王女を見送りつつ、郵便事業による情報チートを夢見ながら、温度管理による養蚕業改善を目論む
第九王女ビルキリスはすっかり回復し、彼女の使用人たちも旅立ちの準備ができたらしい。
そんな訳でクーガーたちは、王女の門出を見送ることになった。
(やっぱりファンタジー世界なんだな。馬の代わりにリザードが馬車を引いているなんて)
王都からこのザッケハルト領地に来ようと思えば、普通の馬では五~六日かかる。街道が整備されきっていないという理由もあったが、それでも馬に重いものを引かせて長距離を走らせると潰れてしまう。
その点リザードは、馬よりも速く、かつ長い距離を走ることが出来る優れた生き物である。途中で馬を交代する早馬と同じぐらいの速さで、ある程度の荷物を引いて移動できるというのだから、その利便性も窺い知れよう。
「おとなしい性格になるよう王家の手で品種交配していったのです」とビルキリスは得意気に語っていた。調教師たちの長年の努力の賜物なのだろう。なぜお前が偉そうなんだ、とは流石のクーガーも口が裂けようと言えない。
(馬車にも工夫が凝らされていると聞いたな。スプリングとして合板が使用されていて、あとクッションとして魔物の皮や羽毛を使っているらしい。車輪も鉄製だし、王都の冶金技術の高さが窺えるな……)
完全に丸い車輪を作るのは、冶金技術が高い証拠である。完全とまではいかないだろうが、ビルキリスの乗っている馬車の車輪は中々良くできているように見えた。
他にも、スプリングなどを利用して振動を抑えている車体の話などを聞くに、恐らくはこの馬車は、並みの馬車よりも遥かに快適なのだろうとクーガーは考えた。
リザードは速い。だからこそ振動を抑制する機構じゃないと人間が耐えられないのかもしれない。
「大変お世話になりました。第九王女として、皆様のご厚意に深く感謝申し上げます」
(これがあの酔っ払いゲロ女子で、そして人の訓練を笑いにきた女なんだよな……こうやってしっかりすると気品があるようにも見えるけど)
凛とした姿のビルキリスは、恐らく同年代の目からみればとても気品があって美しくみえるのだろう。だがクーガーは(こんな速い乗り物でまだゲロ吐かないかな)と全然違う心配が先立っていた。
頑丈そうな馬車は、速くても大丈夫だろう。だがいくらスプリング機構やクッションを凝らしているとはいえ、車内は揺れるはずである。クーガーにはビルキリスが吐き戻している姿しか想像がつかなかった。
「それでは、ごきげんよう」
そう言い残してビルキリスは馬車に乗った。そしてそのままリザードの御者が一言二言何かをしゃべると、とうとう一行の馬車は遠くへと離れていった。
(うーん。土産物はいくつか渡せたし、あと晩餐会で汚れた服も洗って染め直して綺麗に仕立て直したし、多分大丈夫。王族だし服は着捨てるかなと思ったけど、洗濯したらそれはそれで喜んでくれたし)
立ち去る一行を見送りながら、クーガーはようやく解放されたような気持ちになった。
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内政の基本は、大掛かりな土木工事、治水、そして農耕政策である。
その意味では、クーガーがやっていることの大半は、あくまで脇道に他ならない。劇的なブレイクスルーなど歴史には殆どないのだ。むしろ歴史の教科書が劇的なブレイクスルーのみを載せているからそのように見えるだけで、殆どの歴史は基本の積み重ねにある。
それでもクーガーは劇的な改革を望んだ。このまま緩やかに凋落するよりも、劇薬を使ってでもザッケハルト家を活気付けたいという気持ちがあるからである。
そのうち、情報改革もまたクーガーの考える変革の一つであった。
(情報源は大きく三つある。娼婦、商人、神官だ)
情報を制するものは、商売も戦も制する。だからこそクーガーは情報に大きくお金をかけることにしている。
(娼婦が情報を握っているのはよくあること。古今東西、男は女に弱い。男が女にせがまれると、重要な機密をぽろっと話すこともよくある。商人は言わずもがなだ。商機を常に探している彼らにとっては情報は飯の種だ。そして神官も、いわゆる市民の声から宗教団体独自のネットワークに至るまで耳がとにかく広い。この三者を押さえておくことが肝要だ)
領地を持つものには、優秀な間者も必要である。諜報は最大の武器であり最大の盾である。
ここにクーガーは、情報網に対して一枚何か噛んでおくべきだと考えていた。
(特に商人と神官の情報網の広さは、伝書鳩のネットワークを持っているからだ。商人ギルド、宗教団体は自前の伝書鳩を大量に飼っている。人々はそれを借りて離れたところと文通するしかないが、彼らはその手紙の中身をこっそり見ることが出来る。普通の封蝋なんて湯気で簡単に剥がせるから、商人たちや神官たちは自然と情報に詳しくなるわけだ……)
郵便網。
手紙や小物を運ぶだけ、というただそれだけの仕事だが、クーガーはこれをザッケハルト家主導で行えたら情報戦で圧勝できるだろう――と画策している。
郵便の価格競争ならば絶対に負けない自信がある。何故ならザッケハルト家には今や5000兆枚の金貨がある。この王国の国家予算が(各領地の経営を貴族に任せているとはいえ)金貨500万枚程度なのだから、十億年はクーガーが一人で国家予算を提供できる計算になる。(ちなみにザッケハルト家の領地予算は金貨50万枚程度で、伯爵家としては平均をやや下回る程度である)
つまり価格競争ならば、向こうがいくら裕福な金主であろうがほぼ負けることはない。多分国家予算を超えるようなお金をぽんとだせる連中はいないはずである。価格競争による市場争いの結果など、目に見えていた。今、商人ギルドや修道院が握っている情報網はそっくりそのままクーガーの手中に収まる腹積もりである。
だからこそクーガーは、いつかは郵便事業に打って出ようと考えていた。
(まあ、郵便事業なんかはかなり大がかりになるから、今できることと言えば、娼館、商人、神官たちと懇意にしておくことぐらいだな……)
もちろん、郵便改革などは夢のまた夢の遠い話である。伝書鳩を飼い慣らすのにも時間はかかるのだ。それに車や蒸気機関車が発達すれば伝書鳩の重要性も薄れるし、その頃には無線ができているかもしれない。
現実的に考えて、クーガーに今できることは情報を持っている人間と仲良くすることだけなのだ。
(だからこそ、ちょっとアダルトな大衆浴場を作りたいんだけどな。色んな情報が手に入りそうだし。一体いつになれば作れるのやら)
優秀な間者を引き抜けたらそれでもいいのだが、そんな優秀な間者をどうやって探し出せばいいのだろうか――と、クーガーはここにきて、ザッケハルト家の情報網をどのように広げようかと頭を悩ませていたのだった。
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「優秀な間者なら、私にも何人か当てがあるよ。適当に見繕っておこうかい?」
「! ああ、驚きました……。エンリケ兄さんでしたか。エンリケ兄さんはいつも心臓に悪いです」
「ふふ、音楽をやっていると妙なところで情報が手に入るからね。まあ音楽士も物乞いみたいなものでね。路上で横たわっている物乞いたちや、ゴミ漁りをしているおチビちゃんたちも、立派な諜報員なんだよ」
「それは知りませんでした……。文字が読めない人たちだからと思って、勝手に想定から外してました」
「イカサマ師、贋作売り、物乞い、吟遊詩人……私も吟遊詩人に身を落としたから分かるが、こういった手合いは意外と学僧崩れが多くてね。神学校を出ている手前、文字も読めたりして、間諜としては意外と馬鹿にならない」
「……しかし、全員というわけではないのでしょう?」
「まあね。こういうのは知られたら最後だからね。私も彼らと友人じゃなかったら、間諜の人間が紛れ込んでいるなんて知らなかったさ」
