~幼年期9歳~ 月下の再会



「……今夜10時に襲撃があります。その時に逃げる手配をしますので、いつでも出れるようにしておいてください」


 いつも通り寝静まった屋敷の浴場で身を清めていると、突如耳元でささやかれた言葉に耳を疑いました。


 慌てて振り返った先には、早希さんのいつも通りのどこか悲し気な微笑み。それに、私はただ頷くだけしかできませんでした。











 早希さんのの言う通り、夜中の10時、遠方で襲撃音……爆発の音が聞こえてきました。が、この襲撃は、すでにこちらの家の方へと情報が漏れており、万全の態勢で迎え撃つ準備が整えられ、襲撃者たちを待ち構えていたようです。


 ――そう、『襲撃者』の目論見通り、です。


 今、私が監禁されていた、この本家の邸宅はしんと静まり返っており、人の気配はありません。


「私が、私と同じく使用人である夫と共謀し、その情報をそれとなく家の者達が察知できるように、誘導しました………襲撃者の、依頼で」


 早希さんが、私にそう語りました。

ここ何代かは身内の水面下の争いに腐心し、実戦経験は皆無にも関わらず自らは選ばれた優秀な一族だという自負を抱える彼らは、それを摑まされた情報と疑わず、総員で襲撃者狩りだと手柄を競い合う心積もりでそちらへ向かったらしいです。


 ……早希さんは、ずっと、私の事を逃す機会を伺っていたそうでした。その中で得た協力者が、此度の襲撃者だと。

 この襲撃は、外部に協力を取り付けて来たものたちが起こしたもので、私が逃げる隙を作るための陽動なのだと。


 監視が出払っている間、私は逃げれないように手枷足枷を嵌められベッドに繋がれていましたが、時間丁度に表れた早希さんが、その拘束を何処からか取り出した鍵で取り払いながら。


(こんなにも、私を心配し、思ってくれていた人が側に居たのに、私は……)


 世を儚み、半ば諦観に沈んでいた事を恥ずかしく感じました。もっと、彼女を信じて相談していれば、ここまで追い詰められては居なかったのかもしれない。


「裏の使用人の勝手口から出てください、皆襲撃中は地下に避難しており、私の夫がその誘導をしています。以前話したルートで通れば今なら使用人もおりません。そこで迎えが来る予定です……お嬢様の、お母様の家の者達です、信用できる方々です」


 私の服装を整えながら、そう教えてくれる彼女。そのルートも覚えがあります。

 あれはその時はただの日常会話だと思っていた、食材を届けに来る業者が使用する道順の話でしたが……大丈夫、覚えています。


 でも、早希さん、貴女は?

 傲慢にどっぷりと漬かった彼らはおそらく自分たちの使用人の裏切りなど想像もしていなかったでしょうが、それ故にことが発覚した際に彼女やその家族へ向かう怒りは相当なものになるのではないでしょうか?


 目で問いかけると、大丈夫、心配するなと微笑みかけられました。


「家族も了承済みです。家族と一緒に逃げる支度は手配してもらってます。ですから……お嬢様も、こんな酷い家の事など忘れて、向こうできちんと自身の将来を考えてください……お幸せに……どうか、お元気で」


 着付けが終わり、とん、と背中を押され、この牢獄のような小さな部屋から追い出されました。

 私の記憶が戻る前、乳飲み子の頃からずっと面倒を見てくれた人。どれだけ私は彼女に恩があるのでしょう。


(あ、り、が、と、う)


 声は、出ませんでしたが。せめてそう口にして頭を下げると、指示された道へ駆け出しました。








 台所から裏口に出ると、遠くの方でまた火の手が上がりました。しかしここまでの道程では早希さんの言葉通り、誰にも遭遇しませんでした。


 屋敷から出たことは、二年前のあの日、私の腕の吹き飛んだ、お披露目の宴席の時っきり。一人で外を出歩くのに至っては今生で初めてでした。


 初めて自分の足で踏み出した外は。

 空に浮かぶ満月が――そうだ、早希さんが以前、そろそろ中秋の名月という時期だと言っていましたが、それが今日だった――よく手入れされた庭園を明るく、蒼く浮かび上がらせており、このような時、このような場所ながら……泣きたくなるほど美しく私の目に映りました。


 ……見惚れている場合ではありませんでした。


 家の庭へと踏み出すと、満月の光と襲撃者の放った炎で光量は十分に存在しており、足元は問題なく見えました。

 しかし、権力と財力を誇示するために手入れをされた日本庭園は、白く丸い砂利が敷き詰められており、この床板と畳にしか慣れていない小さな足では、うっかりするとすぐ足を取られそうで走り難い。


 それでも、必死に足を動かします。度重なる暴行で伏せがちで、まともに運動などしてこなかった体は少し走っただけでも息が上がり、ひゅうひゅうと掠れた音が喉から鳴ります。

 その喉は焼け付くように熱く、心臓は早くも悲鳴を上げ始めバクバクと脈打っており、肺は今にも破裂しそうだが……今日この時を逃してしまえば、きっと私は完全に自由を奪われる。


(肉体が有るのがこんな苦しいとは……こんな事なら、少しは隠れて鍛えておくんでした……!)


