社交界へのお誘いを断りながらも、新しい農法(三圃式、ノーフォーク農法)の実験を計画する

 金貨二万枚の使用――それはつまり二〇億円ほどの経済政策を行ったに等しい効果がある。

 一万人を雇ったのであれば、それぞれが二〇万円を手にしたと見なせる。

 とはいえその殆どが、唐棹と千歯扱き作りのための投資であったが(他の内政計画はまだ栽培法の模索など実験段階に留まっているため)、それでも効果は大きかった。


 まず人々の生活にゆとりが出来たことが、一番の効果であろう。農具製作のため人を大がかりに雇用した結果、木製の食器や、羊毛を使った掛け布団が飛ぶように売れたので、間接的に領民の生活も改善されたに違いなかった。


(そうだ、食器を使って布団を使うんだ。衛生的な食事と快適な住環境こそが、人の生産性を底上げしてくれるんだからな――)


 クーガーはこっそりとほくそ笑んだ。金貨二万枚など全然安い投資である。

 皿以外に食器がなくて手掴みが殆ど――という領民たちの為に、ナイフ、フォーク、スプーンを使う文化を広めるのは衛生関係上急務であった。食器を上手く扱えるものは伊達男、という標語を立ててはいるが、果たして効果が出るのはもっと先であろう。

 それより飛ぶように売れたのは、自分用の小皿に取り分ける――という小皿であった。ナイフ、フォーク、スプーンはそこそこ需要が増えた程度である。

 徐々に広まればいい、とクーガーは考えていた。


 戦争により金属類を徴発すると、金属食器がほとんど奪われ、領民の衛生環境が悪化する――お陰でクーガーは知識がまた増えた。

 歴史は戦争である。だが、文化を取り戻すには時間がかかりそうであった。ザッケハルト家は、かつて魔物たちとの戦争で疲弊した歴史がある。

 徐々に文化を取り戻そう、とクーガーは決め込んでいた。






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 剣術に励み、算術、天文学、音楽、幾何学、文法に励み、内政に精を出す。これがあの我が儘坊やのクーガー・ザッケハルトであるとは、にわかには信じがたいものがある。

 周囲の人々は、彼の極端な変化に訝っていた。

 が、「神から天啓を賜った」とだけ説明すると半分は納得してくれた。


 クーガーは変わった。

 あのぽよぽよした締まりのない体は、まだぽよぽよしているものの血色が良くなっていた。

 だらしのないにやけた顔付きは、いつのまにか厳しく理知的に締まっていた。

 何よりも、理由のない癇癪がぐんと減って、使用人たちからは成長なさったと涙を流されたという。


 相変わらず馬術は下手だったり、魔術もあまり得意でなかったりするが、それでもクーガーはあの我が儘ばかりのグズ四男坊ではなくなったのである。

 十三年間ずっと我が侭だらけの手のかかる子供であったが、ここ最近は生まれ変わったようで、今からその十三年を取り返しているような、そんな必死さが見て取れた。


 やがて、今度このザッケハルト領内で開かれる晩餐会に参加しないかという誘いがクーガーに舞い込んだ。

 父ジルベルフも、母マリーディアも、長兄のウォーレンも、次兄のヒューバットも、今のお前なら大丈夫だと肩を叩いてくれたのである。

 だが、クーガーは社交のマナーに明るくない。


「嬉しいお誘いですが、やはり表に出ると恥を重ねてしまいそうです。例年通り、病気による療養ということで欠席できればと考えております」


「しかしクーガー、参加しないほうが恥なのだぞ。ザッケハルト家の四男坊は表に出せないほどの愚物なのか、と要らない勘繰りを受けてしまうことだ。出来れば、親としてもそろそろ社交界に出て欲しいとも思うのだがね」


 そう溜息をつく父親に対し、クーガーは「久しく我が侭を申し上げておりませんでした。ですがどうか、今しばらく。今しばらくはお暇をください。男ぶりを磨きたいのです」と珍しく我が侭を口にした。

 懐かしい、と思ったのか、父は少しだけ考えた。子に甘い父として、ジルベルフは静かに何かを頷いていた。


「……男ぶりを磨くか」


「はい」


「……そうか」


 やがて、根負けしてか「仕方がない」と呟いたジルベルフは、結局クーガーが今度の晩餐会に参加しないことを了承したのであった。






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「お兄様、今度の晩餐会に参加なさらないのはどういうお積もりですか?」


「ああ、マデリーンですか。そうですか、君も聞いていたのですね。……言葉通りですよ、私は今度の晩餐会には参加しない積もりです」


「何故ですか? もういい加減、お兄様も参加なさってくださいませんか。このままではどんどん、社交界に戻るきっかけを失ってしまいます。そうなればお兄様は、将来もっと苦しい立場に置かれるに違いありません」


