間章
間章 とある諜報員の独り言
間諜らは、声なき声で語る。
音は風、意志は影、その存在さえも誰にも語られることなく、そのまま歴史の流れの目に見えないところをひっそりと隠れ続けている。
あるものは吟遊詩人で、あるものは執事長である。間諜という仕事は、存在が秘匿されていることから、こういった仕事の人間がひっそりと行っていることが多かった。
「――エンリケ様は、真にご立派になられました。きっとご当主様も、エンリケ様の影の努力を一番に理解なさっておられるはず。表立って労えないことを悔やんでおります」
「違うよセバスチャン。私はね、昔に父上にとてもひどいことを言ったんだよ。『お前が母さんたちを不幸にしたんだ』ってね。――私にはその罪滅ぼしが、まだできていない」
窓の外から月を眺めるエンリケの横顔は、どこか憂いに満ちていた。
ザッケハルト家の三男にして音楽士のエンリケと、執事長のセバスチャンは、ザッケハルト伯爵家の抱える優秀な間諜である。
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ザッケハルト家の間諜の常識を変えたのは、あの四男坊クーガー・ザッケハルトであった。
「暗号を変えましょう。換字式暗号では頻度分析でなんとなくあたりをつけられてしまいます。頻度の多い文字はeなどの母音、頻度の低い文字はxなどの珍しい文字、と当てはめていけば文章をなんとなく探れます。他にも同じ文字が連続してしまえばそれはsやtなどの限定的な文字だと分かってしまうし、-tion,-ticなどの接尾語のルールや、theなどの冠詞を探せば、解読は比較的容易です」
「暗号円盤を考えました。この手回しハンドルを一文字ずつ回すと、この円盤三枚がそれぞれ素数ステップずつ回転します。小中大に分けてますが、暗号を作る側が小、受け手が大だと仮定します。dogという文章を作るとき、小円盤をd,o,gの文字にあわせ、大円盤が示した文字xydに置き換えます。受け手はハンドルをぐるぐる回して、大円盤がx,y,dを示すように順番に見ていくと、そのとき小円盤がdogを示していることに気付くはずです。……もちろん暗号の周期性がありますので、大中小円盤の文字を、暗号を作る人、暗号を解読する人両方で揃えないといけませんが――その三文字を共有できたら、あとは暗号を作るほうも、暗号を解読するほうも、この円盤をぐるぐる回すだけです」
「旗信号を考えました。これで遠くの旗から遠くの旗へと情報伝達ができます。暗号円盤と使い分けることで、情報伝達速度と情報の機密性を保持できるはずです」
「肖像画や風景画を描く画家のギルトを懐柔しましょう。彼らが握る情報には千金の値があるはずです。リトグラフで絵を大量に作る技術を教えても構いません、それを餌にして画家たちと懇意になりましょう。他にもピンホール効果を利用したカメラ・オブ・スキュラを作って風景画を正確に書かせたりすれば、地政学の研究に役立ちます」
「間諜の人の層を厚くしたいですね。辻占い師、歩き巫女、博徒たちに仕事をあてがいます。偉い人たちの悩みを聞く占い師や、各地を歩き回っている歩き巫女、他にも酒場に入り浸っている博徒らに定期的に金を積み、情報を買いましょう。洗濯女たちの噂もお金で買いたいですね。逆に我々にとって都合のいい風説を流布してもらうことも検討します」
「間諜を疑うなら、関所を自由に往来できる権限をもつ人間が一番怪しいでしょう。例えば僧侶。彼らに扮するものを調べましょう。他にも遊芸人なんかは関所を通る権限がないので、逆に裏街道に精通しているでしょう。欲を言えば裏街道も見張りたいところですが……」
「檀家制度の免状を発行します。葬式や墓の管理は今まで適当に宗教に任せて黙認してきましたが、彼ら宗教家はその仕事を通じて戸籍情報を管理しているはずです。そろそろ無視できません。免状制にすることで、我々も一枚噛みます。領主からの許可証が欲しい宗教家たちからは、いろいろ利権を噛ませてもらえるはずです」
「特殊部隊を急設します。主に山間部の猟師たちを中心に鍛え上げます。目立つことで軍威を誇る旧時代の軍では勝てません。迷彩服をつくります。山そりやボウガンを使いこなすことで、山に逃げ込んだ敵の間諜らを徹底的に始末する算段です」
――などなど。
クーガーの打つ手は実に鮮やか過ぎたといえる。
それも大々的に効果が分からない間諜の世界に、これほど真剣に、これほどの資金を積んで徹底した対策を施す貴族が他にいるだろうか――と皆が驚くほどである。無理はない。彼の情報に対する意識の高さは、この時代の貴族の殆どよりも群を抜いて高かったのだ。
情報に気を払う余裕のある貴族は、王領を任ぜられた貴族や、港などの重要な交易路を任された貴族、政治的境界線に近い貴族などであり、その彼らをしてもなお、クーガーの抱える諜報網には劣るほどである。
しかし、エンリケもまた優秀な間諜である、と知る人間はかなり限られている。
いわばクーガーはただ単にアイデアを出すだけの人間であったが、エンリケは、実際にその世界を生きる間諜なのだから何もかもが違う。
貴族が間諜の世界に手を染めるなど、普通はありえないのだ。
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長男のウォーレンは、血を分けたエンリケのことを真剣に案じていた。
次兄のヒューバットと、長女のナターリエは、彼の持つ情報網の広さに絶句していた。
末妹のマデリーンは、彼のことを一家で最も格好いいと慕っていた。
そして四男のクーガーとは、お互いに底の知れない存在として認識しあっていた。
(クーガー、お前の考えはどれも面白い試みだ。改革には何年も時間がかかるだろうが、これなら
エンリケの影の功績は、かなりのものがある。
社交界でも伊達男と浮き名を馳せ、音楽や詩に精通し、芸術や神学をたしなみ、そして――いつの間にか大事な情報を浚いとるのだ。
抱いてきた貴婦人の数も少なくはない。エンリケの仕事は、己の美貌を活かした影の仕事である。
様々な人の悩みを聞く占い師や、
だがその仕事の殆どは、音楽を奏でるところにある。
(三級遺物『貝殻と響くオカリナ』。間諜たちに渡している貝殻を通じて音のやり取りができる――これこそが私の間諜としての役目。言うなれば司令塔だ)
曲調や音階には意味がある。
極秘裏の情報は、時には解読の難しい方法で伝達する必要があった。
ザッケハルト領を守るエンリケは、家族の中でも類まれなる才に恵まれながら、家族の中で最も汚れ役を背負っている男でもある。
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「そうら、夜がやってくるぞ。何者にも邪魔されない静かな夜だ。冷たい外気と音のない世界なら、私のオカリナの音色は、空気に溶けても、遥か遠くの貝殻に共鳴して歌を歌う。『ザッケハルトの唄う貝』と一部の人には囁かれているが、正体を知れば度肝を抜くだろうね――」
――そして夜がやってくる。空には、誰もかも等しい夜が翼を広げている。
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