十七:不時着
「きっ金月っ、そいつ!」
「察しの通りじゃ千羽の矢。後でいくらでも説明してやろうて」
渡し守が坐すは、九の翼を持つ影の龍。
頭の先から尾の先まで二十
なるほど渡し守が乗騎に選ぶのも納得だと、そう首を縦に振りたくなる美しい龍だが、生憎それに感動している暇はない。なにせ、こうして話している間にも狂乱したミズタエは脇目も振らず上昇しているのだ。いくら器族が人間より頑健な種族とは言え、このままでは空気の薄さと寒さに打ちのめされかねない。
それを知るからこそ、異界の神性の行動は速やかであった。影の龍を急かして水龍の真横につけ、その上から軽やかに跳躍。音もなく重みもなくミズタエの頭に着地したかと思うと、少女の手に変じた指先で龍の頭に触れる。
その金彩の瞳が一瞬閃き、そしてにまりと細められた。
〈慄きの火よ、去れ――
短い聖句が虚空に流れ去り、いつの間にか頭上に移動していた影の龍が九枚の翼を広げ、
あれほど泣いて暴れていた水龍が、影龍の腕の中で死んだように大人しくなっているとチハヤらが気付いたのは、龍が火脈の真上を過ぎて少しした後の話である。
†
影の龍は、そのまま山をぐるりと回って森の中へ。ミズタエも顔負けの精度でゆっくりと高度を下げ、ふわりと柔く着地して羽を休めた先は、木を切り倒して作られた広場。何を隠そう、チハヤが
すっかり意気消沈した
よりしなやかに変じた、ふさふさの尾羽が生えた尻尾。その先で、龍は未だ鞍の上で伏せるチハヤの頭を軽く叩いた。
「もう降りてもいいぞ。というか降りろ」
「ゔっぷ……」
「上で吐くな耐えろ」
どうやら、状況が飲み込めずに警戒態勢を取っているのではなく、高低の急激な変動に耐えきれず酔ったらしい。いつになく精彩を欠いた様子で、のろのろと龍鞍のベルトを外し始めた青年の背を、ふわふわと軽く摩ってやる。
何とか
「ぉげえ゛ぇ……っ!」
人目に付かぬ茂みの陰で、狩人は思い切り胃の中身をぶちまける羽目になった。
折角の美しい情景の記憶も、これでは全くもって台無しである。心の中でそんな嘆きが過ぎるものの、それさえも後から湧いて出てくる吐き気と、今日の昼食を全て戻し尽くしても尚逆流してくる吐瀉物に押し流された。
ゲェゲェとひとしきり呻き、出せるもの全てを概ね出し尽くして、それでも尚何か絞り出そうとする身体に薬草水を流し込む。その背を、おろおろした様子の渡し守が両手で摩った。
「だ、だ、大丈夫かえ? 死ぬなよ? 臓物まで吐き出さんだろうな?」
「いや、そんな大袈裟じゃないから……ちょっと、とりあえず、こっち……」
周りとくるくると回る神性の手を引き、ぶちまけた現場から距離を取る。風通しの良い木蔭を選び、立ったまま調息するチハヤの足元には、いつの間にやら龍達の姿もあった。
ズボンに爪を掛け、岩山を往く山羊よろしく登ってくる仔龍を抱き上げ、肩に安置。反対の脚に尻尾を巻きつけてくる影龍は喉を掻いてやり、しょんぼりした様子で飛んできたミズタエは両腕に抱き留めて背を撫でる。その内に、自分もと言わんばかりに渡し守まで頭を差し出してきたので、苦笑しつつも淡い金彩の髪をくしゃくしゃ掻き混ぜてやった。
ひとしきり
チハヤと、金月と。視線が空中で交錯し、そして静かに離れてゆく。
「言いたいことは山ほどあるが、千羽の矢、千の
「すいませんでした」
「ごめんなさぁい……」
最初に下見がしたいと言い出したのはミズタエだが、そもそも火山地帯を練習場所に指定したのはチハヤの判断であるし、水龍へ勝手に加護を押し付けたのはちまきの無知さ故。
