不協和音
――初めて、友人二人にミステルちゃんを紹介した日から、二日が経過した朝。
(今日も、二人とも来なかったな……)
毎朝、
お父さんが仕事で出張に行ってしまって居ないから、ミステルちゃんは私が図書館へ送っている。二人手を繋いで登校……本来なら舞い上がるほどに嬉しい筈なのに、わたしの気分は晴れなかった。
……と、そんな時、控えめにくいくいと袖が引かれる感触があった。
『お姉ちゃん、ご飯おいしくなかった?』
今日はワンピースに白いパーカーという比較的ラフな格好にサングラスをかけて、日傘をさしたミステルちゃんが、最近、筆談代わりに使用しているチャットツールで、ふとそんなことを心配そうに聞いてきた……え? 何で?
「そ、そんなこと無かったよ!? うん、すごい美味しかった!」
これは、本当に本当。わかめとお豆腐のお味噌汁も、塩鮭の焼き魚も、ほうれん草のお浸しでさえもびっくりするくらい美味しかった。まるで、わたしの好みを知り尽くしているかのように、ぴったりと舌に合う好みの味。
……わたし、もうこの子から離れられないんじゃないだろうか。そう心配に思ってしまうくらい、この数日のたった数回の食事で完璧に胃袋を掴まれてしまっている。
しかし、凄い朝食ラインナップ。朝起きてダイニングに入ったらとても驚いた。だって、絵に描いたような純和風の朝食がテーブルに広がってるんだもの。
お父さんは、仕事に戻ってからすぐ出張に行ってしまい、今は内地……東京のはず。その代わりに家事を切り盛りしているこの子の仕事ぶりは驚くほど完璧で、文句なんてあるはずもない。
……本人は、これに加えて本当はお弁当も作りたかったみたいで、「まだあまり無理をしないように」とお父さんにやんわりと禁止されていて、不満なようだけど。
だから、不満なんて無い。これだけの仕事を朝早く起きてやってくれたこの子には、感謝の気持ちしか無い。
……本人に言ったら、早起きが習慣になっているだけだと
「本当、ありがとね、朝からあれだけの朝食、用意するの大変だったでしょ?」
そう言って撫でてやると、嬉しそうにはにかみながら……
『でも、お姉ちゃん、ずっと難しい顔をしてる』
画面に見せられたその言葉にギクリとした……そっか、顔に出ちゃってたか……んー、勘付かれてしまっているなら、隠しておくのはかえって余計な心配をかけてしまうかな。
「ああ……うん、ごめんね、心配かけちゃってたね……この前のあの二人、どっちも昨日学校に来てなくて……二人とも、理由もなくサボるような子じゃないんだけど……」
『東狐さんと、狸塚さん?』
「うん、その二人」
『心配?』
「そりゃ、まぁ……」
そんな時、私の携帯電話が鳴った。その相手を見て、固まる。
「噂をすれば……東狐ね」
不吉な予感に駆られ、震える指で通話をONにする。
「東狐、あんた、学校休んでいったい何を……え?」
電話に出るなり、そんな不安を振り払うかのように、怒った声で詰問しようとして……その声が、止まった。聞いた言葉が、一瞬理解できなかった。
だって、その、今、東狐が居る場所っていうのが……
固まったわたしを心配するように、ミステルちゃんがわたしの袖を引いた感触。ようやく我に返って、どうにか電話に聞き返した。
「病……院? って、どういう事……!?」
――日常が、ガラガラと音を立てて崩れていく、音がした気がした。
たった数日前に一緒にお茶をした筈の友人は……現在、大学病院へと搬送され、重症だ……などと、すぐに受け止めることなどできはしなかった。
できればすぐ会いたいという東狐の言葉に、一も二もなく学校に休む連絡を入れると、私達はタクシーを拾い市内の大学病院へ駆け込んだ。
案内された個室には……
「……東狐! あんた、今までなんで連絡も無しに……っ!?」
病室に飛び込んだ私達が見たのは……全身いたるところに包帯が巻かれ、マスク型の人工呼吸器まで被せられた、見慣れない格好の、見慣れた友人。その非現実的な散々たる有様に、思わず絶句してしまう。
「……悪い、心配かけた。ちょっとヘマをした」
機材越しで聞き取り難い、掠れた声。だけど、その声は案外元気そうだ。
「ああ、これか? 大げさに包帯巻いてあるだけで、ちょっと前に狸塚の仲間の連中が処置してくれたから、案外大したことはない、心配しないで」
「……なんだぁ、よかった……なんて言える有様じゃないでしょうが! で、その、狸塚は……?」
周囲に、あの子が居た痕跡が見当たらない。あの子であれば、ずっと友人の看病につきっきりで居そうな物なのに。
……いや、それ以前に……あの子なら、まず真っ先に私達にも連絡を寄越す筈だ。あの世話焼きに限って、「うっかり連絡忘れてました」なんて事は……!?
