~幼年期9歳~ 覚醒

 この私を抱いている腕の感触も、温かい体温も、本物だ。

 夢じゃ、ない。間違いなく、彼女は私の知る『アマノ ヒオウ』その人だ。

 だけど……




「……どう、落ち着いた?」


 優し気な彼女の言葉に、こくりと頷きます。


「……怖かったよね。ずっと、辛かったよね。もう大丈夫、こんなひどい目にはもう逢わせない……!」


 先ほどまでの、自分の意志では全く止められなかった涙を、彼女は助けられたことによる安堵だと思っているようです。


 現在は、屋敷の敷地外へ出てだいぶ進んだ場所。彼女は私を抱きかかえ、夜の森を疾走中でした。

 未だ手足の感覚は鈍く、それ以前に万全の体調でも足の遅い私は、彼女の腕に抱かれていました。





(……ヒオウにしては、遅い)


 いえ、本来の人間の身体能力と比較すると、恐ろしく速い事には違いありません。彼女の身体能力は、おそらくトップアスリートと呼ばれる人たちよりもさらに一歩上の領域の筈です。


 しかし、それでも『前の世界』でのヒオウに比べれば、雲泥の差と言えます。


(尤も、前世のヒオウの全力疾走は、私が空を飛ぶよりも早かったですが……)

(あはは、僕も勝てなかったです。でもこっちの世界でそれをやっちゃうと大変な事件になりますよー)


 そうね、と苦笑する。私を取り巻いていた環境はさておいて、こちらは表向きは平和な世界だものね。


(……ですが、僕にも、犬を見た時程度の反応しか示しませんでした。以前はあれだけ『モフらせろぉー!』って一目散に追ってきていた彼女が、です)

(……そういえば、そんなことが日常茶飯事だったね)


 私達のよく知る姿をした、でもその私達の知る『ヒオウ』とはどこかずれている彼女。

 気を緩めている場合ではなかった……背筋を、冷たい汗が伝う。


(……だとすると、今のヒオウは前世の記憶も力も無い……?)

(……その可能性は高い、と思われます)

(だとすると、少しまずい……!)


 確かに家の一族は分家に至るまでほとんどが愚物でしたが、それでも彼らはこの時代まで存続していたのだ、何故ならば……その悪い予感が当たらないように、必死に祈ります、が。


「……ごめん、追手だ。凄いな、気付かれた上に追いつかれた」


 ――その望みは、あっさりと打ち砕かれた。


 私を抱えたヒオウが、一筋汗を垂らしながら私を木の陰に隠すように下ろします……駄目、逃げて! 駄目だ、駄目なのだ。ここで彼らと戦うのは。何故ならば彼らは……


「大丈夫、すぐ戻ってくるよ」


 しかしヒオウは、そんな引き留めようと袖を弱々しく握る私の頭を軽くポンポンとたたくと、踵を返して離れて行ってしまう。


(マスター、私は救援を呼んできます!)

(心当たりがあるの!? お願い、急いで!!)


 レティムがぱたぱたと羽ばたいで急上昇し、闇へ消えた。お願い、どうか間に合って……!


 いつの間にか手に握っていた刀を抜き、向かった視線の先には、以前私がまだ『神子』だった時に周辺警護をしていた狐面の傀儡……通称『狐面衆』。


 ――禁忌の術と、傀儡ゆえの自らの身の安全を一切考慮しない、この家最大の戦闘集団でした……






「……くぅ!?」


ギャリギャリと火花を散らし、相手の短刀が首筋ぎりぎりの位置を通過していく。


(こいつ……本当に人間!?)


 膂力は僅かに私に分があるけど、速度は向こうが上、そして相手はは恐ろしく容赦がない。ああ、もう、殆どそれしか能の無い分、身体強化には自信があったのになぁ……!


 気を付ける様にとは養父に厳命されていたけれど、ここまでとは思ってなかった。けど。


 わたしを見るや、涙を溢し始めた女の子。涙の止め方も、泣き顔の作り方も分からないみたいで、無表情のまま、ただただはらはらと頰を濡らしていた。


 ――今までどれだけ辛い目に遭っていたのかな。


 抱き上げると、吃驚するくらい軽くて。普通なら、もっと背も体重もあるはずなのに。

 そんな女の子は、まるで、わたしの体温を求めるかのように身体を擦り寄せて抱かれていて。


 ――もうこれ、絶対、何がなんでも守るしかないわよね!


