流石に怒る。
尚も根掘り葉掘り聞いてこようとする強欲な商人に怒号と高額商品を投げつけ、チハヤは人を払った。中には卵を膝から持って行こうとする不届き者もいたりして、そう言った輩には容赦なく
「異界の“門”が開いて龍が隠れた。それを俺が偶然見つけてなんやかんやで遺骸から卵を見つけた! 俺から話せるのはそれだけだ! わかったならさっさとどっかに行けっての!」
「そのなんやかんやが聞きた――」
「知るかァッ! 器族に! 解呪師の! 仕事の! 詳細を! 尋ねるなッ!!」
「痛えっ! 痛いっ分かった、分かったって! 堪忍してくれ!」
怒りすぎて感情のタガが外れてしまったのだろう、蟻のように集る商人をバキバシと殴りつけ蹴飛ばしながら狩人は咆え、そんなチハヤの姿に者共はいよいよ恐れをなす。そして、二人目の更に屈強な不届き者が顔面に厚底ブーツの踵を喰らって吹き飛んだことで、残っていた蛮勇の者も蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
ぜーぜーと肩で息をしつつ、ようやく平和の戻ってきた店先にぐったりと腰を下ろしたところで、来店者一名。いささかうんざりしながら、物理的に重たい象牙の地球儀をのろのろと持ち上げたチハヤを、金髪の少女が愉快げに見下ろしていた。
見つめること少し。先に切り出したのは渡し守だった。
「千羽の矢。妾には何も売らぬのか?」
「あのな金月。恩恵を盾にして紅玉山羊の角持ってったこと、忘れたなんて言わせねぇかんな? 神様だからって概念で買い物させるわけにはいかない」
「チィイッ」
あからさまな舌打ち。
その様を少女はケラケラと可愛らしく嗤い、やおらその場に膝を抱えて座り込む。淡い金彩の双眸、その針のように細い瞳孔が、まっすぐに龍の卵へ合わせられた。
「ま、買い物と言うのは冗談じゃ。こやつに妾より祝福を贈ろうと思うてな」
「いや買い物していけよ」
「持ち合わせが概念しかない。ま、すぐ終わる話じゃ。ちぃと辛抱せぇ」
言うが早いが渡し守はカササギの翼を伸ばし……光が迸る。真っ白に塗り潰される視界の中、しゅるりと衣摺れの音。かと思うと、戻った視界の中に映るはずの翼は、真っ白な少女の細腕に変わっていた。目の前での唐突な変化にチハヤがぎょっとする間もなく、渡し守は人間のそれへと変化した白魚のような手を伸ばし、雪のような
見開いた金彩の眼が、梨地の金の如くに光を受けた。
〈おまえは龍の仔
〈夜闇に眩むおまえの片目に 星神の秘儀を授けよう〉
〈惑う時はその眼を閉じよ 真は闇の裏 ――“
聞き慣れない聖句、その内容は、星の海を渡る渡し守が与う見通しの術。地の船乗りが星や僅かな手がかりから外海を往くように、星の海を往く彼女もまた、限りなく続く
その星神の権能を、片方の眼だけとは言え与えられた龍が、一体全体これから先どんなものを見るのか……末恐ろしいものを感じて、チハヤはもう一度頭を抱えたくなった。
しかし、そんな暇は与えられない。
〈膝を折れ、“
ぞっとするような冷たい声が少女の喉から迸り、陽の下で黒々と石畳に落ちていた影が、――大きく伸びて、翼なき蛇竜の形を取った。
何事かと驚くより早く、影の蛇は
そこで渡し守は立ち上がり、少女のものに変えていた腕を戻した。美しい顔にはあからさまな殺意が浮かび、細い瞳孔はいよいよ剃刀の薄さ鋭さを秘めて、慄く村人の合間に倒れた者共を睨む。
「かくも無知蒙昧の
〈……g,r,rrrr……〉
何やら様子がおかしい。そう勘付いたのは、チハヤが先だった。
渡し守が言うところの
即ち、チハヤは腰鞄を漁り、星神は絢爛豪華な装束を広げて、攻勢に出る。
〈愚か者に見せしめよ、“
先手を打ったのは、星神。一言に圧縮された殺意満点の聖句が石畳に溶けると同時に、
あまりの唐突さに、貫かれた当人も含めて誰もが一瞬思考を止め――その空隙にまた唐突さが上塗りされる。今度はチハヤ。腰鞄に収納していた背嚢に卵を入れて背負い、同じく収納していた
強く張られた弦を易々と引き絞って放てば、特殊な調整の施されたそれは、あたかも危難に際した鳥の如き甲高い大音声を村中に響かせる。初めて聞けば誰もが驚くその音は、しかし村人にとっては聞き慣れたもの。即ち。
「全員泉に逃げろォ――ッ!!」
狩りの、合図だ。
渡し守の攻撃によって生まれた思考の隙、そこに聞き慣れた合図と指示を叩きこまれた村人は、雪崩れを打って一方向に駆け出した。
それは、チハヤが意識を向ける方とは反対側。真っ直ぐに大通りを突っ切れば、泉の方へと出る方角だ。山を知り尽くした狩人の知識の限りでは、この村で一番安全な場所は結界が張られたその泉で、そこまで逃げるのに掛かる時間は、どんなに遅くても三分。
悲鳴や怒号で狂騒する石畳のど真ん中、弓を構えた狩人と、鷹揚に者共を見下す星神は視線を絡め合う。
「妾は“門”を閉じる」
「俺達は敵を抑える」
「戻って来たら買い物するぞ」
「今度は概念で支払うなよ?」
軽薄な調子で言葉を重ね、星神は構える青年の服のポケットに、己の翼から引き抜いた風切羽を一枚押し込んだ。
神性の身体の一部とは、そのまま神器にも等しいもの。どんな力が秘められているのかと言えば、
「投げ放てば必中貫通の影の槍、掲げ持てば絶対防御の影隠れ。一度だけじゃぞ」
「大切にさせていただきます」
「気色悪いことを言うでない。ただの抜け毛じゃ、軽率に使え」
言い捨ててカササギの渡し守は翼を広げ、広がる山の一点を目指して猛然と翔け去ってゆく。その後ろ姿、金銀宝石に彩られた黒衣のはためく様を見届け、改めて石畳の方に意識と視線を戻したチハヤの前には、影の槍に貫かれた後そこから引き抜かれ、力なく崩折れている
断言出来なかったのは、完全に死んでいるはずのそれが、目の前で不自然に蠢き始めたせいだ。異様な動きはチハヤに睨まれても止まることなく、ゴキン、バキンと骨の捻れ砕ける音と共に骨格が変容し、
時間にして数秒。変異が止んだとき、そこに四肢を突いていたのは、灰色の体毛と青い眼が特徴の巨大な狼で――それがチハヤを敵と断ずるより早く、その青い眼を牛蒡のように太い矢が潰し、その奥に収まる脳までもを蹂躙して、頭蓋を砕き後頭部に飛び出した。
時間稼ぎはもう始まっている。怯む狼らに黒焼きして光沢を消した鏃を突きつけ、チハヤは淡々と者共を威嚇した。
「守護者が龍と星神だけだと思うなよ?」
それは、遥か昔から定められた、“矢”の系譜の役目。
三本の矢を同時につがえ、狩人は激声する。
「来いよ同朋……
響き渡る挑発の終わりを待たずして、変化を終えた狼どもが、狩人へと襲い来る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます