それから
二年が経った。
この二年間はクーガー・ザッケハルトの激動の二年間であり、同時に暗黒の二年間でもある。
すなわち、大体何をしてもぱっとしなかった時期でもある。
進捗を一部抜粋すると、以下のようになる。
農具の貸与による脱穀速度の向上――まずまず。次は有輪鋤、および条播機を実験的に導入していく。副業推奨で、蚊帳編みにより虫よけができて疫病対策になると思ったが、蚊帳は高級品なのでまだ一般化してない様子。
発酵食品の開発――微妙。既にあるヨーグルト、ビール、ワインなどはともかく、麹菌の発見がひどく困難。遠方から醤油、味噌など麹菌の元菌が含まれていそうな食品を取り寄せ、蒸麦に加え、さらに木灰を添加することでアルカリ性にし、麹菌以外の菌が成長しにくくなるような環境にしてもなお、種菌を得るのは困難であった。偶然の産物なので、安定して作るには温度管理も徹底する必要があり、かなり試行錯誤を要すると思われる。今後は苦労して得られた麹菌を使って、醤油、味噌などや、塩麹漬けの食品を作ることも並行して実験する。
イモ類の栽培研究――まずまず。ジャガイモの花を甘い香りがするから
石鹸の製造実験――まずまず。植物性油に変えたところで、製造自体は難しくない。塩析の改良で海藻の灰を用いて固形化にも成功。量産化までのコスト面と、硬水であまり泡立たないことが難点。
避妊具の研究――微妙。効果の面では問題がなさそうだが、魔物の腸を装着するという心理的な抵抗があるのか広まるまでは時間がかかりそうである。
ハーブの栽培実験――まずまず。農作物と並行して香料の元になるハーブを育てている農家は領内にもちらほらいたので、彼らの栽培法を参考に実施(彼らは硫黄の煙を農薬として使ったりしていたので、ハーブに害虫抑制効果があることを知らなかった)。ハーブはまだ香料、医薬品という認識なので、ハーブティー文化は標語を作って広める必要がある。
輪作農法の実験、レンゲ農法――実験段階。特に問題はなく進んでいる。三圃式農法、ノーフォーク農法、レンゲ農法、いずれとも現在特に問題はない。まだ二年なので、効果があるかどうかは不明となっている。
お菓子作りの研究――一時打ちきり。お菓子のレシピは現段階でほぼ完成している。一部の商会と、ザッケハルト名産として取り扱えないか交渉中。
新しい養蜂法の研究――良い。思いの外、早く結果が出た。有毒蜂が多いのでおとなしい蜂へと品種改良もしたいが、それよりもまずは情報の機密化を急ぐ。
新しい養蚕法の研究――実験段階。確かに温度との相関性は高そう、という結果。ここから夏蚕、秋蚕など品種改良もかねて、情報の機密化を急ぐ。
気圧計、温度計の作成――ガラス職人に緘口令を敷き、使用用途も言わないままガラス管を作らせて情報を封鎖している。温度計はアルコールを使っているが、精度を上げるため、ゆくゆくは水銀を使用できないか実験中。情報の機密化を急ぐ。
洗濯板――良し。商用化はまだ。由緒正しいザッケハルト、という刻印を施して売るよう、商人ギルドと交渉中。
真珠の養殖――途中段階。養殖に四年かかるので、結果はまだ不明。技術的に困難なことは少ないはずなので、情報の機密化を急ぐ。ヒトデ対策を考案中。
テキサスゲートの導入――実験段階。実験では、鹿などの害獣がテキサスゲートを嫌い、農作物を食べに来なくなった。これを拡大できないか検討中。
堆肥舎の作成――ミミズによるコンポスター、従来の堆肥舎、などをいくつか作成。ハーブティーの出がらしを混ぜたりしているが悪臭問題は依然として課題のまま。ミミズの飼育は順調に進んでいるが水分管理が手間。雑草の種が混入したため、堆肥として使用すると雑草も一緒に育つという課題あり。
肥溜めの概念の普及――下水処理および観賞植物用の肥料作りの観点から、父親を説得して普及を急ぐ。オガクズを利用したトイレを公衆トイレとして複数設置しているが、能力以上に処理させるとすぐに悪臭問題に繋がるので課題は多い。
……などなど。
ここに列挙されている結果は、比較的良好な結果を残したもののみに限定されており、それ以外にクーガーが手がけてきた膨大な実験を鑑みると、かなりの試行錯誤とかなりの失敗があることが窺われた。
特に、ここには列挙されていないが手押しポンプに関しては盛大な失敗であった。
アイデアは問題ないものの、井戸に手押しポンプを作るより、まずは水路を作るべきという結論にしか至らなかったのである(作るならいっそのこと井戸を深堀りするしかないと思われた)。
下水道や下水処理の概念が曖昧であるこの世界では、浅掘りの井戸はかなり危険なのである。試行錯誤により手押しポンプを形なりに完成させたクーガーが、普及を泣く泣く断念したのはそういう背景あってのことである。
そういった意味で、下水処理の実態を改善すべく、公衆トイレや肥溜めの普及は緊急を要した。
使い方をイラスト化したレリーフを彫って壁に付け、今はようやくトイレの使い方が都市部から浸透したところである。だが処理能力はまだまだ圧倒的に足りないので、増築が急がれるほどであった。
また、肥溜めの文化は農村を中心に広まったが、人糞を使うという忌避感を知っているクーガーは、あくまで観葉植物にしか使うなという指針をだした。