「……捕らわれのお姫様が見てる前で、だっさい所は見せられないよねぇ!?」


 刀を正面に構え、その峰に手を添えた。


「……『Burn out燃やし尽くせ』!!」


 体の内から、急激に燃料が燃えていくように魔力が抜けていく、代わりに漲ってくるのは力。視界の端に舞う髪は真っ赤に染まり、風を巻き上げて逆巻き始める。


 魔力は、ガソリンだ。


 心臓は、原動機。


 魔力を燃焼させ、爆発的に膨れ上がった熱は心臓から体内を駆け巡り、全身隅々まで力が満ち溢れ、人の域を突破する。


 わたしは魔術の才能は無いけど、ただ一つ得意な事があった。

 内功による全身の強化。魔力量は少ないし扱いは苦手だけど、それで全身を満たして身体能力を上げる……それだけは大得意だった。


 そして、これはその延長……限界を超えて体内を巡らせた魔力が、全身を限界まで強化したのみならず、圧力に負けて体外へ噴き出した力が炎となって顕現する。


 こちらの様子など意にも介さず振り下ろされてきた狐面の短刀を、炎を纏った拳で殴り返す。同時に硬化も発動している文字通りの鉄拳が、急激に熱せられ脆くなった短刀をヘシ折った。


咄嗟に飛び退った敵……今までの攻防で、攻撃に失敗したら下がる、というルーティンは読めている!


 ――生憎、バクステ狩りは大得意なのよ!


「喧嘩売ってきて逃げてんじゃ、無いわよッ!」


 全身に満ち溢れる力を両脚に集中し、地を蹴って追い縋る。猛烈な勢いで迫る速度そのままに、相手の顔面に飛び膝蹴りをかましてやる!


「まっ……だっ、だぁあ!!」


 衝撃で砕けた仮面を空中で掴み取り、反動で後ろへ吹き飛んだ身体を空中で反転させ、着地する。

立ち上がるまでの一瞬の隙を突いて迫った狐面の、仮面が割れて露わになった右目に向けて、先ほど掠め取った破片を投げつける!


(隙ができた……!)


 目を庇い一瞬怯んだ隙に、敵の懐へ飛び込む!


「こっちは、暇じゃないのよぉ!! さっさと寝てろぉぉぁあああ!!」


 刃を返し、奴の胴体へ吸い込まれた刀の峰。肉が火に炙られる不快な匂い。めきりと硬い物が砕ける感触があるも、フルスイングで振りぬく!


 火だるまとなりながら、バキバキと地に転がった枯れ枝を砕き、火の粉の道を作って転がった狐面は、そのままピクリともせず起き上がってはこなかった。


「……はあっ! ……はッ……ふん、どんなもんよ! さ、お待たせお姫様」


 振り返り、先程下ろした子を再び抱き上げようと後ろを振り返ると……へたり込んだ彼女はまだ何かに怯えたような目で私の背後を見ている。


「……ん? どしたの? 追手はもう――」

「いやはや、よもや貴様のような小娘に後れを取るとは……こ奴らの性能も落ちたものだ、もう少し強化するべきか」

「……っ!?」


後ろから、どこかいやらしい響きのする声。

慌てて振り返ると――


「……はは、うっそぉ……」


わらわらと、森の奥から数人の人間が狐や犬……それもまともな生き物では無いと目を見ればすぐわかる……や鬼といった式を携えてこちらへ向かって来ていた。

そして、その先頭では、一人の偉そうなオッサン……たしか、この家の現当主……を守るように、先ほどの狐面が、そこに佇んでいた――













 彼ら狐面衆には、家の当主にしか知らされない一つの秘密にして切り札がある。

 私は、こっそり彼らの能力を精査した。だから知っている。


 彼らは、その思考を共有している。言葉も無しに、相互に瞬時にお互いの行動を把握、連携するために。

 当然そんなもの、普通の人間であれば瞬く間に発狂する。外法で自我を奪われている彼らだからこそ可能なのだ。


 だから……一体に見つかった時点で、その全てに見つかる。詰み、なのだ。


 ――私の、せいだ。


 先程追ってきていたのは、兄のお付きの物だった。私が見つかって、彼女がその兄を倒したから、そのお付きの狐面衆に勘付かれた。


「……さて、それではお前達、そこの盗人の小娘を捕らえよ。ああ、殺すでは無いぞ、五体満足で確保しろ」


 彼女の処遇の話をしているはずなのに、父上殿の視線はこちらを捉えて離さない。まるで、良い玩具を見つけた、と自慢するかのような顔で。


 顔から、血の気が引いていくのが分かる。まさか、彼らは……


「どうやってその玩具を手懐けたかは分からんが……その小娘には……そこの生意気にも逃げ出した『玩具』を、完全にへし折ってやる手伝いをしてもらわねばならんからなぁ!?」


 捕まえた虫を解体して遊ぼうとするかのような目が、私を射抜く。


 私の前で、嬲る気だ。逃げ出した私への見せしめに。


 体が、カタカタと震えだす。


 ――嫌、やめて、それだけは!


 一体でも手に余る彼らが、今ここに5体。敵うわけがない。向こうもそれは承知で、完全に高みの見物と決め込んでニヤニヤしている。


 必死に応戦しているヒオウも、多勢に無勢でみるみるその手足に傷が増えていく。


 ――やめて


 狐面衆の短刀が、ついに正確にヒオウの太ももをとらえ、脚を貫かれたことでがくりと膝を着きそうになる。


 ――お願い、やめて


 彼女の腕が、脚が、短刀に貫かれ、血に塗れていく。


 ――やめて、お願いだから、やめて……!


「……あ、ぐっ!? ……ねぇ、おっさん、さっきから随分攻撃が嫌らしいじゃないこのエロオヤジ」

「なんとでも言うがいい。負け犬の遠吠えは実に耳に心地よい……ああ、そうだ、その四肢縫い留めて、そこの玩具の前で皆で犯し抜く、というのも悪くないなぁ?」

「こン、の……とんだ変態親父が……っ! がぁ!?」


 瞬く間に、彼女が地面に引き倒され、拘束されてしまった。

 周囲で上がる、ただ見ているだけの者達の下卑た嘲笑に、心が罅割れた音が聞こえた。



(……やめて……やめて、お願い、もうやめて……っ! これ以上彼女を傷つけないで――――っ!!)


 鳴らない喉で、何故声が出ないのかと嘆きながら絶叫する。ぼたぼたと、両目から涙が零れた。


「ほぅ……お前でも、そのような顔が出来たか。ふん、そうして可愛げのある顔を見せて入ればもう少し可愛がってやったものを……」


 すっと手を上げた父上殿の所作で、狐面衆の動きがヒオウを地面に押さえつけた状態で止まった。


「では、お前の足で私の下へ来い。そうすればその娘は見逃してやるとしよう」


 その言葉に、ばっと顔を上げる……周囲も手は止めており、こちらの動向を伺っている。


「駄、目――ッ! 行っちゃ駄目、このくらいなんともない、助けるから……っ! 駄目よ……!?」


 こんなになってまで、それでも私を助けようとあがく彼女に、ああ、やはり今世でも彼女は彼女なんだな、と、諦観と共にぼんやりと考える。

 

(……ごめんなさい、また、貴女を幸せにできなかった……)


 ふらふらと、まだ若干麻酔が残ってふらつく足で立ち上がる。慙愧と、悔悟に苛まれながら、一歩踏み出す。


「止めなさい!? くそ、お前達、離せぇ!?」


 さらにもう一歩。父上殿との距離がまた僅かに縮まる。この残り10歩程度の距離は、私がまだこうして人で居られる残りの時間。


 もう一歩――せっかくまた逢えたのに、私はもう貴女を主とは呼べないのだと、絶望が胸を覆っていく。


 もう一歩――私が今まで頑張って耐えていたのは、全部無駄だった。


 もう一歩――それどころか、そのせいで、こうして彼女を危機に晒してしまった。


 もう一歩――これならば、あのお披露目の日、大人しく傀儡にされていた方がずっとマシだった。


 もう一歩――それならば、あの時終わっていれば、彼女がこうして傷つくことも無かったのに。


 もう一歩――もう、嫌だ。生まれ変わったのなんて全て無駄だった。それならばいっそ、さっさと自我でも何でも奪って、望み通り玩具に変えて。


 もう一歩――それなら、ただの玩具なら、何も考えなくて済む……


 もう一……













「……駄、目、だああぁぁああ!! 『Burn out』!! オーバァァアアアアヒィィィイイイトォ!!!」




 ゴッ、と背中ですさまじい轟音が上がった。背後から、真っ赤な光が立ち上がる……背後から降り注ぐ眩い程の炎の灯りに、驚愕に踏み出そうとした足が一瞬固まった瞬間、激しい衝撃と共に誰かに抱えられ、視界が、一瞬で横へと跳んだ。


 そのまま奴らを振り切って、凄まじい勢いで木々の間を駆け抜けていく。同時に、凄まじい勢いで彼女から力が抜けていく。燃え尽きていく。


 見上げると、歯を食いしばって前だけを見据えた彼女も顔。あまりに異常な能力上昇幅に、何が起こっているのか彼女を精査スキャンする。


 ――悲鳴が、出そうになった。


 一言で言えば異常。過剰に燃やされた魔力を送り出す器官……心臓が早鐘のように脈打っており、加速された、魔力を過剰に含んだ血流が全身を異常加熱させている。

 当然、そんなことをすれば傷口からの出血だって――!