「こう言っては咎められるかもしれませんが、貧乏貴族の出来の悪い四男坊の私に、どうせ社交界に好機があるはずもないでしょう。父上も母上も、兄上たちや姉上も、全員私のことを買いかぶっているんですよ」


「我が侭です。お兄様は、貴族としての責から逃げておいでです。出来の悪い四男坊だとは仰いますが、それでも、例えば爵位だけでも欲しい裕福な商人の娘と結婚することができます。そのようにして貴族は、誰もが誰も、一族のために責を果たすのです」


「……。ええ、それは痛いほどわかります。ですが私は、今は内政に励みたいんですよ、マデリーン」


「いいえ、なりません。父上も母上も、お兄様を中央の官士にしようとお考えですが、本音では裕福な商人の娘と結婚して欲しいと願っているはずです。社交界で裕福な娘を捕まえ、経済的な後ろ盾を得て欲しいと思っているはずです。それを、我が侭で断るだなんて、そんな余裕は我がザッケハルト家には――」


「5000兆あります」


「5000兆」


「5000兆枚の金貨です」


「5000兆枚の金貨」


「なりませんか」


「何それ詳しく」






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 ここのところ、クーガーの仕事量は膨らみに膨らみ、繁忙を極めていた。

 千歯扱き・唐棹の大量生産と村への貸与、藁物製品などの副業奨励、発酵食品の実験的製作、イモ類の栽培法の模索、石鹸と避妊具の実験的製作、ハーブ栽培法の模索――どれも見込み利益は大きく、産業の発展に寄与すると期待されるものばかりである。


 千歯扱きはもちろん、唐棹とあわせて脱穀の手間を圧倒的に短縮するメリットがある。

 唐棹の扱いを農民に覚えさせることで、緊急時には戦棍フレイル兵として徴発することも可能である。

 発酵食品は上手くいけば、より栄養価が高く、保存にも適した食品を作ることができる。

 イモ類の栽培法および品種改良は、一度確立すれば、新しい土地の開墾が飛躍的に進むであろう。

 植物性油を使った石鹸製造は、上手くいけば大衆の衛生環境を飛躍的に向上させることができる。

 新しい避妊具の作成も、性病予防に効果を上げられるはずである。

 ハーブの栽培法もいっぺん確立してしまえば、農耕の効率だけでなく領民の健康も促すことができる。


 あとは時間をかけるだけ――とクーガーは考えていた。少なくとも半年はかかるであろう。品種改良や栽培法の模索に至っては、何年かかるかも不明瞭である。

 それでも今のうちに手を打っておくことが肝要であるとクーガーは感じていた。


(まだ、打ちたい手はある。農耕方式の実験に手を付けたい。あの有名な、三圃式農耕法や、ノーフォーク式農耕法を実験する必要がある)


 そろそろ潮時だ、とクーガーは睨んだ。

 三圃式というのは農地を、冬穀用、夏穀用、休閑地(放牧用)の三つに区分してローテーションをしながら耕作をしていく方法である。小麦の連作は土壌の地力を落とす。ローテーションは土壌の地力を回復させながら、農業の集約化を図る一つの工夫であったが、この世界ではあまり広まっていないようであった。

 鉄製農具を普及させ、深耕をもっと簡単にできるようにすれば、小麦の収穫も安定するであろう。そしてそうなれば、この一瞬奇天烈にも思われる三圃式も、農民に受け入れられるようになるかもしれない。


 ザッケハルト家も、一応はこのザッケハルト領という名の荘園の領主である。なので指導を入れれば領民たちは、この三圃式であろうが、かぶ・クローバー(家畜の餌になり、地力を回復させてくれる)をローテーションに含めて輪作するノーフォーク農法であろうが、きっと実践してくれるであろう。

 だが、実績がなければならない。何の実績もなしに、領主である父ジルベルフや次期領主ウォーレンが納得するとは思えなかった。いくらクーガーが5000兆枚の金貨を持っているからといって、おいそれと直ぐにそれに従ってくれるとは思えないのだ。


 だからこそ、この三圃式農法とノーフォーク式農法の実験には意味があった。

 実験で結果を出す――それによって、この新しい農法の効果を示すのだ。


(当然成功するはずだ。三圃式農法やノーフォーク式農法にはデメリットがほぼないのだから。それよりも重要なのは――冶金技術だ)


 三圃式農法とノーフォーク式農法の検証実験を今後の内政計画に含めながら、クーガーはやがて一つの課題に意識を集中させていた。

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