狩人と地龍は素直に、揃ってミズタエに頭を下げた。下げられた方はと言えば、大丈夫と言いたげに首を振り、けれどもやはり疲れは隠せない様子で地面の上に翼を下ろす。
「ワタシ、何処でもそうだもの。チハヤからああ言われた時に、丁度いいって思ったのは本当」
「でも流石に、地龍の
「いいの、良いの。火の上を飛べない騎龍なんて失格だもの。少しくらい無理しないとやっていけない」
狂乱して他の龍に助けられたのが余程堪えたか、
「そう気を落とすでない、妙なる水や。いずれは克たねばならんだろうが、今はそう急く必要もあるまいて。必要なら妾も力を貸すぞよ?」
「でも」
「でもも勝手もへちまもないぞ妙なるや。妾はこれ以上神に死なれとうないのじゃ」
ぷうぷうと頬を膨らませる様は、あたかも駄々をこねる聞き分けのない子供のよう。けれども、その言葉はあまりにも重たかった。かつての山の主を亡くし、村の守り神を亡くし、これから狂気に陥った忘れ神の死すらも見届けねばならぬ彼女の心境など、矮小なる者どもに分かるはずもない。
気まずい沈黙が漂い、それを打ち破るのは他ならぬ渡し守自身である。
「それで、皆のもの。こやつじゃが」
「あの
「
「そうそれ。そいつの――えーと、生まれ変わりって理解でいいのか?」
肩から膝に降りてきたちまきの喉を両手で撫でつつ、小首を傾げてみせる。もしゃもしゃと弄ばれて心地よさげに喉を鳴らす姿が羨ましいのか、自分もと言わんばかりに膝へ乗ってきた影龍の鼻面を指先で突き、渡し守は空いた手で己の髪の毛をくるくると巻き取った。
「より正確に言うならば昇格じゃの。元は単なる転変の竜であったものに神霊の座を授け、霊石を核に器を作った。龍を作ったのは二度目じゃが、よく出来ておろう?」
「多分な。それにしても、金月の眷属になりたい奴なんていくらでもいるのに、何でこいつ?」
「そ奴らはまだ死んでおらん故順番待ちじゃて。それに近頃星の影は『地味』だの『地味なくせにやることが多い』だのと文句ばかりで、なり手が少のうてのぅ。妾の領地を荒らした罰じゃ」
にっ、と歯を見せて一笑。思わず龍の方を見れば、存外落ち着いた風に主の膝へ頭を乗せている。美麗な龍に眉目秀麗極まる少女、大変絵になる図だが、チハヤは呆れも露わだ。
「お前それでいいのかよ」
「面倒な役職であろうと地味であろうと、意味なく死んで何もかも消え失せるよりはマシだろう。星の影を司るというのも、元
「それに?」
「金月は美人だ」
「こやつめ、折角なら美人の傍に侍るのがいいと言って聞かなんだ」
「それでいいのかよお前ら……」
チハヤはもう何も言い返せず、ただ象牙の地球儀を手で撫でつけるばかりであった。
†
「改めて、
「
「ちまきで~す!」
「
場所は、休息していた木陰から広場の真ん中、生い茂る下草に紛れた巨岩の傍。
小山のように
そんな神龍の亡骸を前に、手早く自己紹介など終えたものどもの内――ちまきとミズタエは、待ってましたと言わんばかりの勢いで横たわる岩山に飛んでいった。幼いちまきはともかく、ミズタエまで飛んでいく理由は、チハヤには分からない。彼女も宝石や光り物好きなのだろうか。
ともあれ。視界から龍たちの姿を外し、シンタンに横座りして衣をいじる少女を見やる。渡し守の手元には、空の
「欠けた魂を埋めに来いって、首輪の宝石のことか……」
「おうとも、いつまでも台座しかないのではみっともないのじゃ。――ふむ、相変わらず良い革細工の腕をしておるの。死後は妾付きの細工師にならぬかえ?」
「俺将来は美人の嫁さん作るって決めてるんで、金月付きはちょっと」