「……ねぇ、東狐……狸塚、は? 」
声が震えた。悪い予感がみるみる胸を覆っていく。
「……そうだ、目が覚めて、真っ先に聞きたかったのは、それだ。けど……その様子じゃ、お前も知らない、か……くそっ」
「……東狐? 一体、何があったの?」
「……多分、あいつは
「落ち着いて!安静にしてないと駄目だって……!」
だん、だん! と、ベッドを点滴の刺さって居ない方の手で殴り出した友人を、慌てて止める。どうにか
『
気がついたら足元から伸びて来た影の槍で全身貫かれ、戦闘不能に陥った。その際、男は狸塚が邪魔だから連れて行く、と言っていた事。
「そんな事が……ごめん、傷も治っていないのに、無理に話させて」
「ああ……私こそ、悪い。ゴメン、私は少し休む……」
「うん……こっちは任せて」
頼む。最後にそれだけ告げ、再び眠りについてしまった東狐に、わたし達は後ろ髪を引かれながら、病室を後にした。
――心配しないで。狸塚は、わたしが助ける、絶対に。
「……とはいえ、探すって言っても……とりあえず、昨日の襲われた場所を……って、メール?」
まず、あのカフェに向かおうと地図アプリで検索しようと、電源を切っていたスマホを起動すると……どうやら電源を切っている時に来たらしいメールが届いていた。差出人は……狸塚。
あまりに出来過ぎなタイミングで、無性に嫌な予感に駆られ、添付された画像を開く。そこには……
「……狸……塚……?」
――どこかのコンクリートのむき出しな部屋に……手錠で拘束された、傷だらけで、服のあちこちが引き裂かれた……いつもは清楚に佇んでいる友人の、あられもない姿が…‥っ!
「……ふっ……ざけんなぁああっ!?」
――瞬間的に、頭が真っ白に沸騰した。
怒りに任せ、衝動的に街路樹を殴りつけた。加減を誤った拳は、その幹を若干引き裂いて葉を揺らし、周囲の宙に舞わせる。
「……何よ、これ……ふざけんな……っ!」
ミステルちゃんが、心配そうに、『一回移動しよう?』と書いた画面を見せて、わたしの手を引こうとしていた。
「……ごめん、ありがと、ミステルちゃん。少し頭冷えた」
周囲を見回すと、あたりはシン……と静まり返って、わたしの方を凝視している事にようやく気がついた。すっかり集まってしまった視線から逃げるように、この子に手を引かれるまま、人目につかない建物の影に移動する。
「……ごめん、やっぱり落ちついてないや、頭がぐちゃぐちゃで、どうしていいかわかんない……」
がりがりと頭を掻きむしる。どうしていいか分からない。東狐の話からすると、丸一日以上経過してしまっているのだ。
一体あの子はどんな目に遭っているのかと思うと、色々な感情が渦巻いてぐちゃぐちゃで、考えがまとまらない。
『お姉ちゃん、これ』
ミステルちゃんが、何か見つけたと、画面の一部を指差していた。そこには、見せつけるように一緒に置かれた狸塚の携帯。だけど、それが何か……いや、画面をよく見ると……その日付は、今日、それも……
「これ……ついさっき撮ったやつ!?」
ほとんど、時間が経ってない。精々一時間くらいだ。慌てて着信履歴を確かめると、撮ってすぐに投稿したらしい。しかも……冷静になってよく見ると、着衣は乱れているが、それ以上の事をされた形跡は無い。傷はおそらく戦闘によるものだ。
――まだ、急いで助けに行けば間に合うかも知れない……!