(なんで! 私を置いていけばあいつらは追ってこない! そんな危険な力の使い方をするなら、それであなただけ逃げればいいのに!?)


 抗議の意を込めてどんとその胸を叩くと、逆にぎゅっと抱きしめられる。

 ぽた、ぽた、と頬に彼女の血が垂れる。頬を滑ったそれが、口の端から入り込み、口内に血の味が広がる。


「駄目、あなたは絶対奴らには渡さない……!」

(なん、で……っ!?)


 離してくれない彼女に、もう一度どんとその体を叩いても、そのたびに私を抱く腕に力が込められた。


「だって……そんなに悲しそうじゃないっ! 放っておけるわけないじゃない!?」

(貴女に傷ついて欲しくないのに! 貴女には生きて幸せになって欲しいのに!!)

「そんな、悲しそうに泣いているあなたを放っておいて逃げられるわけない! そんな事をしたら後悔する! 幸せになんて絶対なれないよ!!」


 動かない筈の表情筋が、くしゃりと歪む。

そうだ、彼女は、こういう人だった。記憶も、力も無くなっていても、私の敬愛した彼女はずっとこうだった――っ!


(何で分かってくれないの!? 私は貴女に傷ついて欲しくないのに!!)

「何で分かってくれないのよ!! わたしはあなたに泣き止んで欲しいのに!!」


 腹が立つ。私の気も知らないで!

 壊れた喉に、それでも空気を肺いっぱいに吸い込む――全ての激情を込めて空気を震わせることのない喉でそれでも吐き出す!




(こっの……頑固者ぉ!!)

「こっの……頑固者ぉ!!」






 ……しばし、静寂が訪れた。今のやり取りを、冷静になりつつある頭が理解し始め、驚愕がじわじわと沸き上がってくる。

 ヒオウも、私の顔を凝視して、その目がみるみる驚愕に開かれていく。


「……あ、れ。わたし、何を言って……幻聴……?」



(――――っ!?)


 ――ドクン、と心臓が跳ねた。


 ドクドクと、激しく暴れ出す。何かが、ここから出せと、催促するように。


 ……まさか。


 …………ここに、『ある』、の?




「……っと、ごめん、本当は、二人で逃げ切るつもりだったんだけど、限、界……あなただけでも……」


 最後まで、私の事ばかり気にかけている彼女に、首を振る。


(ううん、大丈夫。降ろして、あなたはもう休んでいて)

「あなた、また……!」


 一瞬、ヒオウが怒りに顔を歪めるが、その私の様子を見てすぐに怒気を引っ込めた。


「……そう、自暴自棄になった訳じゃ、ないのね?」


 こくりと、その言葉に頷く。


「そっか……それじゃ、ゴメン、任せた……終わったら一緒に帰って、ゆっくりのんびりしようか」


 頷く。


「せっかく……京都にきたし、ゆっくり休んだら、色々と観光デートもしよっか……」


 頷く。それは、本当に楽しみだ。せっかく外に出たのだから、色々見て回りたい。彼女も一緒なら、きっと楽しい。


 彼女の背から、ついに炎が勢いを消し、立ち止まり、意識を失って崩れ落ちた。

 その腕の中から抜け出すと、苦労しながらも手近な木にもたれさせる。




 気が付くと、周囲は再び五体の狐面衆に囲まれていた。だけど、今はもう不思議と恐れは無い。


(貴女は、十分に助けてくれた……今度は、私が助ける……だって、私は――」


 服の上から心臓のあたりを掴むと、ドクッ、ドクッ、と、未だ激しく心臓が脈打っている。いや、これは……


「……ふん、小娘は力尽きたか。所詮、無駄なあがきだったな。これで分かったろう、諦めてこちらに……む?」


 背後から聞こえる父上殿の言葉が途切れた。私の様子がおかしいと気が付いたのだろう。


 ――これは……この心臓の鼓動は、そう……










 ――高揚だ。








 嬉しい。


 ……嬉しい!



 全身が、歓喜に打ち震えている。


 前世の私は、彼女のために作られた。


 私は、彼女のために生まれた!


 何故かは分からない。だけど今、前世で喪失したはずのつながりを確かにここに感じている。全身の細胞が、喜びに震えているのを感じる――失った契約が、再締結された……!


 そっと、私の心臓の前に手を差し伸べる。


(お願い、来て……『――――』……っ!)


 私の胸の中から、爆発的な光が炸裂し、『それ』が姿を現した――……


 ――もう、絶望は、欠片も残っていなかった。

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