結果として、用水路に下水を垂れ流して処理するような他領地よりは疫病問題が比較的まし、という状況を作り出すことに成功していた。(ザッケハルト領地以外にも、疫病対策として上水、下水を分けている領地は存在したが、それらは押し並べて裕福な領地であり、ザッケハルト領のように工事があんまり進んでいない領地で疫病を減らせているのは珍しいといえた)
こうして並べると、クーガーの仕事は偉業であるようにも思われる。だが、誰も驚くほどに気付かない。
せいぜいが、塾の門戸に算術の問題を貼り付けて、娯楽代わりに競って解かせる文化を作ったぐらいが、彼の功績として知られている程度である。
ジンバル機構、ぜんまい、農薬、蒸留酒、胸当て式馬具、紡績機、バルバス・バウなどの船具、足踏みクランチ機構――膨大な数の試行錯誤と失敗が、クーガーの業績を無能なものへと見せかけている。へんてこなものを作ったという噂と、優秀な間諜たちの情報操作、そして地方の辺境地にあんまり誰も興味を持っておらず自領地の経営で精一杯という時代的背景――それらが上手く噛み合って、クーガーのやっていることがただのお遊びに見えるのである。
技術の詳細や、道具の使い道を巧妙に機密化させていることも、実態把握を困難にさせている。
そればかりでなく、間諜たちにかける資金が、国のお抱えの間諜のそれより多いのが恐ろしいのである。
わざわざこの僻地に、そしてそこのバカ四男坊のために熟練の隠密を送るような人間がいるだろうか。しかも王管轄の国有地以上に情報が機密化されているような技術を盗み出すことができるであろうか。
ザッケハルト領内の資金の流れを追うにしたって、間諜たちの目をかいくぐって、ザッケハルト家と懇意な商人たちにわざわざ大枚をはたいて情報を聞き出して、当時の色々グレーな取引を含む怪しい帳簿を膨大な数だけ照らし合わせて、そうしてまでやっとたどり着くのが出所不明の5000兆枚の金貨の一部である。
こんな状況で、ザッケハルト家の動きを把握しろというのが土台無理な話であった。
距離が離れていることは、情報障壁が高くなることを意味している。土木工事を極力控えているザッケハルト家の動きは、馬鹿馬鹿しいほどに目立たない。
もしかすれば、芸術品を買わなくなり、洋服の洗い回し、使い回しが増えたことに気付く人間がいるかもしれない。だがそれは、ザッケハルト家が節約をしているようにしか見えないのである。
ここにきて、クーガーの動きは不気味なほどに注目を浴びない。失敗し続けているぜんまい作りなども、単純に二年間が短すぎただけである。
時間と資金をかければいくらでも、何度でも試行錯誤はできる。このまま行けば、あと十年は誰にも感付かれることなく歴史を進めることができるであろう――。
――そしてこのまま、厳重な機密化を徹底して、とうとうクーガー・ザッケハルトが領地を離れる時が近づいた。
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父ジルベルフ、母マリーディア、長兄ウォーレン、三男エンリケ、次女マデリーン、執事長セバスチャンは、クーガーから引き継いだ膨大な数の仕事に閉口していた。
次兄ヒューバット、長女ナターリエは、王国騎士団や冒険者として領地を離れて活動することも多いので、この仕事の引き継ぎから逃れられ、心底安堵したという。
何せ六名が閉口するような仕事量である。それを一人で執り行っていた
クーガーは変わった。
変わりすぎた。
王国騎士団に所属する次兄ヒューバットが羨むほどに締まった体つきや、【閃光】の名を欲しいがままにする長女ナターリエから色々教わった魔術の技量、そして母マリーディアと次女マデリーンから習った貴族としての立ち振る舞いを、変化といわずに何というか。
妙にモテる三男エンリケから聞いた睦言や手管の数々、父ジルベルフや長兄ウォーレンと日夜議論して学んだ領地経営の基礎的な知識、そして執事長セバスチャンの行動から学んだ偉い人相手の配慮のしかたなどは、クーガーの血肉となっている。
二年は、人を変えるのに十分な時間である。
すなわち――後は社交界に出れば申し分ないというところまで、クーガーは至ったのである。
(否。これでは凡百だ。体つきも騎士団ほどではない、魔術の技量も天才ほどではない、貴族としての立ち振る舞いも最低限を知っている程度。肉体的にはそこそこでも、文化的にはしっかり育てられた子にようやく追いついたかというぐらいだ。これじゃ、ただの田舎貴族だな)
クーガーの自己評価は辛辣である。しかしある意味、正確でもある。
あの愚鈍ぶりを知っている人からすれば感動するような変化でも、所詮は二年間の付け焼刃。十五年間ずっと貴族として真っ当に育った人間と比較すれば、クーガーの方がぼろが出る。
だがまあ、愚鈍の愚物が田舎貴族程度に進化するのなら、上等もいいところであった。
「では、学校に行って参ります。皆さん、本当にありがとうございました」
とクーガーは家族に別れを告げた。
どうせ半年に一度は帰省するが、それでも別れは長い。家族に見送られながら、クーガーは少しばかりの寂しさを感じた。それはほんの少しだけの寂しさで、それよりももっと新しいことに出会えるというわくわく感のほうが大きかったが、しかし別れは別れである。立派になって帰ろう、とクーガーは決意した。
旅路は決まっている。これからクーガーが向かうのは、国の誇る最高学府――魔術学院アカデミアである。
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