更に添付された地図を一瞥する。ここなら、少し遠いが場所は問題ない。
「ミステルちゃん! 貴女は先に家に帰って……」
こんな、あからさまに罠だと言っているような場所に連れて行く訳にはいかない。家には、お父さんが知り合いのツテで張ってもらった結界があるから、多少は安全な筈だ。
そう判断して振り返った先では……ミステルちゃんは、今に泣き出しそうな、置いてかれた子供のような顔で私の裾を、掴んでいた。
『私も行く』
何かに怯えた様子でそう入力した画面を見せるこの子に……やっぱり、戦わせたくないと思った。
確かにこの子は、わたしより強いのかもしれない。それでも……脳裏に、先程の写真の姿が過ぎる、この子をあんな目に逢わせるわけにはいかない。
「……ごめん、やっぱりわたしは君に戦わせたくない。無理はしない。絶対に帰って来る。一人にしないって約束する。だから……お願い、家で待ってて」
それだけ告げると、それでも未だに心配そうに見つめるその小さな体をそっと引き離し、身体強化をフルに起動し、全力で駆け出した。
(……お姉ちゃん、待って!?)
声が出ないのがもどかしい、こういう時、筆談は何の役にも立たないと痛感する。
(レティム、居る!? 居るわよね!? お願い、お姉ちゃんを追って、場所を教えて! 私も後で追いつくから!)
(りょ、了解です、マスター!)
上空で待機していたレティムが、慌ててお姉ちゃんを追った気配。
相手は話を聞く限り、魔神だ。それも眷属などではない、正真正銘の。相手にもよるけれど、その正体が分からない以上、一人で送り出すわけには行かない。レティムの飛んで行った方向を確認する。
……自分でも、よく分からない。だけど、ここで一人になったら二度と会えないような気がする、漠然とした不安。気がついたら、カタカタと小さく震えている手足に、がくりと蹲る。
――怖い。何故か分からないけど、たまらなく怖い。
それでも、行かないと。どうにか震える体を宥め、一歩踏み出――
(……っ!?)
――したその瞬間、世界が紅く染まった。突然の周囲の変貌に、踏み出した勢いで数歩たたらを踏み、立ち止まる。
日の光は遮られ、代わりに町を照らすのは禍々しく紅い月。空の闇は何処までも深く、ただそこに立っているだけで、何かに喰われていくような錯覚を覚える……いや、実際にこうした怪異に耐性が無い者は、ここに居るだけで蝕まれ、昏倒するに違いない。
――そして何より、人の気が、まるで感じられない。午前中の、大病院の敷地だっていうのに……?
呆然と、その光景を眺めながら、不意に理解する――そうか、これが、東狐さんの言っていた『裏界』か。
「ふ、ふふふ……ようやく、邪魔な周りの奴らが居なくなって、二人きりになれた……」
(……ひっ!?)
するっと、突如背後から首筋を撫でてきた冷たい手の感触。相容れない気配に、ぞわりと全身が総毛立った。
(――嫌ぁ……っ!)