 とはいえ、私が何か鍛錬した素振りを見せたら、どこからか告げ口された家の者が現れて執拗な体罰が行われるでしょうが。




 ――それでも、目的地はあと少しまでの距離に見え始めている。使用人の使う勝手口がすでに目の前に迫っており、あとはそこを出て迎えを待てば……!


 そして、とうとう出口に手が触れた、そんな、僅かに気が緩んだ瞬間。


「……っ!?」


 何か粘液状の物が脚に絡みつき、疲弊しきった体はひとたまりも無くその重さに足を取られてもんどりうって地面を転がった。


 慌てて何かがまとわりつく足を見ると、そこには……


「……っ!?」


 てらてらと光る、蠢くゲル状の物体……スライム!?


「……! ……っ!」


 どうにか引き剥がそうと足を振るも、一向に離れる気配がない、どころか、何かが抜けていく感触と共に、脚にかかる重量……否、スライムの体積が増えていく。私の力が吸われている……!


 みるみる体積を増したスライムが、下半身を覆いつくし、全身に纏わりついていく。着ているものが粘液に汚れ、その重量で身動きを拘束されていく。あと、少し、だというのに……っ!


 不意に、全身の力が抜けた。どう足搔いても力が入らず、そのままべしゃりと土の上に崩れ落ちる。


(これは……麻酔……!?)


 もはやどれだけ焦っても、毒液に浸された体は僅かにしか動かず、今絡みついているゲル状のものを引き離す事すら敵わない。


 じゃり、と背後から石を踏む音が聞こえました。


「ははっ、暴れられた時のために、こっそり持ち出しておいて正解だったよ……」


 目的地を目前に、身動きが封じられ呆然とする私の傍に、一つの人影が姿を現わす。


 ……バカ兄……何故こんな場所に……!


「皆が出払っている隙に僕の玩具で遊ぼうと思ったら居なくて驚いたけど……」


 その彼がすっと手を上げると、身体に絡みついていたスライムが身を引いて、伸し掛かっていた重圧は消えたが……既に手足はまともに動かず、身動きは封じられていた。


 信じがたいことに、現在襲撃されているどさくさで、私を弄ぼうとしていたと。

 目先の危険を危険と感じず、自身の劣情の事にしか頭になかったとは予想以上の暗愚ぶりですが、だがしかし実際にこんな事で最悪の危機に陥っているとは笑えない……!


「お前みたいにいつも馬鹿みたいに力を垂れ流している相手への猟犬としては、最高だったみたいじゃァないか、なぁ!?」

「がっ!?」



 力の入らない体を、髪を掴んで上げさせらた、次の瞬間思い切り殴られた。衝撃に眼前に星が散り、脳が揺さぶられて意識が途切れかける。


(駄目です、ここで意識を失ったら本当に終わってしまう……!)


 ぐっと歯を食いしばって意識を保とうとする。ここで諦めたら、早希さんの献身まで無駄にしてしまう。

 私の身体は纏った治癒の力で毒が抜けるのも早い、耐えて、機会を……!


 着物の襟が捕まれた。ずりずりと引きずられ、なす術なく手近な建物……塀に併設された物置に引きずり込まれると、掴まれた襟首を乱暴に振り回され、物置壁に叩きつけられた。


「……お前のせいだ、お前が来たから……僕が、僕だけが崇められる存在だったのに! 神子だなんて持て囃されたお前が来たから、僕は!」

「……がっ、は……っ!?」


 襟首をつかまれて再度壁に叩きつけられた。衝撃で肺の空気が絞りつくされ、げほげほと咽せる。そうこうしている間に狼藉者の手で着物の腰帯がほどかれ、はだけられた着物の肩がずり落ちて肌が外気に晒された感触。


 ――目が、合った


 憎悪と、嫉妬と、情欲がごちゃ混ぜになった眼光と、喜悦に歪んだ顔を目にし、心臓が握り潰されたかのような悪寒が胸を貫く。


 ――嘘だ。


 ――こんなおぞましい目を、今まで取るに足らないと、なんとも思っていなかったなんて、嘘だ。


 諦観という鎧を纏い、必死に誤魔化していただけに過ぎなかった。


 今、一度希望を見て、既にその鎧は剥がれてしまった。残っているのは、無力な童女でしかない。


 ――怖い


 ――嫌だ


 ――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!