「その美人の嫁さんにも座を与えても良いのだぞ? 良いではないか、
やけに熱心な勧誘である。
銀弓、
それに。
「俺は狩人だ。そこは譲れないかな」
「妾とて狩人の守り神じゃ!」
「狩りが終わった後の道中の守り神だろ、金月は」
己は、あくまでも狩人なのだ。細工物はあくまでも小遣い稼ぎの手慰み、本職には熱意も技量も遠く及ばない。それは、チハヤの中では動かし難い自己認識であった。
それでも何とか自身の配下に引き入れたいらしい、きゃんきゃんと言い募る渡し守に、とにかく眷属にはならぬとピシャリ。銀弓を左手に持ち替え、空いた手で腰鞄を漁って布を引っ張り出す。そのまま、胴に象嵌された白翡翠の拭き掃除など始めた狩人へ、渡し守は声を放り投げた。
「
「音刻み? トキネのことかそれ。確かにそいつが作ったって自慢してたけど」
「であろ。……あれは妾の
だから豊穣祭の時に出店があったのか。密かに得心しつつも、言動には出さない。何か続けたげな様子の渡し守へ、僅かに首肯することで先を促した。
次に出てきたるは、呆れと愉快さの混じった苦笑である。
「あれに気に入られると大変じゃぞー、家宝として秘めておかねばならぬような神器を大量に押し付けてくるからのう。あれの神官を見たことがあるが、神器の扱いに大層苦慮しておったわえ」
「何となく予想できる気ィする。俺の金も中々受け取ってくんなかったもんな」
「ついでにあれは落雷の神霊じゃて、気に入らん奴に出会うとすぐ雷を落としたがる」
「……よく住むの許可したな」
ぼそりと呟くチハヤの声には、幾分かの意外さと不信感が見え隠れしていた。
木に囲まれた山へ分け入る狩人にとって、落雷はそれなりに重大な天災の一つである。何しろ、雷とは唐突に湧いてくる上、高い木を目掛けて落ちてくるのだ。万一傍にいれば巻き添えを喰う可能性もある。それだけならばまだ良いが、木を裂いて薙ぎ倒し、火までも点けていく。倒れた木に巻き込まれて事切れた狩人の話も、村を一つ焼き滅ぼした山火事がただ一度の落雷であったと言う話も、チハヤは知っていた。
そんな厄災じみたものを、個人的な感情で落とす神霊。危険なことこの上なきものを、何故彼女は住まわせたのだろうか。
「最初は断ったのじゃがの、細工の腕は随一じゃ。あれを手元に置けるならば、妾としては釣り合いが取れるのう」
「細工が綺麗だからって、ンな安直な……民草の事も考えてくれよなぁ頼むよぉ」
「無論考えなしに置くほど愚かな守り神になった覚えはない。一度でも激情任せに落とせば即追放じゃ」
言ったからにはそうするであろう。星神は勝手奔放に見えて義理堅く、約定や契約の成就に厳しい女神である。そうでなければ、異界の神性でありながら常界に住まうなどと言った芸当を他の上位存在が許すはずもない。
納得を得て、ふと考えが浮かぶ。
「トキネって細工が得意なんだよな」
「おうともよ。保証するぞ」
「山に住んでるんだよな?」
「うむ。
「ちまきの首輪の宝石、頼んだら加工してもらえると思うか?」
思案すること少し。渡し守は、何処か企みがちな笑みを向けて、ぐっと少女の手の親指を立てる。
「あやつならば大喜びで頼まれるぞ!」
「……倉庫を空けとくよ」
探検は終わったのだろう、拳大ほどの赤い宝石を咥えて走り寄ってくるちまきと、その後ろから人の頭ほどもある水色の宝石を抱えて飛んでくるミズタエを眺めながら、チハヤは困った風に、けれども何処か面白げに笑うのであった。
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