手の冷気と共に肌に入り込んでくるかのようなあまりにおぞましい感触に、全力で背後に体当たりをし、そこに居たものから距離を取る。
「ああ、ようやく、会えたね、僕の可愛い可愛い妹……」
数歩、よろめきながらもすぐに体勢を立て直した人影が、まるで気にした風もなく、一歩、こちらへと歩いてきた。たまたま、そのタイミングで建物の陰から出てきて、紅い月の光の下に露わになった。
――その、顔は……
(……ぇ……なんで、ここ、に……?)
――京都にいる筈の兄が、そこに立っていた。
いや、可能性は、病室で東狐さんと会話した時点で脳裏をよぎっていた。しかし、まさかまだ未成年である兄が……どれだけ暴虐な振る舞いを私にはしていても、父や祖父などの、自分の庇護者である他の家の者達には逆らうことはあまり無かったあの兄が、まさかこんな所に……と、無意識に考えから排除していた。
――排除、したかった。
「さぁ、家出の時間は終わりにしよう……連れ戻しに来たよ、僕の可愛いお人形さん?」
だけど、その様子がどう考えてもおかしい。このような、気色の悪い猫なで声を出して私を呼ぶような奴じゃなかった。まるで聞き分けの無い子供に語りかけるようにしながら一歩ずつ距離を詰めてくる兄。私は、それに合わせて後退する。
――嫌だ、近寄りたくない。私はもうあの家とは関係ない……っ!!
「居なくなって気がついたんだ、僕は君が大好きだ、愛している……そうだ、誰にも渡すものか、君は、ずっと僕の元で、何も考えず僕の為すがままに愛でられていればいいんだ……!!」
陶酔したように、気持ちの悪い自分勝手な愛の言葉をぶつけてくる兄。その内容は、聞くに耐えない独り善がりなもので、吐き気がする。
興奮状態にあるその様子は、その目は、どう見ても正気の物ではない。爛々と赤い月光を浴びて輝く目は、明らかに常軌を逸しており、まともな状態ではないと一目で分かるほどにその異常さを象徴していた。
(……憑かれた、のね)
だったら、私のやることは、一つ。私の生まれた意味を遂行するだけだ。眼前に、光り輝く杖が現れる。目を閉じて、イメージするのは前世の自分。
(……魔神は、
――
杖を中心に、私の体を覆うような白く輝く魔法陣が展開された。それは、私を包んで背後へと抜ける。
陣を潜り抜けた場所から、体が肉体の軛から解き放たれ、魔法そのものである体へと置き換わっていく。背に翼が構成され、最後に、肘から先を純白のガントレットが覆いつくした。
(短期未来予測魔法『ラプラス』……起動確認。周囲の情報取得、予測範囲をコンマ5秒に設定、予測演算開始)
(……統合魔法制御支援システム『オーリオール』…………起動確認。各種情報、視界へと転写)
術式起動確認と共に、後頭部へ十二芒星を起点とした幾何学模様の光輪が現れ、回転を始めた。
(…………?)
何か、引っ掛かりを覚えた……が、特に問題は無く起動している二つの術式。私の周囲に各種情報が次々と展開されていく。
「逆らうのか、僕に……そうか、あの女のせいか、くそっ、あの
激昂する兄に呼応して、周囲の影が盛り上がって形を取っていく。
下級魔神……他の魔神に使役される雑兵である『アザービースト』だ。
『オーリオール』が、その全てを瞬く間に精査し、情報を表示していく。数こそ多いが全て標準な範囲内でしかなく、特に変わった個体もいない。油断さえしなければ今の私にも大した脅威ではない……はずだ。
――この件の主犯がこの兄なのだとしたら……私が、ここで終わらせる。東狐さんも、狸塚さんも……お姉ちゃんも! もう、誰も傷付けさせない……っ!
――そう、決意を心に灯し、ばさりと背中の翼をはためかせた。
――どこか、心からこびり付いて離れない、不可解な不安を抱えながら――……
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