 私の白い肌を目にした眼前の男の目が、一層強い欲望にぎらつく。顔を歪めて舌舐めずりした男が、必死に距離を離そうと押す私の細腕をあっさり封じ、首筋に顔を埋めた。


 必死に抵抗しようとしても、薬品に侵された体では僅かにも引き離す事が叶わない。いや、きっと万全な状態であっても、一度も鍛えられた事のないこの細腕ではきっと叶わない。


「父上を笑い者にして満足だったかよ……! お前のせいで、僕は分家のクソみたいな連中に、あんな前は媚びるしか能のなかった連中に舐めた目で見られたってのに……!」


 半ば狂乱状態で逃れようとする私を嘲笑うかのように、首筋を、鎖骨の上を這いまわる舌の感触はまるで蛞蝓がのたうち回っているかのようで、全身に鳥肌が立つ。かと思いきや、がりっと肩に立てられた歯に、壊れた喉は悲鳴すら上げれずその代わりの空気だけを吐き出した。


 身をよじって逃げようにも、毒が回り、手首を壁に押し付けられ、脚の間に膝を割り入れられた現状ではろくな身動きも取れない。まだ幼い奉公人が時折姿を消す噂がふと脳裏に浮かんだ。こいつ、初犯じゃない、やたら手馴れている……っ


「だからさぁ、今度はお前の尊厳を奪ってやる……! 滅茶滅茶にして、その澄ましたツラを情けなく蕩かして、今後ずっと無様を晒す状態にして飼ってやるよ……!」


 肉付きの薄い太ももの上を、肌の感触を楽しんでいるかのようにいやらしい手つきで、手が這いまわる。その手はどんどん、上へあがってきて、お尻の丸みを、そして……


「皆用意ができるまで待てって説教するけどさぁ、どうせそのうちお前は俺の物になるんなら、俺の好きにしたっていいじゃん、なぁ?」

「……っ!?」


 ぶんぶんと首を振って拒絶するが、むしろその私の様子に気を良くして、目を血走らせて肌を蹂躙する。着物の中に潜り込んで臀部を撫でまわしていた手が、股の間に向けて進行してくる。


(い、や……!)


 手足の感覚は未だ遠く、きっと好き放題蹂躙されるだけの時間は十分にある。

 しかしたとえ薬が抜けたとしても。ひ弱なこの身ではとても敵わない。ここまで、ここまで無力だったなんて……っ!




 ――ごめんなさい、早希さん……せっかくあなたがくれた機会を、私は……




 申し訳なさに情けなさ、そしてまだ産毛すら無いそこへ向けて手が伸びて来る、あまりのおぞましさにぎゅっと目を瞑ったその瞬間――


(――マスター、頭を低くして!)


 久々に脳裏に響いた声に、考えるより先にお尻を滑らせ身体を精一杯捻り、頭の位置を下げる。


 図上を、何かが掠め、ガッという打撃音が響いた。


「あ……が……っ!?」


 呻き声と共に、力を失った男の体がこちらに圧し掛かってくる。突然の出来事に内心パニックになっていると、誰かが私の上から重荷をどかし、脇へと放り捨てた。


「あ、あっぶな……約束の場所に居ないと思ったらこんなことになってたなんて……よく案内してくれたね、ありがとう、わんこ! やっぱりお前は幸運のお犬様だ!」











 ――心臓が、止まったような気がした。いや、実際一瞬止まったのかもしれない。











 ――知らない声が聞こえた


 ――いや、知っている。今生では、初めてなだけだ。あまりに予想外で、あれだけ聞いた声なのにすぐに理解できなかった。



 ――だけど、しかし、でも、だって。こんなタイミングで、彼女がここに居るわけがない。そんな、都合の良い奇跡が、ある訳が……


「ごめんね、遅れて。怖かったよね。君が……うん、保護対象みたいだね」


 僅かに息を切らした場違いなほどに朗らかな声……懐かしさすら覚える声に、体が硬直する。


(い、いや、そんな……聞き間違い? ……そんな、はずが……)


 恐る恐る、目を開ける。そこに立って、屈んでこちらに手を差し伸べている彼女は……


「――――――――ッ!?」



 ――ああ……これは夢だろうか?



 驚愕に見開かれているであろう両眼から、ぽたぽたと、水滴が頬を伝い零れ落ちた。こんな機能が私にまだ残っていたなんて――


 孤独に震え、折れかけていた心が、それでもその手をよろよろと、眼前に差し伸べられた彼女の手を求めて必死に伸ばしていました。


 目を開けた先――小屋の入り口から差し込む、青白い月光を背景にして佇んでいたのは……失ってしまったはずの彼女。


 ――前世の主、『アマノ ヒオウ』


 記憶にある彼女そのものな姿の少女が、肩にレティムの白い体を乗せて、驚いた表情でこちらを見つめているのでした――……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る