「……兄さん、死なないでくださいね。家族で一番危ない橋を渡っているのは、ナターリエ姉さんじゃなくてエンリケ兄さんなんですから」
「それを言うなら、クーガー。お前もだよ。どうにも色々面白いことをしているみたいじゃないか。幸いまだ噂程度にしかなっていないが、もしも改革案が芽吹いた暁には、どれほど世界が動くだろうね」
「……」
「お前に覚悟はあるかい? 力がない人間が下手なことをしたところで、大きな力につぶされるのが関の山だ。だから、命を狙われる覚悟が――」
「5000兆あります」
「5000兆」
「金貨5000兆枚です」
「金貨5000兆枚」
「なりませんか」
「何それ詳しく」
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衣服の素材としてみるなら、
水洗いをすると縮んだりする上、汗をかいたりすればシミになりやすい。虫に食われやすいし、日光に晒しても黄変する。これで肌触りが最悪であれば、絶対に着ないであろう。しかし王族にはめっぽう受けが良いのか、絹製品の文化は、この世界においてもしっかりと根付いていた。
もちろん絹は高級品ではあったが、
何でも遠方の大陸からはるばる、蚕の卵やクワの種を持ち込んだ人間がいるらしい。
そのためこの国でも養蚕が可能になった、とクーガーは聞いている。
(蚕は、餌がなくなっても逃げ出さないぐらい家畜化されてしまった大人しい昆虫だ。しかもタンパク質が豊富で食用にも向く。ナイロンなどの化学繊維が出てくるまでは、養蚕は産業の柱になるはずだ)
無論、このザッケハルト領地でも養蚕をしていないわけではない。養蚕業は高爵位の貴族にしか認められていないのだから、せっかくなのでザッケハルト家もある程度の養蚕は行っている。
しかしそれは、領内での自給自足の範疇を逸脱してはおらず、他の貴族たちや王家に献上したり、特産品として輸出したりするほどの規模ではない。
要するに、まだまだ実験段階なのである。
(ここに新しく、温度管理を導入したい。水銀の寒暖計はまだ世間に広まっていない。だから、養蚕業における温度管理の概念はまだ秘匿されているはず……)
気付いているものは気付いているかもしれないが、多分ごく少数だろう、とクーガーは思っている。
実は、養蚕と温度には密接な関係がある。ある程度適した温度に保っておかないと蚕の吐く生糸の品質が悪くなるのだ。
そのためクーガーは水銀を使ったガラス寒暖計を作り、それによる温度管理制を導入しようと計画していた。
そもそも、温度計が一般的でないこの世界では、まず温度をはかる必要性を誰も感じていなかったりする。室温など知ったところで何になるのか、と思われているのだ。
だからこそ、養蚕において厳格な温度管理が重要であることに気付く人間は少ないであろう。
こればかりは運に恵まれたかもしれない、とクーガーは思っていた。
(別にこのザッケハルト領は絹の特産地であるわけではない。だが、周囲の養蚕技術がまだ確立されていないなら、今のうちにぐんと進んだ技術で優位を築いておくのが得策だろう……)
品種改良も並行して行えばいい、とクーガーは思っている。
既にザッケハルト家でも多品種の交配は取り組まれているが、夏蚕、秋蚕、というようにその季節に強い品種になるよう品種改良を進めていけば、全体の生産量が上がるはずである。
地道な品種改良と、その品種の隠匿こそが、将来ブランドを立ち上げるための宝になる。それまでの間は、温度管理による品質向上に頼りつつ、ザッケハルト領内の養蚕業者を育てていけばいいだろう。
"身に着ける金"とまで言われたシルクの量産――クーガーの見据える内政計画の展望は、果てなく大きかった。
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